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祈祷会メッセージとお祈りの課題

家を建てるものが捨てた石

イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
ルカ20:17

ルカ1920章には、イエス様の十字架が迫ってきている緊張感が描き出されています。律法学者、パリサイ人、祭司たちとの議論は加熱し、律法学者たちは「イエスを殺そうとねらっていた(ルカ19:47)」ことがあちらこちらに出てきています。1920章ではイエス様の権威について議論が起こっています。イエス様は明らかに神様としての権威、救い主としての権威をもって振舞っておられましたが、律法学者たちはそれが受け入れられませんでした。ルカ20:1-8で、律法学者たちは貶めようとして権威についての質問をしますが、イエス様はいちいちはっきりとはお答えになっていません。逆にイエス様は律法学者、パリサイ人たちの姿勢について疑問を投げかけています。19:12-27のミナのたとえ話、20:9-15のぶどう園の農夫たちのたとえ話は、パリサイ人、律法学者、祭司たちを批判して語られたたとえ話でした。

パリサイ人、律法学者、祭司たちは神様の言葉を人々に伝える重要な役目を持っていました。また神殿での儀式を通じて人々の祈りと捧げ物を神様に届ける役目を持っていました。彼らは神様と人をつなぐ、神様からの特別な召しを受けていたのです。彼らが神様を見失ってしまったら人々は誰も神様の御心を知ることができなくなってしまいます。ミナを管理する、ぶどう園を管理するということは、彼らが自分たちの生活のための収入を得るという目的以上に、神様の愛する民であるイスラエル国民、ひいては世界中の人々に対して誠実に接するという重要な意味合いが込められています。しかし皆を管理する者も、ぶどう園の農夫たちも王の権威や相続財産にばかり目が向いていて、本当の王の愛の姿が目に留まっていません。またイスラエルの国民、世界中の人たちを人ではなく、ミナやぶどうといった物として見ていたのです。

ぶどう園のたとえ話では、彼らは主人から送られたしもべ、つまり神様から遣わされた預言者たちを殺してしまいます。そして最後には主人の一人息子、イエス様を殺してしまうのです。このたとえ話に登場する農夫たちの考え方は理解に苦しみます。だれが見てもこの農夫たちの行いは悪いものとして映ると思います。イスラエルの群衆もそうでした。20:16で民衆は「そんなことがあってはなりません。」と強く否定しています。しかしイエス様は実際にこのようにして十字架に架かったのです。そんなことはあり得ないのではないかという仕方で、十字架に架かって殺されました。

イエス様は続けて言われます。そのようなイエス様の姿は、家を建てる者たちに捨てられた石のようであると言われました。しかしこの石が礎の石となりました。神様の救いを表す石となったのです。この石は確かに人から見れば価値のない石に見えるかもしれませんが、信じる者にとっては揺るぐことのない確信の岩なのです。本来であればパリサイ人、律法学者、祭司たちは、この石の価値にいち早く気づくことができたはずでした。しかし富や権威など他の事に気を取られて、ぶどう園の農夫のような自分たちの愚かな姿に気づいていません。しかし気づいている人たちもたくさんいました。民衆たちそして、19章の最初に記されているザアカイはイエス様に気づいたのです。そしてイエス様を受け入れ、富や権威への執着から目を離し、イエス様に目を向けることができました。私たちも聖書を読む時、他の事に目を向けるのではなく、イエス様に目を向けたいと思います。

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イースターって何?

イースターとは

最近、町中でもイースターという言葉をよく見かけるようになりましたね。でもイースターって何でしょう?

