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バベルの塔

Pieter Brueghel the Elder [Public domain], via Wikimedia Commons

 

 

 

 

 

明日6/25の礼拝は、創世記11章1~9節を開きます。バベルの塔のお話です。

バベルの塔の物語のメッセージとは何でしょう?一緒に聖書のメッセージを読み解いていきましょう。

礼拝は、10:30からです。どなたでも参加できます。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

目に見えない神様を見る

すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
II列王記6:16-17

列王記には、イスラエルの王たちの記録が残されていますが、I列王記の終わりからエリヤの物語が始まり、II列王記の初めにはエリシャの物語が記されています。イスラエルの歴史、特に北イスラエル王国の王たちは神様に従って歩む者が表れませんでした。北イスラエルは、指導者が真の神様に対する信仰を失ってしまっているので、混乱しますが、エリヤとエリシャはそんな北イスラエル王国で神様を指し示し、神様に仕える預言者たちを育成していきます。ひときわ混乱を極める時代にあって、エリヤとエリシャが他の人々とは全く違うものを見ながら過ごしていたのだという事がよくわかる事件がII列王記6章に記されています。

北イスラエルとアラムが戦争状態にあった時、アラムの軍の動きはイスラエルに筒抜けになっていました。それはイスラエルの王様の指揮が良かったからではなく、神様がエリシャを通して助言を与えたからでした(II列王6:8-10参照)。そこで、アラムの王はまずエリシャを打とうと考えます。アラムの王は大軍を送ってエリシャがいるという町を包囲しました。大軍が迫っているのを見た者たちは恐れますが、エリシャは平然としていました。若い者がエリシャに「どうしましょう。」と問いかけたところ、エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と応えます。エリシャと共にいる仲間たちはそんなに多いわけではありません。ましてや兵士たちでもありません。目に見える所では、アラムの大軍を前に絶体絶命の状態にあります。しかしエリシャが神様に祈って、「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈ったところ、若い者の目が開け火の馬と戦車、神様の大軍勢がエリシャたちと共にいるのが見えました。エリシャはこの神様の大きな守りが見えていたので、アラムの軍勢を前にして平然としていたのです。

この後、エリシャは逆にアラムの軍勢の目が見えなくなるように神様に願います。そして目が見えなくなったアラムの軍勢を案内して、北イスラエルの首都サマリヤの街の真ん中まで連れて行き、そこでアラムの軍勢の目が見えるように神様に祈ります。アラムの軍勢が目が見えるようになるとすでに勝負はついていました。彼らは北イスラエルの軍勢に包囲されていたのです。イスラエルの王はエリシャの進言通り、アラムの軍勢をもてなし、国へ帰らせます。

この箇所はとても興味深い箇所です。エリシャが神様に願って若い者が見えるようになったり、アラムの軍勢が見えなくなったり…と、見える、見えないという事を繰り返しています。それによって何が見えているかよりも、何を見ているかの方が大切なのではないかという事を教えているように思います。エリシャは真の神様への信仰をしっかりと持ち、目には見えない神様を見ていました。だから目に見えているアラムの軍勢に恐れませんでした。冷静になったことで、この状況で争わずに、一滴の地も流さずに解決するように事を運ぶことができました。神様の奇跡を目の当たりにすることができたのです。混乱した時代にあってもエリシャは目に見えない神様の見守りをいつも見ていたので、平和でした。私たちもぜひ神様に目を開いて頂いて、神様の見守りをいつも見ていたいと思います。どんな困難な状況に思えても、ちゃんと神様の見守りがあると見えていたら安心です。ヘブル11:1には「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。私たちも目に見えない神様を見るようにして、この方に希望を置いて祈りたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 4, 5月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • プレイズジャムのために
  • 教団の各教会のために
    • 特にみずほ台教会のために
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映画『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』を観る前に知っておきたい7つのこと

