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祈祷会メッセージとお祈りの課題

悲しい事を良い事へ変えるお方

ですから、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、神なのです。神は私を、ファラオには父とし、その全家には主人とし、またエジプト全土の統治者とされました。
創世記45:8

創世記は37章から主にヨセフの話を描いています。ヨセフはヤコブの11番目の息子です。ヤコブはヨセフを溺愛し、他の兄弟たちよりもたくさん良い物を与えました。神様はヨセフが若い頃から、ヨセフに夢を通して真理を教えられていました。ヨセフは夢で、他の兄弟たちや父ヤコブがヨセフに頭を下げるようになることを見ます。それを家族に話してしまいます。その結果、他の兄弟たちから強い妬みを買い、兄弟たちはエジプトの商人にヨセフを奴隷として売ってしまいます。

しかし神様はこの悲しい出来事をも用いて、良い事をなして下さるお方です。ヨセフはエジプトで奴隷として生活を始めますが、神様はヨセフをかえりみて下さいました。ヨセフは神様の力によって、いろいろな人々の夢を解き明かします。そしてついにはエジプトの王ファラオの夢も解き明かし、7年の大豊作と7年の大飢饉が来ることを知らせます。ファラオは夢の解き明かしの功績を称え、ヨセフをエジプトでファラオの次に権威ある者とします。ヨセフは7年の大豊作の内に可能な限りたくさんの食料を保管し、7年の大飢饉に備えました。

大豊作の期間が終わり、飢饉が訪れた時、カナンの父ヤコブたちも飢饉で困っていました。そして噂でエジプトには食料がたくさん保管されていると聞き、食料を買い求めるために息子たちをエジプトに遣わすのでした。こうしてヨセフと兄弟たちは再会します。ヨセフは初め、兄弟たちにつれない態度を示し、兄弟たちもヨセフの正体に気づきません。しかし45章ではこらえきれなくなり、ヨセフは自分の正体を明かします。

兄弟たちとやり取りをしている間、ヨセフはきっと様々なことを思い巡らしたと思います。自分が奴隷として売られた事、しかしそのエジプトで不思議なように権威ある立場となったこと、大豊作と大飢饉を事前に知る事ができた事、そして今、自分の家族を守る事ができるようになっていること等です。ヨセフはこれらの出来事をすべて関連付けて考え、それらが全部で一つの神様の導きであったことを悟ります。一つ一つの出来事がバラバラの出来事ではなく、すべてが神様の壮大な一つの計画の中にあったのです。神様の導きは時にそのような人間の想像をはるかに超えます。一つ一つの出来事の中にも神様の緻密なお働きを見て取る事ができますが、すべてを併せて考えると、より大きな神様の計画が見えてきます。

ヨセフはそれを知って神様に感謝する事ができました。そしてその時、兄弟たちに対する攻める気持ちも消えて、赦すことができ、兄弟たちとの再会を喜ぶ事ができました。私たちの周りでも様々な出来事が起こります。そして一喜一憂します。しかしそのままの感情でいきなり人と接するのではなく、一呼吸おいてすべては神様の御手の内にあることを信頼したいと思います。神様はヨセフのように悲しい出来事、辛い出来事をも、良い物へと変える事ができるお方です。今、新型コロナウイルスの拡大の影響で不安も大きい中にあります。これも神様の御手の内にあると思えなければ、ただ苦しくパニックになると思います。しかし神様は全てを治めておられます。主にあって耐え、すべてを神様が最善に導いて下さるようにお祈りしたいと思います。

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神様に信頼し直す

それで、ヤコブは自分の家族と、自分と一緒にいるすべての者に言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」
創世記35:2-3

創世記32章でヤコブは神様と格闘し、33章で兄エサウと和解します。その後ヤコブはシェケムで暮らしていました。34章ではとても悲惨な事件が起こります。ヤコブの娘ディナが地元の族長の息子シェケム(その土地と同じ名前)に辱められ、ヤコブの息子たちがその報復として、シェケムの部族の男たちを皆殺しにしてしまうのです。とても凄惨な事件です。このためヤコブとその家族はもはやこの地に住み続けることが難しくなりました。

