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梅情報2

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見ごろです。

近くにお越しの際は、ぜひご覧ください。

教会でお茶を飲んでいかれてもいいですよ。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

ダビデの誠実

この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行なう者には、その悪にしたがって報いてくださるように。
IIサムエル3:39

サムエル記第二に入りました。イスラエル初代の王サウルは戦死し、ダビデがイスラエルの王となっていきます。IIサムエルの最初はダビデが王になるまでの間の事を記しています。ダビデは今までずっと、サウルに追われて命を狙われていました。サウルが死んだ今は、非常識な言い方かもしれませんが、敵が倒れたので形勢逆転し、喜びの時を迎えているのかもしれません。3章の最初にありますように、ダビデの家はますます強くなり、サウルの家は日に日に衰えていきました。敵がいなくなったのですから、一気に相手方に攻め入って決着をつけ、ダビデ王朝を確立する時なのかもしれません。しかしIIサムエル1~4章までのダビデは今一つそこまでの気持ちになれていないようです。

ダビデの部下たち、ヨアブや兵士たちが勝利のムードに包まれている中、ダビデはなぜか悲しみ、泣き、怒っていることが多いです。サウル王の死に悲しみ、敵方の将軍アブネルの死のために泣き、サウルの息子であるイシュ・ボシェテを丁重に葬っています。またサウルが死んだのは自分の手柄だとダビデに報告に来た者や、イシュ・ボシェテの下手人を罰し、ダビデの意に背いてアブネルを打ったヨアブを叱責しています。これらのダビデの行動は何を意味しているのでしょうか?一つ考えられるのは政治的な思惑があったからということです。ダビデとサウルは敵対していましたが、もともとは一つの国、一つの家族のような存在でした。ダビデとサウルが争う事で一番被害をこうむっていたのは、イスラエルの国民であったかもしれません。国のトップが2つに割れて争っていたのですから、国の内政は後回しになりますし、内線ですから戦争のダメージは国の中にたまります。早く和解してほしいというのが、イスラエルの人々の一番の願いであったことでしょう。それがダビデがサウルを倒して王となるというのは、結局のところ、クーデターなのです。クーデターで王となり、国を安定させていくには、国民の理解が不可欠です。3:36には国民がダビデを認めている場面が記されています。このためにダビデはあからさまなまでの悲しみを演出したとも考えられます。

しかしもう一つ考えられることは、ダビデは兵士たちやヨアブたちとは人生に対して、神様に対して違う見方をもっていたということです。兵士たち、特にヨアブという人物は、自分たちの力で内戦を終わらせるという現実的な見方をしていました。それが将軍の仕事かもしれません。彼らのやり方は、大河ドラマでは定番です。確実に火種を消し、地盤を堅固なものとするやり方です。しかしダビデはそのような見方をしていませんでした。ダビデは長い逃亡生活の末、神様に信頼することを覚えました。自らの力で物事を進めていくのではなく、神様の導きに従う事を学んだのです。サウルが王となったのも神様の御心であり、サウルが王位を退くのも神様の時があり、ダビデが王となるのも神様の時があると確信していたからこそ、ダビデは自分で事を進めようとはしませんでした。そしてイスラエルの人々と共に、同じ国民である、サウル、アブネル、イシュ・ボシェテの喪に服したのだと思います。それは敵味方を問わず神様にあって誠実を尽くすダビデの生き方でした。悪をもって悪に報いるのではなく、神様に信頼し、人に対して誠実で居続けるダビデに見倣いたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 2月に新しく来られた方々のために
  • 愛餐懇談会、葬儀セミナーのために
  • 宣教ツアー(今日まで)のために
  • 桜ヶ丘教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

主への信頼

どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。
Iサムエル25:28

神様はサウルに代わってダビデを王とすることに決めていました。しかしサウルからしてみれば、ダビデは赤の他人ですので、いざこざが続きます。聖書はこのいざこざを神様からの視点で描いています。神様がサウルから離れたのでサウルは苦しみ、ダビデを呪うようになります。ダビデに対しては、神様はいつも恵みを与え、数々の危機からダビデを守りました。ダビデも神様をいつも慕い求めていました。

今日はIサムエル25-26章が日課になっています。この辺りはダビデがサウルに追われ逃げ回る箇所です。ダビデは誰を信用していいか分からず、あっちこっちと逃げ回らなければなりませんでした。そんな中、ダビデはナバルの妻アビガイルに助けられます。ダビデは以前ナバルとその一族に優しく接していたようです。ダビデはナバルはダビデを助けてくれるのではないかと思い、使者を送り助けを求めます。しかしダビデがイスラエルの王サウルの敵となっていることを知ると、ナバルはダビデに対して恩を仇で返すようになります。しかしその知らせを聞いたナバルの妻アビガイルが、すぐさまダビデに謝罪に行きます。そしてダビデの要請通り、食料を与えダビデを助けました。ダビデはこの賢いアビガイルのもてなしにほっと一息をつくことができたと思います。

