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鳥取地震のためにお祈りします

鳥取で続いている地震で被災されている皆様のためにお祈りいたします。

神様の平安がありますようにお祈りしております。

断続的に続いている揺れが少しでも早く収束に向かいますように。

生活が支えられ、健康が守られますように、お祈りしております。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

共同体としての聖

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:2)

ガラテヤ人への手紙のテーマは、律法と信仰義認についてと言われます。私たちが救われたのは、神様の恵みによります。キリストが十字架にかかってくださったことにより、私たちは救われました。キリストの十字架は私たち人間から始まった事ではないので、私たちはその救いを感謝して受け取るだけです。ところが問題となるのは、ユダヤの律法についてです。ユダヤの律法は神様から与えられたものです。多くのユダヤ人が守ろうと頑張ってきましたが、守り切れる人はいませんでした。人間の罪の問題がそれを許さないからです。しかし神様は私たちに聖霊を与えて下さっています。聖霊の導きによって私たちは律法の精神である愛の生活ができるようになります。ですから重要なことは律法の行いを守っているかというよりも、聖霊の導きによって生活しているかの方が重要となります。私たちきよめ派と呼ばれる教団は、それを聖霊に満たされて歩むと呼んだりします。

この夏、教団の修養会で、内山先生が教会員同士の関係性について話して下さいました。先週伝道者の学び会で、その時教えられたことを互いに振り返ったのですが、宮川先生が分かち合って下さったことが印象的でした。聖霊に満たされて歩む、聖霊の導きによって歩むことを目指す私たちですが、時にそれは個人的な歩みのことだけに集中してしまうことがあります。すると教会員同士で比べ合ってしまって、傷ついたり傷つけたりしてしまいます。それでは本当の教会の姿とは言えません。何のために聖霊の導きを求めているのか分からなくなってしまいます。そうではなくて、パウロがここで言う通り、私たちは互いの重荷を負い合って、教会員同士で助け合って、共にキリストの体を建て上げていく事が大切です。個人的にきよめを追究することも重要ですが、教会全体としてお互いに助け合い、祈り合い、励まし合いながら聖霊の導きを求めることも重要です。

ガラテヤの教会はもしかしたら、互いに律法の行いができているかいないかで競い合ったりさばき合ったりしていたかもしれません。もしかしたら、教理的な問題で議論し合っていただけというよりは、ただ互いに自分の方が上だ、自分の方が正しいという傲慢さのために競い合っていた人もいるかもしれません。パウロは4-5節で自分の行動をもう一度よく振り返ってみなさいと勧めています。そうすれば他の人に対してそんなに誇れる行動をしていないということがよく分かるでしょうと言っています。完全な人はいません。誰かより誰かが抜きん出ているということもありません。それぞれがそれぞれに良い物を持っており、かけている部分を持っています。だからこそ私たちはパズルのピースのように互いにかけているところを補い合うことができます。そのようにして互いに助け合い、補い合うことで、教会員同士の関係性を保ち、キリストの体を建て上げていくことを目指したいと思います。

これからお祈りをしていきますが、祈祷会に出ているからどうだとか、祈祷会に出ていないからどうだという事ではなくて、純粋に仲間のために、キリストの家族のために互いに祈り合いたいと思います。

お祈りの課題

  • 23日の伝道礼拝のために
  • 30日の宣教礼拝、宣教フェスティバルのために
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 小金井教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様からの福音

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1:11-12)

ガラテヤ人への手紙に入りました。ガラテヤ人への手紙はパウロの手紙の中でもかなり口調の厳しい手紙です。書かれている内容は、神学用語でいえば義認論、義と認められることについてです。面白い事に、義認論とは何ですか?と聞かれた時にどう応えるによって、パウロが問題としていることが見えてきます。パウロは、人はどのようにして義と認められるかという視点から、神様はどのようにして人を義と認めて下さったかという視点へ変えようとしています。微妙な違いですが、主語が違います。神様が主体か、人が主体かということです。パウロは、人が救われる、義とされるのは、神様によるのだということを書いています。

パウロは11-12節で、パウロが受けた福音は、人から受けたものではなくて、神様から受けたものだと書いています。福音とは英語で言えば、Good newsです。良い知らせ、良いニュースです。ニュースというのは、ふつうは、私たちの外から入ってくる情報をニュースと言います。お知らせと言います。たまにはお知らせを発信する側にもなりますが、今まで知らなかった事を聞くといのが、ニュース、お知らせです。自分で見つけた情報、自分の中から沸き起こってきたことはニュースとは言いません。それは発見です。体験です。福音も私たちは今まで知らなかったのです。それは私たちの外から入ってきた情報です。私たちの内側から沸き起こった物ではありません。もし私たちの救いというのが、私たちの内側から沸き起こってくるものだとすれば、私たちはそれを福音、Good news、良い知らせとは呼ばなかったと思います。変革とか、新体験とか、そういう呼び方をして、こういうことをすれば自分は変われるみたいなことを教え合うようになったと思います。しかし福音とは、私たちの外側、私たちの知らなかったところから、神様の側からもたらされました。だから良い知らせ、Good newsなのです。パウロはローマ5章で私たちが神様を知らないどころか、まだ神様に敵対して歩んでいた時に、キリストが私たちのために死んでくださっとと書いています。それによって私たちは義と認められ、神様との平和を保っています。私たちはこの良い知らせをただ受け取るだけでした。まず私たちの側から「神様、ごめんなさい。」と言ったから赦されたのではなく、神様の側から先に「あなたを赦すよ。」と言われ、次に私たちは「神様、ごめんなさい。」と言うことができたのです。