35:1で神様はヤコブに語りかけます。「立って、ベテルに上り、そこに住みなさい。」ベテルはかつてヤコブが神様と出会った場所です。ヤコブは若い時に、兄エサウの調子の権利を奪い、父イサクからの祝福も奪い取って、家を飛び出しました。そして叔父の家へ向かう途中、ベテルで神様がヤコブに出会ったのです。神様は着の身着のままのヤコブに大いなる祝福を与えると約束されます。ヤコブは孤独を感じ、全てを失ったかのように感じていたかもしれませんが、神様が共にいて下さるということを初めて経験するのです。そしてそこに石の柱を立て、神様を賛美し、「ベテル(神の家)」という名前をつけました。神様はヤコブに、そのベテルへもう一度戻るように言うのです。神様はヤコブの信仰の原点に立ち返り、もう一度神様を信頼し直すようにと促して下さっているのです。

神様が多くを語らなくとも、ヤコブはその真意を理解しました。そして自分の家族に告げます。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、衣を着替えなさい。私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこに、苦難の日に私に答え、私が歩んだ道でともにいてくださった神に、祭壇を築こう。」自分たちはいつのまにか神様から離れていたかもしれない。神様の前に罪を犯し、シェケムの人たちの前に罪を犯しました。ディナのことはとても許される行為ではありませんが、だからといって人殺しが許されることはありません。今、自分たちは身をきよめ、真の神様以外の全ての偶像を取り除き、苦難の日にヤコブに答え、共に歩んでくださった神様に立ち返ろうと言います。ヤコブの家族たちはみなこの言葉に答え、偶像を捨て、ベテルに帰るのです。ヤコブ達がベテルに着くと、聖書はヤコブの過去を振り返り、ペヌエルで神様がヤコブを祝福された言葉(35:10)とベテルでの神様とヤコブのやり取り(35:11-15)を繰り返して語っています。

私たちは神様が苦難の日に私たちに答え、私たちと共に歩んでくださるお方と信じています。しかし神様は目に見えないお方なので、普段の生活の中でぼんやりとしてしまう事があります。そうして悲しい事件が起こったりすると、もう神様は自分を見捨ててしまったかのように思います。しかしそんなことはありません。神様はいつも共にいて下さいます。なにか信仰がぼんやりしているのではないかと感じる時にこそ、神様は私たちに語りかけているのではないでしょうか。ベテルに帰ろう。神様に立ち返ろうと促して下さっているのではないでしょうか。そのような時にこそ、神様がどのようなお方であったかを思い出し、改めて身を引き締めて、神様に信頼して歩んでまいりたいと思います。

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神様の中に飛び込む

そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。
創世記15:5-6

今日は創世記15章を開きました。創世記は12章からアブラム(アブラハム)の生涯を描いています。12章で神様がアブラムを呼ばれた時、アブラムは75歳でした。すでに高齢でしたがアブラムには子どもがおらず、後継ぎがいませんでした。神様はアブラムに「あなたは大いなる国民となる」と約束されましたが、子どもが生まれることもなく、後継ぎ候補も神様から示されず、10年が経とうとしていました。アブラムは不安になって神様に問いかけます。「私の跡取りは誰になるのでしょう。」すると神様は15:4ではっきりとアブラムに子どもが生まれることを約束されました。続けて神様は15:5で空の星を数えるように言います。アブラムの子孫はその星の数のようになると仰いました。アブラムは神様を信じました。すると神様は、それをアブラムの義と認められました。