このあたりの章を読んでいると、常にダビデの周りには戦争がありました。読んでいると、ダビデは重い甲冑を脱ぐ暇があっただろうかと思います。そして重い甲冑以上に、ダビデの心にかかるストレスはとても大きなものであったことでしょう。ナバルとの戦闘を避けることができた事は、アビガイルの想像以上にダビデにとって安らぎを与えることになりました。

ダビデとアビガイルの会話を読んでいると、主という神様の名前が頻繁に出てきます。ダビデもアビガイルも、主に深く信頼していたことが分かります。この世界にある全ては主によるのだという事を、彼らが固く信じていたことが分かります。ダビデにとってみれば、どこに真実があるのか、誰が味方なのか、この先どうなってしまうのか、様々な不安が付きまとう日々です。人を頼ることはできず、また神様がいらっしゃらなければ、人間的に考えれば明日にでも自分は命を落としているに違いないという日々です。ダビデはどこへいくにも、何をするにも神様に伺いを立てました。すべてを神様に委ね、神様の御思いの通りに進むのでなければ、自分のいのちはありませんでした。アビガイルも同じように主を慕っていました。そしてアビガイルは確かに主がダビデを導いて守っておられることを知ったのでしょう。ダビデに対して、ダビデを持ち上げる言葉とも取れますが、励ましの言葉ともとれる25:28の言葉を述べたのです。

私たちの生活も、ストレスのかかる生活であると思います。それは未来が見えないことからくる不安であるかもしれません。しかしダビデを守って下さっている神様は、私たちも守って下さいます。私たちがダビデのように主に信頼して、主の示しされた道を生きる時、その道は必ず守られた道筋となります。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集っておられる兄姉、ご家族のために
  • 最近新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 次聖日の聖餐礼拝のために
  • 宣教ツアーのために
  • 小金井教会のために
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梅情報

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一分咲きというのでしょうか?大分咲き始めています。

 

 

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こちらは12月頃から咲いている山茶花です。山茶花と椿の違いは花の散り方を見ると分かるのだそうで、こちらは花びらパラパラと散っているので山茶花だそうです。寒椿か山茶花かと言われると、どちらか分かりません。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様は私の心を知っておられる

しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」
Iサムエル16:7

Iサムエル15章には、イスラエル初代の王サウルが失敗し退けられる決定的な場面が記されています。そして続く16章には神様が新しい王ダビデを選ぶ物語が記されています。実際にダビデが王となるまでにはまだしばらくの時間がりますが、神様の霊はすでにサウルから離れダビデに移っていることが16章に記されています。

サウルもダビデも、神様がイスラエルの王として選ばれました。そのどちらにも共通しているのは、神様は容姿や能力によって判断したのではないという事です。サウルは次第に神様から心が離れてしまうのですが、選ばれた時には誠実でわきまえを知っていた男性でした。エッサイは自分の息子たちの中に神様が選ばれた子どもがいると知って、長男から順にサムエルに紹介します。サムエルが抱いた長男エリアブの第一印象は「確かに、主の前に油そそがれる者だ」という好印象でしたが、神様はエリアブを選んではいませんでした。神様は「人はうわべを見るが、主は心を見る。」と仰っています。神様はダビデの心を見たうえで、ダビデを選ばれました。

詩篇にはダビデの詩篇と言われる物が多く収められています。詩篇139篇は、神様が私たちの心をすべて知っておられるお方であることを賛美している詩篇です。139:1-2にはこのようにあります。「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。」神様は私たちの心を探り極めておられるお方です。神様の前では私たちは隠し事はできません。神様の偉大さを感じるとともに、とても恐ろしいことのように思えます。実際、Iサムエル15章でサウルは、サムエルに対して自分の失敗を取り繕うとしますが、神様に心のすべてを見抜かれています。サムエルは言い訳をしようとするサウルに対して「やめなさい。」と一喝しているのです。私たちは悪いことをしてしまうと、それを隠そうとする誘惑にかられますが、神様は全てをご存知です。

神様が私たちの心を知っておられる恐ろしさを覚える反面、私たちに慰めも与えてくださいます。私たちの心に抱く言葉にならないようなうめきや苦しみ、悩みも神様は理解してくださいます。私たちは悩み事があると友達に相談したりしますが、友達に自分の気持ちを100%伝えることは困難です。また必ずしも理解してもらえるとも限りませんし、逆に友達に大きな負担を背負わせてしまう事にもならないかと考えてしまったりもします。しかし神様は言葉によらず。聖霊によって私たちの心を100%理解してくださいます。誤解されることは決してありません。また私たちの悩みを聞いて負担が増し加わって世界を治めることができなくなるということもありません。そうなったら大変ですが。私たちは遠慮なく神様に相談することができます。詩篇139篇の最後はそのように神様が私たちの心を知って下さっている安心と共に、「どうぞ私の心を知って下さい」と自ら明け渡している内容になっています。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」私たちも私たちの心を見てくださるお方を前に、罪に対しては誠実に、そして平安をもって自分の悩みを明け渡していきたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集っておられる兄姉、ご家族のために
  • 聖餐礼拝のために
  • 教団の各教会、代議員総会、宣教ツアーのために
  • みずほ台教会のために