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祈祷会メッセージとお祈りの課題

悪者が見ているもの、神様が見ているもの

あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。不幸な人は、あなたに身をゆだねます。あなたはみなしごを助ける方でした。(詩篇10:14)

この詩篇は、苦しみの中にある人が神様に祈っている詩篇です。悪者について書かれていて、おそらくこの悪者によって虐げられている人が書いた詩篇なのでしょう。詩篇は、詩なので人それぞれ味わって頂ければいいと思うのですが、今日私がこの詩篇を読んでいて特に目に留まったのは、「見る」ということについてでした。「彼の目に、入らない(5節)」、「彼の目は不幸な人を狙っている(8節)」、「彼は決して見はしないのだ(11節)」、「あなたは見ておられました…じっと見つめておられました(14節)」とあります。悪者の視線と、神様の視線について書かれているのです。

悪者は、こう考えています。4節にあるように、彼は神を尋ね求めません。「神はいない」と言っていると書かれていますが、これは原文では、「自分を裁く神などいない」という意味の言葉だそうです。神の存在を否定しているのではなくて、神は自分を裁こうとしないのだと言っているのだそうです。確かに続く詩篇の言葉を見ますと、悪者は神の存在を否定しているというよりは、神様は私の事など見ていないと言っています(11節等)。自分を裁くことができる存在はない。そう考えているからこそ、彼は堂々と悪事を働くことができます。悪者はいつも弱い存在、不幸な人を狙って、そういう人を食い物にして、自分を高めようとしています。こういったことをこの詩篇は、悪者が見ているものは何かということで表現しています。「彼の目は不幸な人を狙っている(8節)。」

さらにこの詩篇ではもう一つ悪者が見ていない物を挙げています。それは神様の存在です。悪者は神様を見ていないのです。「あなたのさばきは高くて、彼の目に、入らない(5節)。」悪者は自分を裁く神などいないと言って、神は自分を見ていないと言っていますが、神が自分を見ているか見ていないかの前に、自分が神を見ていないんですね。これが面白いなと思います。自分が神様の事を見ていないのに、あたかも「神というのはこういう存在だ」と分かったような口ぶりをしているのです。そして神様は悪者を見ていないと決めつけてせっせと悪事を働いています。

しかし実際は、神様は全てをご覧になっています。「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました(14節)」あなたは、見ておられました。じっと見つめておられました。と2回繰り返して神様が見ておられるということを強調しています。悪者は「神は自分の事など見ていない」と思っていましたけれど、自分が神様の顔を見ていないので、神様の目を見ていないので、神様が何に目を向けているのか分かっていないのです。神様は全てを見ておられます。詩篇の作者は神様を見ていました。神様は全てを見ておられると信じていました。だから神様に祈ることができます。あなたは正義のお方です。愛のお方です。みなしごを、悪者が付け狙っている不幸な人を助けて下さる方です。どうか救いの御手をのばしてくださいと祈っています。

日本にいると、神様を信じている人が少ないので、とてもみじめに感じることもありますが、ぜひ神様は全てをじっと見つめておられることを信じて私たちも祈りたいと思います。

お祈りの課題

  • クリスマスの準備のために
  • クリスマスの諸集会のために
  • 11月の役員会のために(新年度計画を話し合います)
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 八王子教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

あなたの道をまっすぐにしてください

主よ。私を待ち伏せている者がおりますから、あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください。(詩篇5:8)

詩篇に入りました。詩篇はその名前の通り、たくさんの詩が納められています。多くはダビデ王が書かれた詩篇と言われています。今日の詩篇5篇も表題に「ダビデの賛歌」と書かれています。「フルートに合わせて。」とも書かれていますが、おそらく曲になっていたのでしょう。楽譜が無いのでどんな曲だったのかは分かりません。ダビデ自身も竪琴の奏者でしたので、作詞作曲をしたのかもしれません。