『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』

アメイジング・ジャーニー

原題:The Shack
原作:ウィリアム・ポール・ヤング著『神の小屋』
監督:スチュアート・ヘイゼルダイン
出演:サム・ワーシントン、オクタヴィア・スペンサー、アヴラハム・アヴィヴ・アラッシュ、すみれ
クロックワークスさん、いのちのことば社さんの特別なお計らいを頂き、映画『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』を一足先に鑑賞させて頂きました。とてもいい映画でした。石田純一さんの娘さん、すみれさんがハリウッド映画デビューということで、日本でも話題になっています。
原作はキリスト教をベースにしたお話になっていますので、キリスト教に馴染みのない方には、聞きなれない言葉等もあるかと思います。そこで映画を観る前にいくつかの点をおさえておくと、より映画の内容を深く味わえるのではないかと思います。
1. 三位一体 (さんみいったい)

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キリスト教の神は三位一体の神と言われています。
三位一体とは、

  • 父なる神
  • 子なるイエス・キリスト
  • 聖霊なる神

が別々の存在(三つの位格=三位)でありながら、一つであるという神秘を表しています。ややこしい話ですが、そういう存在なのだということですね。
神の愛は、この三位の神様を一体とするほどに強い愛であると言われています。

2. イエス・キリスト
Andrew Shiva / Wikipedia, via Wikimedia Commonsクリスマスは、子なるイエス・キリストの神が、人間となって生まれて下さったことをお祝い知る日です。ですので、イエス・キリストは100%神であり、100%人間であると言われています。
イエス・キリストは約2,000年前にイスラエルで、イスラエル人として生まれました。聖画等でよく見られるイエス・キリストは西洋の白人が多いですが、イスラエル人なので、本当はもうちょっとアラブ民族っぽいのではないか?と言われています。
3. 聖霊なる神
聖書には聖霊は風のように思いのままに吹くと言われ、ヘブル語では、風という意味の言葉と、聖霊の意味の言葉は同じです。
目には見えない風のようなお方ですが、信仰者の内側に住み、神様の言葉(聖書)を理解させ、導く存在であると言われます。
また信仰者の声に出せない思い、悩み、悲しみを理解して下さり、父なる神様に届けて下さるお方であると言われています。
4. 善悪の知識の木
Lucas Cranach the Elder [Public domain], via Wikimedia Commons神が最初に世界を造られた時、エデンの園には善悪の知識の木が植わっていました。
神は、最初の人アダムとエバに、エデンにある他のどんな木の実も食べて良いが、善悪の知識の木の実だけは食べてはならないと言いました。
しかしアダムとエバは「神のようになりたい」と願い、食べる者に善悪の知識を与えるという木の実をとって食べました。これが人間の最初の罪と言われています。
人間は、善悪の知識を手に入れましたが、何を基準にして善悪を判断しているのでしょう?それが映画の大きなテーマとなっていきます。
5. 十字架
キリスト教信仰の要めは、イエス・キリストの十字架の贖いです。
イエス・キリストは、全ての人の罪の身代わりとなって、十字架にかかり死んでくださいました。イエス・キリストの十字架の犠牲のゆえに、全ての人の罪は赦されました。
劇中でも十字架の犠牲に関しての議論があります。イエス・キリストの十字架をどう捉えるかが、キリスト教信仰の鍵です。
6. 復活
Szymon Czechowicz [Public domain], via Wikimedia Commonsイエス・キリストは十字架で死なれましたが、3日目に復活されて今も生きておられると言われています。復活された時には、十字架刑の時に打たれた釘の跡が腕に残っていたと言われています。
キリストを信じる者は、キリストの復活と同じようにされ、死んでも生き返ることが約束されています。
7. 神と共にいること、いないこと

聖書では、神から離れて生きることが罪だと言われます。すべてのいのちの与え主である神から離れると、必然的に人間は滅びます。
またイエス・キリストは「インマヌエル(神は私たちと共におられる)」とも呼ばれると聖書に書かれています。神と共にいることが人間にとって一番の幸いで、一番その人らしく生きていけることだと聖書は語ります。
神から離れることが罪で、神と共にいることが祝福であるという事ですね。