イースターとは、キリスト教の三大イベントの一つで、イエス・キリストの復活をお祝いする日です。キリスト教の三大イベントはクリスマス、イースター、ペンテコステです。

キリスト教の三大イベント
  • クリスマス … イエス・キリストの誕生を記念する日
  • イースター … イエス・キリストの復活を記念する日
  • ペンテコステ … 弟子たちに聖霊が降られ教会が誕生した事を記念する日

イースターの日の出来事

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聖書には、イエス・キリストは、全ての人の罪を背負って代わりに十字架にかかって死なれたことが記されています。イエス・キリストが十字架にかかること、そして3日目に復活されることは全て、旧約聖書に記されて預言されていましたが、最初は誰一人その預言の意味を理解していませんでした。ユダヤ人たちは、知らず知らずのうちに預言にある通り、イエス・キリストを十字架につけ殺します。イエス・キリストが墓に葬られてから3日目に、イエス・キリストに従っていた女性たちが墓に行ってみると、墓の入り口の大きな岩がどけられ、墓の中は空になっていました。女性たちが戸惑っていると、御使いがあらわれ女性たちにイエスが復活られたことを告げます。

すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。
マタイ28:5-6
女性たちは驚き、他の弟子たちにもこの不思議な出来事を話します。弟子たちも驚きますが、そうこうしているうちに、復活されたイエス様ご自身が弟子たちの目の前に現れます。
弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
ヨハネ20:19-20
こうして、イエス・キリストの十字架と復活は大ニュースとして世界に伝えられていきました。


ハッピーイースターと言いますが、どうしてハッピー?
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新約聖書によると、イエス・キリストの復活は、私たちにとっても大きな意味を持ちます。それはイエス・キリストを信じる私たちも、地上での生涯を終えて後、イエス・キリストのように復活させられ、永遠のいのちを持つことができると約束されているからです。イエス・キリストの復活は他人事ではないのです。だから私たちにとってもハッピーな出来事です。

今年のイースターはいつ?
2017年のイースターは4月16日です。世界中のキリスト教会で、イースターの記念礼拝が行われます。ぜひお近くの教会を訪ねてみてはいかがでしょうか?昭島教会では、イースター礼拝を10:30~12:00の予定で行います。どなたでも歓迎です。
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

愛されているから愛せる

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。
ルカ10:20

イエス様は、9章の初めに12人の弟子を選び、悪霊を追い出し、病人をいやす力と権威をあたえて、町々へ遣わしました。イエス様お一人では回り切れない人々を助けるためでした。12人はイエス様から託されて病人をいやし、悪霊を追い出し、イエス様の福音を宣べ伝えました。その結果もあってか、さらに多くの人がイエス様の事を知り、この後5,000人を超える人々がイエス様の許に集まってきます。10章に入るとイエス様はさらに70人の弟子を選び、同じように町や村へ派遣しています。その合間に、イエス様は弟子たちに、どのような心をもって町や村へ入っていくべきか教えています。

イエス様が悪霊を追い出だし、病人をいやすのは、もちろん愛のゆえでした。イエス様はいつも人々のことを愛し、あわれみ、必要な助けを与えて下さいました。ご自分がつかれている時にでも、助けを必要としている人が来ると、かわいそうに思い癒しを与えました。イエス様は10章の終わりで、隣人をあなた自身のように愛することを教えています。自分の事を大切に思うように、他の人、たとえ気に入らない相手であったとしても、大切に思い、愛を行うように勧めています。「良きサマリヤ人」のたとえはとても有名です。助けることも、癒すことも、福音を伝えることも、相手を思う愛を原動力として行わなければいけません。

イエス様は、無事に悪霊を追い出すことができて喜んでいる弟子たちに仰いました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。」悪霊が服従するのはイエス様の力によるのであって、弟子たちの力によるのではありません。それができたからと言って弟子たちは自分の力を誇ることはできません。また悪霊を追い出す必要があるのは、弟子たちの力をアピールするためではなく、困っている人を助けるためです。隣人を愛するがゆえに悪霊を追い出すのです。ですから自分で悪霊を追い出す機会を準備することもできません。悪霊を追い出す必要に迫られるのは、いつも隣人の都合によるのです。私たちが悪霊を追い出す機会はあまりないと思いますが、隣人を愛する機会は多くあります。そのタイミングは私たちが愛したい時に愛するというよりは、相手のタイミングが大きく関係してきます。イエス様がご自分を犠牲にされて私たちを愛してくださったように、私たちも自分の時間を犠牲にして愛する必要がある時もあります。