このような歌の形式をとっていますが、内容は祈りです。ダビデの心からの祈りが歌になっています。今日の詩篇は、苦しみの中で、悩みの中で神様を求める内容の祈りになっています。具体的にどんな状況であったのかは分かりませんが、不当な扱いを受けていたのだろうということはなんとなく分かります。ダビデの人生は戦いの人生でした。国内外の戦争に翻弄され続けた人生でした。多くの敵がいたことです。ダビデはその時々において、このような祈りを捧げていたと思われます。

ダビデはまず神様に自分の祈りを聞いてくださいと訴えて、次に神様の正義について歌っています。神様は不正を許される神様ではなく、公正に裁かれる神様であると歌っています。悪を喜ぶ神様ではないと歌っています。だから悪を行う者は自然と神様を避けます。裁かれることを恐れているからです。ですが今回、ダビデは自分は悪を行っていない、悪を行っていないのに悪を行っているかのように不当に扱われているので、神様の前に来て、祈っていますと歌っています。

不当に扱われている時の悩みは本当に辛いものです。今まで誠実に行ってきたはずなのに、なぜ周りから非難されるんだろうか?いったい何が間違っていたんだろうか?と考えます。そして神様の御心が本当に分からなくなります。神様はどこへ私を導きたいんだろうか?それとも神様は私の事を忘れてしまったんじゃないだろうかと思います。ダビデはそのような時に、神様にこの祈りを祈ったのだと思います。ダビデは神様から忘れられてしまったかもと思った時に、神様から離れていかないで、むしろ神様に近づこうとしました。「あなたの家に行き、あなたを恐れつつ、あなたの聖なる宮に向かってひれ伏します(7節)」と歌っています。そして「あなたの義によって私を導いてください。私の前に、あなたの道をまっすぐにしてください(8節)。」と祈っています。導きが分からなくなるくらい混乱している状況の中で、あなたの道をまっすぐにしてください。そして私がその道を歩めるようにと祈っています。

ダビデは困難な時にこそ、神様が見えなくなるような時にこそ、神様を求めました。私たちも神様に祈ることができます。ダビデのように辛い時にこそ祈りたいと思います。なんとなく辛いことがあるとふさぎ込んでしまいがちですが、神様は私たちの悩みを理解してくださるお方ですから、神様に近づいて祈りたいと思います。そしてどうぞあなたの道がはっきりと見えるようにまっすぐにしてくださいと祈りましょう。

お祈りの課題

  • 10/30(日)宣教礼拝、宣教フェスティバルのために
  • クリスマスの準備のために
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 桜ヶ丘教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

共同体としての聖

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。(ガラテヤ6:2)

ガラテヤ人への手紙のテーマは、律法と信仰義認についてと言われます。私たちが救われたのは、神様の恵みによります。キリストが十字架にかかってくださったことにより、私たちは救われました。キリストの十字架は私たち人間から始まった事ではないので、私たちはその救いを感謝して受け取るだけです。ところが問題となるのは、ユダヤの律法についてです。ユダヤの律法は神様から与えられたものです。多くのユダヤ人が守ろうと頑張ってきましたが、守り切れる人はいませんでした。人間の罪の問題がそれを許さないからです。しかし神様は私たちに聖霊を与えて下さっています。聖霊の導きによって私たちは律法の精神である愛の生活ができるようになります。ですから重要なことは律法の行いを守っているかというよりも、聖霊の導きによって生活しているかの方が重要となります。私たちきよめ派と呼ばれる教団は、それを聖霊に満たされて歩むと呼んだりします。

この夏、教団の修養会で、内山先生が教会員同士の関係性について話して下さいました。先週伝道者の学び会で、その時教えられたことを互いに振り返ったのですが、宮川先生が分かち合って下さったことが印象的でした。聖霊に満たされて歩む、聖霊の導きによって歩むことを目指す私たちですが、時にそれは個人的な歩みのことだけに集中してしまうことがあります。すると教会員同士で比べ合ってしまって、傷ついたり傷つけたりしてしまいます。それでは本当の教会の姿とは言えません。何のために聖霊の導きを求めているのか分からなくなってしまいます。そうではなくて、パウロがここで言う通り、私たちは互いの重荷を負い合って、教会員同士で助け合って、共にキリストの体を建て上げていく事が大切です。個人的にきよめを追究することも重要ですが、教会全体としてお互いに助け合い、祈り合い、励まし合いながら聖霊の導きを求めることも重要です。