聖書は面白い表現を使います。アブラムを義と認めたとは書かず、「それが彼の義と認められた。」と書いています。聖書がいう「それ」とは何のことでしょう?神様が義と認められた「それ」とは一体何のことでしょうか。おそらくその前の一文「アブラムは主を信じた」のことを指していると思われますが、この文もとても簡潔です。アブラムは神様を信じました。「それ」がアブラムの義であると神様はお認めになったのです。

英語で信じる、信頼するという言葉は、believeあるいは、trustです。I believe himでも私は彼を信じるという意味で通じるようですが、宗教的な事柄に関して、あるいは特に強い信頼を寄せているような事柄の場合には、I believe in himとなり、inという言葉をつけます。神を信じるという時にはI believe in God あるい、I trust in Godとなるのです。聖書の元々の言葉であるヘブル語の場合にも同じようなことが言えるようです。15:6のヘブル語の文章では「アマン」という言葉が使役形で使われています。この言葉は単体でも信じるという意味がありますが、15:6では「べ」という英語のinに相当する言葉が添えられています。英語においても、ヘブル語においても、強い信頼を表す時にはinという言葉を添えるのです。しかしなぜinなのでしょう。toやatではなく、in(内側に)です。このin(内側に)には、その中に向かって飛び込んでいくような意味合いがあるのではないでしょうか。ただ「ああ。あそこに神様がいるね」と外側から眺めて信じるのではなく、神様の中に向かって自分を投げ込んでいくような意味合いです。15:6にあるヘブル語の「アマン」は使役形になっていると言いました。使役形とは「自分を~させる」というような意味です。「アマン」には「持ち運ぶ」という意味もあるようで、そのような意味合いで用いると、15:6は「彼は彼自身を神の中に持ち運んだ」という意味になります。それが「彼は神を信じた」といういみになるのです。

ローマ4章でパウロはこのアブラムの信仰について語っていますが、「彼は望みえない時に望みを抱いて信じ(ローマ4:18)」と評価しています。もう飛び込んでしまったので、周りで何が起ころうとも神様から他へ移ろうとしない状態です。アブラムは「神には約束したことを実行する力がある、と確信していました(ローマ4:21)」私たちも神様を信じたいと思います。傍から見ている信仰ではなく、神様の中に飛び込んでいく信仰を持ちたいと願います。

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神様の霊が人を生かす

そこで、主は言われた。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢は百二十年にしよう。」
創世記6:3

創世記を開きました。創世記6~9章にはノアの箱舟と大洪水の話が記されています。今回、通読していて改めて気づいたのですが、大洪水の記録の中には、ノアのセリフが一度も出てきません。代わりに神様はずっと話し続けています。これは他の聖書箇所と比べるととても珍しい特徴ではないかと思います。他の聖書箇所では人物が良くしゃべり、神様は必要最低限の言葉しかお語りにならなかったりします。これはこの大洪水のお話が、神様の目線で記録されていることを示しているのではないかと思います。そう改めて見返しますと、神様がご自分の感情をあらわにしている箇所が多々あります。神様が悔んだり、心痛めたり、という言葉が6章には見られます。神様は人々が地上に増え広がっていくのをご覧になりました。同時に、人の心がいつも悪に傾くのをご覧になりました。そして心を痛めておられます。そして大洪水を決断されるのです。

神様は6:3でこのようなことを言われました。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。」神様の霊を表すヘブル語はルアハという言葉で、「息」や「風」という意味もあります。聖書は、地の塵から造られた人に、神様の息が吹き込まれて生きるようになったと書いています。人の内に神様の霊、息が吹き込まれているので人は生きています。逆に神様の霊、息が去ってしまうと人は生きていけません。人はいくら肉体が健康であっても、神の霊が内に注がれていなければ、生きていけないのです。この真理は創世記の始めから語られ、聖書全体を貫いています。そして創世記6章で神様がご覧になった悲しいことは、私たちの肉がいつも悪に傾いて、神様の霊を受け入れることを拒否してしまう事です。