このように神様からの良い知らせを受け取ることから始まった、信じる事から始まった信仰、義認、神様との関係ですから、信仰生活はいつも神様から始めるのが一番です。私たちは神様の愛に触れたので、目に見える行動においては、愛の行動をしようと心がけています。神様が愛してくださったので、私たちも愛し合いたいと思っているだけです。でもそれを外から見ると、この「神様が愛してくださったので」という部分が目に見えないので、ややこしい話になります。私たちが愛の行動をするから、私たちはクリスチャンであるかのように見えてしまします。しかし本当は違います。神様から始まっているのです。この微妙な違いをパウロは手紙の中で書いています。福音は神様から始まりました。私たちの信仰も神様から始まっています。すべては人間から始まったのではなくて、神様から始まったのです。

お祈りの課題

  • 10月の集会のために
    • 女性リトリート、聖書塾、JHA関東聖化大会、伝道礼拝、宣教礼拝、宣教フェスティバル
  •  昭島教会のみなさんのために。
  • みずほ台教会のために。
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10/23スペシャルサンデー

10月の特別集会

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10月23日(日)10:30

特別ゲストを迎えた礼拝です。

東京フリー・メソジスト小金井教会の男性コーラス「ギデオン・ブラザーズ」です。メンバーのオリジナルの賛美歌を歌って下さいます。

また同じく東京フリー・メソジスト小金井教会の矢花祈修養生が聖書のお話をしてくださいます。

どなたでもご参加いただけます。

お気軽にお越しください。

席上献金の時間がありますが、献金は会費や参加費ではありませんので、ご用意が無い方はそのまま献金袋を隣の方へ回して下さい。

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祈祷会メッセージとお祈りの課題

宝の民

きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。(申命記26:18-19)

申命記に入っております。祈祷会の回数の関係で、申命記は今日一回だけで申し訳ありません。申命記は、イスラエルの民が約束の地カナンに入っていく直前、モーセがイスラエルの民に最後に語った説教だと言われています。その内容は、神様が今まで教えてこられた律法をもう一度思い起こして語っています。今までのイスラエルの歴史を振り返り、律法を書き直し、祝福を祈る祈りで閉じています。この長い申命記を一回で話したかどうかはわかりません。おそらく何回かに分けたと思います。今では、申命記を3つに区分して読んだりします。ちょうど27:1にありますが、「ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。」同じような言葉が5章の初めにもあります。これを区切れ目として、1-4章、5-26章、27-34章と3つに区分して、モーセの第一の説教、第二の説教、第三の説教と分けますとキレイですよね。内容も大体、歴史の振り返り、律法、呪いと祝福と分けることができます。

そういう分け方でいきますと、26章は律法の最後の部分になります。25章は誠実さについて、弱い物を憐れむことについてなどの教えと言えます。物を測るはかりは正しい物を使いなさいですとか、兄弟の家を絶やさないようにしなさい。喧嘩の時に相手の急所をつかむなというものまであります。最後に、アマレク人の事についてちょっと触れられていて、「アマレク人は情け容赦のない民だった。」と言われています。暗に、イスラエル人はアマレク人のようになるなと教えているわけです。26章は、捧げ物についての教えです。捧げ物をちゃんと間違いなく納める事。この捧げ物は神様への感謝として捧げますが、土地を持たない祭司たち、レビ人たち、そしてみなしご、やもめたちに配られます。神様への感謝と、彼らへの助け合いの精神が同時に込められているのです。それの捧げ物をないがしろにしないように語られています。

こうして第二の説教の最後に締めくくりの言葉が書かれています。16節には「心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行おう」と書かれています。似たような言葉が申命記には繰り返されています。申命記のキーワードの言葉です。イスラエルの律法とは、神様とイスラエルの民を結ぶ絆です。神様はイスラエルの神様となり、イスラエルの民は神様の民となるという約束を表す絆です。ですから、この律法がある限り、神様とイスラエルの関係は続いていて、神様はイスラエルの民を祝福し続けて下さいます。律法の精神は、25-26章の律法にも記されている通り、愛と誠実さと配慮です。神様にとってはイスラエルの民は宝の民なのです。神様はイスラエルの民を愛しています。だからイスラエルの民のために、エジプトから救い出し、カナンの地まで連れてこさせ、カナンの地では存分に祝福を与えようとしておられます。神様は、神様とイスラエルの関係においても、イスラエルの民同士でも、同じ愛と誠実と配慮をもって互いに接してほしいと願っておられます。それが律法に反映されています。

神様は私たちのことも宝の民とみて下さっています。ですから私たちも神様を愛し、お互いに愛し助け合う関係を築いていきたいと思います。

お祈りの課題

  • 10月の諸集会のために
    • 聖書の学び会、せいねんうんどうかい、女性リトリート、聖書塾、JHA関東聖化大会、伝道礼拝、宣教礼拝、宣教フェスティバル
  • 昭島教会のみなさんのために
  • 南大沢チャペルのために