ガラテヤの教会はもしかしたら、互いに律法の行いができているかいないかで競い合ったりさばき合ったりしていたかもしれません。もしかしたら、教理的な問題で議論し合っていただけというよりは、ただ互いに自分の方が上だ、自分の方が正しいという傲慢さのために競い合っていた人もいるかもしれません。パウロは4-5節で自分の行動をもう一度よく振り返ってみなさいと勧めています。そうすれば他の人に対してそんなに誇れる行動をしていないということがよく分かるでしょうと言っています。完全な人はいません。誰かより誰かが抜きん出ているということもありません。それぞれがそれぞれに良い物を持っており、かけている部分を持っています。だからこそ私たちはパズルのピースのように互いにかけているところを補い合うことができます。そのようにして互いに助け合い、補い合うことで、教会員同士の関係性を保ち、キリストの体を建て上げていくことを目指したいと思います。

これからお祈りをしていきますが、祈祷会に出ているからどうだとか、祈祷会に出ていないからどうだという事ではなくて、純粋に仲間のために、キリストの家族のために互いに祈り合いたいと思います。

お祈りの課題

  • 23日の伝道礼拝のために
  • 30日の宣教礼拝、宣教フェスティバルのために
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 小金井教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様からの福音

兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1:11-12)

ガラテヤ人への手紙に入りました。ガラテヤ人への手紙はパウロの手紙の中でもかなり口調の厳しい手紙です。書かれている内容は、神学用語でいえば義認論、義と認められることについてです。面白い事に、義認論とは何ですか?と聞かれた時にどう応えるによって、パウロが問題としていることが見えてきます。パウロは、人はどのようにして義と認められるかという視点から、神様はどのようにして人を義と認めて下さったかという視点へ変えようとしています。微妙な違いですが、主語が違います。神様が主体か、人が主体かということです。パウロは、人が救われる、義とされるのは、神様によるのだということを書いています。

パウロは11-12節で、パウロが受けた福音は、人から受けたものではなくて、神様から受けたものだと書いています。福音とは英語で言えば、Good newsです。良い知らせ、良いニュースです。ニュースというのは、ふつうは、私たちの外から入ってくる情報をニュースと言います。お知らせと言います。たまにはお知らせを発信する側にもなりますが、今まで知らなかった事を聞くといのが、ニュース、お知らせです。自分で見つけた情報、自分の中から沸き起こってきたことはニュースとは言いません。それは発見です。体験です。福音も私たちは今まで知らなかったのです。それは私たちの外から入ってきた情報です。私たちの内側から沸き起こった物ではありません。もし私たちの救いというのが、私たちの内側から沸き起こってくるものだとすれば、私たちはそれを福音、Good news、良い知らせとは呼ばなかったと思います。変革とか、新体験とか、そういう呼び方をして、こういうことをすれば自分は変われるみたいなことを教え合うようになったと思います。しかし福音とは、私たちの外側、私たちの知らなかったところから、神様の側からもたらされました。だから良い知らせ、Good newsなのです。パウロはローマ5章で私たちが神様を知らないどころか、まだ神様に敵対して歩んでいた時に、キリストが私たちのために死んでくださっとと書いています。それによって私たちは義と認められ、神様との平和を保っています。私たちはこの良い知らせをただ受け取るだけでした。まず私たちの側から「神様、ごめんなさい。」と言ったから赦されたのではなく、神様の側から先に「あなたを赦すよ。」と言われ、次に私たちは「神様、ごめんなさい。」と言うことができたのです。