7つのことを書かせて頂きました。
映画の原題はThe Shack(小屋)という意味ですが、shackには「同棲・共に住む」という意味もあるそうですね。
日本語のタイトルは「アメイジング・ジャーニー」ですから「あっと驚く旅」という意味になっています。映画を観ながら、キリスト教の福音に触れる旅を深く味わって下さい。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

揺れ動く民に近づいてくださる神様

その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
I列王記17:24

イスラエルの王ソロモンは晩年、神様から心が離れてしまいました。続くレハブアム王の時代に王様の神様離れは深刻になり、王国も引き裂かれてしまいます。イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国は分裂し二度と一つとなることはありませんでした。列王記は続けてきたイスラエル王国、南ユダ王国の王たちを次々と列挙しています。特に北イスラエル王国は不安定な時代ですべての王が神様に背き、クーデターに次ぐクーデターによって王が交代していきました。北イスラエルの王アハブはそれまでの王よりも最も神様の前に悪を行ったと記されています。彼は神様への祭壇を破壊し、代わりにバアルやアシェラなどの他の神々への信仰を国民に強要しました。そのような時に突然現れたのが預言者エリヤです。

エリヤは神様のことばをアハブに宣言しました。2, 3年の間は雨が降らなくなる。そしてその言葉どおり雨が全く降らなくなり、作物は実らず、北イスラエルは苦しい時代を迎えます。この時代、本当に苦しかったのはイスラエルの民一人ひとりであったと思います。王たちによってもたらされた信仰的な混乱と雨が降らないことによる食料的な混乱が襲ってきているのです。そのような思いはツァレファテの女性(17:12)や、エリヤの言葉に対する国民の沈黙(18:21)からもうかがえます。ツァレファテの女性は、残り少なくなった食べ物を食べて死のうとしていました。何を信じていいかもわからず、食べ物もなくなり、ただ悩みの内に死のうとしています。また「いつまでどっちつかずによろめいているのか」というエリヤの言葉に対してイスラエルの国民は沈黙しました。どっちについても死ぬんだろうという不安と恐怖から、ただ苦しい現実の前に沈黙するしかない国民の様子が描かれています。このような混沌とした時代に、真の神様への信仰を貫いて生きるのはとても勇気のいることです。おそらく人間はそこまで強くはありません。

神様はこのような困難の時代に、とても身近に働き、大きな力を発揮される方です。エリヤも人間ですから食べ物が無くては死んでしまいます。神様はしばらく、ケリテ川のほとりでカラスによってエリヤを養いました。神様は、雨の降らない2, 3年の間、そのまま人知れずにエリヤを養う事も可能でした。しかし神様はエリヤをツァレファテの女性の許へ連れて行きます。このツァレファテの女性はイスラエルの国民の象徴です。まことの神様を信じていたつもりだけれども、神様の前に絶対に正しくはありえない、だから今の苦しい現実は神様からの罰かもしれないと思っている女性です(17:18参照)。アハブ王の宮殿にいる預言者オバデヤも同じような事を言っています(18:9参照)。私たちの信仰はエリヤのように強固なものではないかもしれません。だから苦しい現実があると苦しい現実と信仰との間で揺れ動いてしまいます。しかし神様はそのようなツァレファテの女性と共に歩もうとされます。エリヤを送り、わずかであったかめの中の粉と、つぼの中の油が尽きないという奇跡を起こしてくださいました。さらに一人息子がよみがえるという奇跡も起こしてくださいました。周りの苦しい現実は変わっていません。それは確かに真の神様を捨てたイスラエルの国全体の罪の表れかもしれません。しかしそこから救い出そうとしてくださるのも神様です。ツァレファテの女性は苦しい現実の中で神様の救いを体験しました。この後、聖書はこの女性の事を記してはいませんが、おそらくこの女性は一生涯神様への信仰を貫いたと思います。北イスラエル王国は宗教的には混乱した国ですが、その中でしっかりと神様と共に歩むことができたであろうと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 4, 5月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖書の学び会のために
  • スマイル合唱団のために
  • 教団の神学生のために
  • 南大沢チャペルのために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様が目を留めて下さる神殿

だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。
I列王記8:38-39

列王記第一に入りました。列王記にはその名の通り、イスラエルの代々の王たちの記録が残されています。列王記の初めは、ダビデからソロモンに王位が移っていくところから始まります。ソロモンの治世はイスラエルの国の歴史で最も平和な時であったかもしれません。また間違いなく最も栄えた時でした。6章からソロモンは神殿建設に着手します。神殿の構造は、モーセの時代に造られた会見の天幕と相似形になっていますが、大きさは比較にならないほど大きく、また持ち運びできないものとなりました。神殿が建てられた場所はユダヤの伝承によれば、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山(創世記22章)、ダビデが自分の罪のために買い取ったアラウナ(オルナン)の打ち場(IIサムエル24章、I歴代21章)と同じ場所であると言われています。

神殿が完成した時にソロモンは神様にいけにえを捧げて、祈っています。今でいえば献堂式を行っているのです。この祈りはとても長い祈りですが、とても内容の濃い祈りです。ソロモンはとても大きな神殿を建てましたが、神様はもっと大きなお方なので、このように大きな神殿を建ててもお住まいにはなれないだろうと祈っています(8:27)。完成した大きな神殿を目の前にしながらソロモンの祈りを聞いていた民は、神様の大きさに愕然としたことでしょう。この神殿もとても大きいけれど、神様はもっと大きいのかと視覚的にも味わったことと思います。しかしソロモンは、この神殿に神様が目を留めて下さって、民が神様を覚えて神殿に向かって祈る祈りを聞いてくださるように求めています。この神殿は神様がイスラエルにおられるという象徴であり、神様がイスラエルの民に目を留めて下さっていて、祈りを聞いてくださることの象徴なのです。実際、この神殿はイスラエルの礼拝と祈りの儀式が毎日行われる場所となり、神様の律法、言葉が熱心に語り告げられる場所となります。それらの儀式の中心はあくまで神様です。神様が目を留めてくださっているからこそ、全ての儀式には意味があります。ですからソロモンは神様が常にこの神殿に目を留めていてくださるように祈っています。

またソロモンは、その同じ祈りの中でイスラエルの民の責任についても言及しています。神様の祝福はご利益宗教的な物ではありません。心はともかく、やることやればもらえるというような自動販売機的なものでもありません。神殿に向かって祈る民の心に、果たして本当に神様を第一とする心があるのかどうかという事も大事なことです。神様を信頼していないのに、神様に祈るというのは普通はできないことです。ソロモンは全ての人の心の中をご覧になる神様が、その心に応じて報いてくださるように祈っています。また神様に背いたことのない人はいないという事もソロモンは分かっていて、罪の赦しをも祈り求めています(8:46)。民が心から悔い改め神様に祈る時に、神様が赦して下さるようにと祈っています。

ソロモンの祈りに対する神様からの返答は9章の初めに記されています。神様はソロモンの祈りを聞き入れ、この宮を神様の名を置く場所、神様が昼も夜も目を留めてくださる場所、民の祈りを聞かれる場所としてくださることを約束してくださっています。今日、この神殿は失われていますが、イエス・キリストの御名によって信じる者のうちに神様はこの神殿を建てて住んでくださっています(IIコリント6:16参照)。ですから私たちが心から神様を求め祈る時に、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。感謝していつも神様の言葉に聞き、祈りたいと思います。

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 4, 5月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 教団の3人の神学生のために
  • 宣教師の先生方のために
  • 川越教会のために