隣人を愛するという事はそれだけエネルギーを必要とします。だからこそイエス様はいつも私たちと共におられます。イエス様がいつも無限の愛で私たちを愛してくださっているからこそ、私たちは隣人を愛することができます。イエス様は仰いました。「ただあなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」私たちが何をなしえたか、そういったことで喜びを得ようとすると、私たちの喜びは私たちの能力に制限されます。能力以上に喜ぶことはできませんし、私たちの能力はたかが知れています。イエス様はそんなことで喜ぶよりも、天に名の記されていること、神様が私たちを愛してくださっている事を喜びなさいとおっしゃっています。神様の愛、イエス様の愛は無限です。そしていつでも受け取ることができます。私たちはイエス様に愛されているからこそ、隣人を愛し、隣人のために祈ることができるのです。

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罪の赦しと癒し

しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。
IIサムエル24:24-25

IIサムエルの終わりにはダビデの晩年が記されています。24章は「さて、再び主の怒りが…」と始まり、ダビデが一つの失敗をしていることが記されています。ダビデは人口調査をしてイスラエルの兵士たちの数を数えています。これがどんな罪であったのか、現在ではよく分かりません。人口調査そのものは罪ではないと思えますが、ダビデの動機に大きな誤りがあったものと思われます。I歴代誌21章にも同じ出来事が記されていますが、そこでは、サタンがダビデをそそのかし、人口調査を行わせたとあります。そしてダビデの側近である将軍ヨアブが、人口調査の必要性についてダビデに質問しています。ダビデは側近たちを説き伏せてまで人口調査を行いました。

なぜダビデがそこまでして人口調査に拘ったのか、分かりません。ダビデが自分の力を誇りたかったからだと考えることもできます。神様の力によって建てられたはずのイスラエルの国ですが、ダビデは晩年になって自分の人生の意義を見出したかったのでしょう。自分は生きてきた間にこれだけの業績を残したと示したいがために人口調査を行ったとも考えられます。あるいはお金のためにそれをなしたとも考えられます。税の取り立ては人口調査を基に行いますので、不足を感じていたわけではないが、収益を増やすために人口調査を行ったとも考えられます。いずれにしても、ダビデは何か神様に反抗する心があって人口調査したことを、後で認めて悔い改めています。

神様はダビデに対し、3つの中から罰を選ぶようにと言いました。ダビデはそれに対して、「主の手に陥ることにしましょう(24:14)。」と言っています。神様にお委ねしますという事を言っています。自分で選べばきっとまた人間的な、自己中心的な思いから選んでしまう事になる。しかし神様はあわれみ深いお方であるから公正な裁きをしてくださるというダビデの深い信頼が表れています。ダビデはバテ・シェバ事件の時もそうですが、自分の罪を素直に認め、深く神様に信頼する誠実な心を持っています。罪というのは恥を伴いますから、隠したい、ごまかしたい、逃れたいという気持ちにかられます。しかし私たちもダビデのように誠実に自分の罪を告白し、しっかりと神様に委ねたいと思います。神様は必ず私たちを赦し、その罪の結果の痛みさえも益とすることができるお方なのです。

神様はダビデの言葉を聞き、3つの選択肢の中から最も短い期間の罰を選ばれました。結果的には神様もこの災いを思い直し、罰を下しているみ使いに「もう十分だ。あなたの手を引け(24:16)。」と言っています。神様はダビデに、エブス人アラウナの打ち場に祭壇を築くように言いました。アラウナの打ち場と言うのは、ダビデの住んでいた町の目と鼻の先、モリヤの山の上にありました。ここはかつてアブラハムがイサクを捧げようとした場所です。ダビデは自分の罪のゆえにこのような事態になったことをはっきりと認めていましたので、しっかりとお金を払ってこの土地を買い取ります。そしてそこに祭壇を築きました。I歴代誌を読むとこの場所にエルサレム神殿が建てられることになることが分かります。ダビデが自分の罪のゆえに祭壇を築いたその場所は、かつてアブラハムがイサクを捧げようとして、贖いの尊さを示した場所であり、エルサレム神殿が建てられ、人々の贖い、罪からの救いのために毎日儀式がされる場所となっていきました。神様はダビデの生涯の汚点さえも、良い物に変えて用いてくださるお方なのです。