特に、この神様の霊と肉の関係について詳細に語っているのは、新約聖書のローマ人への手紙8章です。ローマ人への手紙によれば、私たちは肉の思いと神様の霊に従う事を両立させることは出来ません。「なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです(ローマ8:7)」ですから私たちが肉の思いに惹かれて、いつも心を悪に傾けている以上、神様の霊は私たちの内に留まる事ができず、私たちは生きていくができないのです。ローマ8:6はハッキリと言います。「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。」そして私たちはこの肉の思いに傾かないようにするのが、とても難しく、自分の力で克服できないのです。

しかしそのようなみじめな私たちを救って下さったのもまた神様です。キリストの十字架が私たちの肉を処罰し、贖って下さったからです。こうして私たちは肉の思いではなく、神様の御霊に満たされることで生きる事ができるようになります。「キリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、御霊が義のゆえにいのちとなっています。(ローマ8:10)」と書かれています。ですから私たちはキリストの十字架の救いに感謝し、肉の思いではなく、神様の霊に従って歩みたいと思います。神様は私たちをいのちに導くために、神様の霊を豊かに注いで下さるのです。

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十字架の血潮

また、杯を取り、感謝の祈りをささげた後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
マタイ26:27-28

いよいよイエス様が十字架に架かられる時が近づきました。イエス様は12弟子たちと最後の晩餐の時を持ちました。過越しの祭りの時でしたので、旧約聖書の時代から続く過越しの食事の伝統に則って食事をしました(26:17-19参照)。過越しの食事は、出エジプトの時に、神様がイエスラエルの民を救って下さったことをお祝いする食事です。出される一つ一つの食材に意味が込められていて、年長者がその意味を説明しながら食事を食べます。この時はきっとイエス様が説明をなさったのでしょう。そしてイエス様はそれらの食事にもう一つの意味を追加されました。それはこれから起こるイエス様の十字架を覚えることです。

イエス様はパンを取って神をほめたたえ、「取って食べなさい。これはわたしのからです(26:26)」と言われました。また杯を取って感謝し、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です(26:28)」と言われました。この時はまだ弟子たちはイエス様が十字架に架かられるとは想像もしていませんでした。イエス様は度々、ご自分は十字架に架けられて殺され、三日目によみがえると仰っていました。26:2でも十字架のことを話されています。しかし弟子たちには現実味がありませんでした。救い主であり、王であるお方が人々に捕らえられて殺されるなど想像もできなかったのでしょう。しかしこの後、現実にイエス様は捕らえられて、裁判にかけられます。イエス様が捕えられた時、弟子たちは恐ろしくなって逃げてしまいました。ペテロは事の成り行きを見ようとこっそりとついていきますが、人々にイエス様と一緒にいたことを指摘されるとイエス様を3回知らないと言って裏切ってしまいます。

イエス様が十字架に架かられたのは、食事の中でも仰っているように、私たちの罪の赦しのためです。罪とは神様を知らないということであり、自己中心に生きる事です。いつもの生活の中ではもしかしたらあまり意識しないかもしれませんが、そのような心が私たちの中にはあります。そして突然恐ろしい出来事や、苦しいことが起こるとその罪の心が露になります。私たちの罪の心は努力して何とか消せるものではないという事がよく分かります。弟子たちもイエス様を裏切るつもりは毛頭ありませんでした。ペテロも「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません(26:33)」とまで言っています。そんなペテロでさえも、のろいをかけて誓う程にイエス様を知らないと言ってしまいます(26:74)。

私たちの罪の赦し、救いのためには神様の力が必要です。イエス様の十字架の血は私たちの罪を赦し、私たちの罪の心を洗い清める力があります。イエス様は神様であり、救い主であられます。信じる者にはだれにでも罪の心の赦しと救いが与えられます。そのような救いを与えて下さっている神様に感謝します。神様は私たちを愛しておられるので、私たちに救いを与えて下さいます。今一度、自分の心を点検し、イエス様からの十字架による救いを受け取りたいと思います。

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