このように神様からの良い知らせを受け取ることから始まった、信じる事から始まった信仰、義認、神様との関係ですから、信仰生活はいつも神様から始めるのが一番です。私たちは神様の愛に触れたので、目に見える行動においては、愛の行動をしようと心がけています。神様が愛してくださったので、私たちも愛し合いたいと思っているだけです。でもそれを外から見ると、この「神様が愛してくださったので」という部分が目に見えないので、ややこしい話になります。私たちが愛の行動をするから、私たちはクリスチャンであるかのように見えてしまします。しかし本当は違います。神様から始まっているのです。この微妙な違いをパウロは手紙の中で書いています。福音は神様から始まりました。私たちの信仰も神様から始まっています。すべては人間から始まったのではなくて、神様から始まったのです。

お祈りの課題

  • 10月の集会のために
    • 女性リトリート、聖書塾、JHA関東聖化大会、伝道礼拝、宣教礼拝、宣教フェスティバル
  •  昭島教会のみなさんのために。
  • みずほ台教会のために。
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

宝の民

きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。(申命記26:18-19)

申命記に入っております。祈祷会の回数の関係で、申命記は今日一回だけで申し訳ありません。申命記は、イスラエルの民が約束の地カナンに入っていく直前、モーセがイスラエルの民に最後に語った説教だと言われています。その内容は、神様が今まで教えてこられた律法をもう一度思い起こして語っています。今までのイスラエルの歴史を振り返り、律法を書き直し、祝福を祈る祈りで閉じています。この長い申命記を一回で話したかどうかはわかりません。おそらく何回かに分けたと思います。今では、申命記を3つに区分して読んだりします。ちょうど27:1にありますが、「ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。」同じような言葉が5章の初めにもあります。これを区切れ目として、1-4章、5-26章、27-34章と3つに区分して、モーセの第一の説教、第二の説教、第三の説教と分けますとキレイですよね。内容も大体、歴史の振り返り、律法、呪いと祝福と分けることができます。

そういう分け方でいきますと、26章は律法の最後の部分になります。25章は誠実さについて、弱い物を憐れむことについてなどの教えと言えます。物を測るはかりは正しい物を使いなさいですとか、兄弟の家を絶やさないようにしなさい。喧嘩の時に相手の急所をつかむなというものまであります。最後に、アマレク人の事についてちょっと触れられていて、「アマレク人は情け容赦のない民だった。」と言われています。暗に、イスラエル人はアマレク人のようになるなと教えているわけです。26章は、捧げ物についての教えです。捧げ物をちゃんと間違いなく納める事。この捧げ物は神様への感謝として捧げますが、土地を持たない祭司たち、レビ人たち、そしてみなしご、やもめたちに配られます。神様への感謝と、彼らへの助け合いの精神が同時に込められているのです。それの捧げ物をないがしろにしないように語られています。

こうして第二の説教の最後に締めくくりの言葉が書かれています。16節には「心を尽くし、精神を尽くして、それを守り行おう」と書かれています。似たような言葉が申命記には繰り返されています。申命記のキーワードの言葉です。イスラエルの律法とは、神様とイスラエルの民を結ぶ絆です。神様はイスラエルの神様となり、イスラエルの民は神様の民となるという約束を表す絆です。ですから、この律法がある限り、神様とイスラエルの関係は続いていて、神様はイスラエルの民を祝福し続けて下さいます。律法の精神は、25-26章の律法にも記されている通り、愛と誠実さと配慮です。神様にとってはイスラエルの民は宝の民なのです。神様はイスラエルの民を愛しています。だからイスラエルの民のために、エジプトから救い出し、カナンの地まで連れてこさせ、カナンの地では存分に祝福を与えようとしておられます。神様は、神様とイスラエルの関係においても、イスラエルの民同士でも、同じ愛と誠実と配慮をもって互いに接してほしいと願っておられます。それが律法に反映されています。

神様は私たちのことも宝の民とみて下さっています。ですから私たちも神様を愛し、お互いに愛し助け合う関係を築いていきたいと思います。

お祈りの課題

  • 10月の諸集会のために
    • 聖書の学び会、せいねんうんどうかい、女性リトリート、聖書塾、JHA関東聖化大会、伝道礼拝、宣教礼拝、宣教フェスティバル
  • 昭島教会のみなさんのために
  • 南大沢チャペルのために