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ダビデの家族の確執と和解

それで、ヨアブは王のところに行き、王に告げたので、王はアブシャロムを呼び寄せた。アブシャロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブシャロムに口づけした。
IIサムエル14:33

IIサムエル11~12章でダビデが、ウリヤの妻バテ・シェバのことで罪を犯します。神様はダビデに対して、「あなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす(12:11)」と宣告します。そして13章からダビデの家族は大変なことになっていきます。

ダビデには妻やそばめたちが何人もいて、違う母親を持つ息子、娘たちが何人もいました。アムノンは異母兄妹であるタマルに好意を寄せ、あろうことか強引にタマルを辱め、その直後に今度は憎しみに駆られてタマルを捨ててしまいます。ダビデをこのことを聞いて、激しく怒りますが、何の対策も打てないでいます。タマルの実の兄であるアブシャロムは、アムノンに対して殺意を抱き、2年がかりの計画でアムノンを殺害します。ダビデは、タマル、アムノン、アブシャロムの息子娘たちの争いに大きな悲しみに暮れることになります。

14章の最後14:33は一見、ダビデが、アムノン殺害後、逃亡していたアブシャロムと和解しているように見えます。しかしこの後、15章に入ると、アブシャロムはダビデ王朝の転覆を謀り、クーデターをおこします。ダビデの家族に対する苦しみはまだ続くことになるのです。2/26には永井先生が礼拝に来てくださって、敵意について説教をしてくださいました。人と人の間に起こる敵意は、簡単には解消することはできません。人を赦すということがとても難しいことであることがよく分かります。ダビデとアブシャロムのような大きな確執はなかったとしても、私たちは簡単に人に対して敵意を抱きます。本当にごくごく些細なことで敵意を抱き、お互い赦し合うことができずにことを大きくしてしまいます。神様はそれほど大きな敵意をキリストによって取り除いてくださっているのです。

ダビデは誠実でとても良い王様として有名ですが、バテ・シェバの事件だけは赦せないと思う方も多いと思います。それは神様も同じでした。ダビデに対する刑罰がどれほど大きなものであったかを見れば、神様がどれほどバテ・シェバ事件を重要視しておられたか明らかです。しかし神様はその悲惨な事件の中にも救いを用意していてくださいます。12:24には次の王となるソロモンの誕生が描かれています。ソロモンの誕生はここではさらっと描かれていますが、あれほど大きな事件の後に生まれた子どもです。世間でもどれだけ冷たい視線で見られたか分かりません。悪い言い方をすれば、ソロモンは不義の子なのです。しかし聖書には「主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名付けさせた。」と書かれています。神様はダビデの家の確執から生まれた、世間からつまはじきにされそうな子を愛され、自ら「主から愛されている」という意味の別名を与えられ、そしてイスラエルの王とされるのです。それは神様が弱い者の味方であり、罪の赦しを宣言し、自らの犠牲によって敵意を取り除く愛を持っておられるお方であることを表しています。そして神様の愛は見えにくいですが、アブシャロムにも注がれています。I列王15章に、ユダの王アビヤムは、アブシャロムの娘を母としていたことが書かれています。ダビデ王家の中にアブシャロムの血筋が残されているのです。ダビデとアブシャロムの和解はこの王家の血筋の中にしっかりと残されることになりました。人間の様々な思いが渦巻く中でもしっかりと神様の敵意を取り除く愛が示されていることに感謝します。

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  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
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