序
今日は11月30日、キリスト教ではではアドベントの第一週として記念される日となります。アドベントとは、クリスマスを迎える前に備える期間のことです。クリスマスの4週前からスタートして、2週目3週目と数え、4週目のクリスマスを教会の皆さんと一緒に待ち望みます。今日はこのアドベントの第一週にあたります。イエス様がお生まれになったクリスマスを迎える前に、イエス様が生まれることの意味を考えてみたいと思います。
今日お読みしたのは、イエス様が生まれる約700年前に預言された御言葉です。預言者イザヤによって語られたのは、一人の男の子が生まれ、その子が世界に大きな意味を与えるということでした。イエス様の誕生については新約聖書で語られていますが、新約聖書の時代から何百年も前から、イエス様がこの世に生まれることが人々に示されていました。イザヤの時代も、イエス様の時代も、私たちからすれば大昔の話で自分たちに関係がないように思うかも知れません。しかし、イエス様が生まれたことは、他でもない私たちのためなのです。ではそもそもイエス様はどのようなお方なのでしょうか。そして私たちとどのような関係があるのでしょうか。今日の聖書箇所から共に教えられたいと思います。
本論
今回の聖書箇所を見てみますと、イエス様について色々な説明がなされています。イスラエルのベツレヘムという小さな町で、マリアから生まれたみどりご、一人の小さな男の子、しかしこの子こそ神様から与えられた御子なのです。先ほど挙げた4つの名で呼ばれる神様のひとり子がこの世界に生まれ、私たちに与えられたというのが、この預言の内容になります。
ではこれから生まれてくる子どもがどのような子どもなのかと言うと、「主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」と記されています。一つ一つ見てみると、まるで共通点がない呼ばれ方ですが、これらはすべて一人の男の子を表す言葉なのです。
主権はその肩にあるということは、この男の子がただのしるしとしてではなく、実際に神様から権威を与えられることを表しています。そしてそこに続く名として不思議な助言者とあります。この助言者というのは、イザヤの時代でいうと政治にかかわる助言を王様にする人のことを指しています。王様の周りには外交や軍事、あるいはイザヤのように神様からの言葉をもって助言をする助言者がいました。しかしイエス様については、主権を持つ王でありながら、同時にご自身が助言者だと言うのです。言い換えれば、助言者を必要としない王様だということが出来ます。主権を持ち、自分自身が助言者として立つ、このところに不思議さがあります。イエス様は、人の助けや言葉に依存することなく、神様から与えられた権威によって、この世界にお生まれになるのです。
このイエス様の不思議さは、「力ある神」という名前にも表れています。王様であり助言者である方は、人の領域を超えて神ご自身であると預言されています。イザヤの時代に限らず、私たちの周りには神と呼ばれるものがあちこちにあります。また比喩であったり、誇張した表現で神という称号が当てられることもあります。しかしここで語られている神という名は、比喩的な表現ではなく、真の神様を指しています。さらに、力あるという言葉は、まさに神様の属性を表すのに聖書でよく用いられています。力ある神様ご自身が、人の姿となって、それもみどりごとして生まれてくる出来事はまさに不思議として言いようがありません。
続く名には「永遠の父」があります。聖書では、神様を表す属性として、父という側面をたくさん見ることが出来ます。それは神様が、ただ権威者として私たちの上に立つ王様であるだけでなく、私たちと人格的な関りを持ち、私たちを子どもとして愛し受け入れて下さる父としての姿です。また、私たちの保護者として守ってくださるあわれみに満ちた姿でもあります。今、神様を表す父という属性が、イエス様にも与えられていることを教えられます。神様は天の父であり、イエス様はその神様の御子です。しかしここで語られているのは、イエス様は神ご自身であり、その一体の中にあるということです。預言者たちは神様から預かった言葉をもって神様を語ることが出来ますが、イエス様はその存在自体が神様を表し、またその生涯において言葉や行いはすべて神様の御心そのものを表すのです。イエス様の誕生は、この世において神様が来られた驚くべき出来事なのです。そして、そのお方は時間に縛られることなく、永遠に私たちの父として立ってくださいます。
最後に与えられた名として「平和の君」があります。先ほどは神様としての力強さや、王様としての主権を見てきましたが、ここでは平和を築き上げる君主だと表されています。人となって来られた神様は、私たちに平和を与えます。それは、神様と私たちの間の平和、また人との間にある平和、個人の生活においても平和が満たされるということです。私たちは、アダム以来神様との間の関係が崩れてしまいました。世界を見渡すと、人々は神様を忘れて自分勝手に生き、人を傷つけ、争い続けています。そこまで自分勝手に生きていない人も、神様との関係を忘れ、離れて自分の思うままに生きています。先ほども見ましたように、神様は私たちの父です。私たちを子どもとして愛しておられる神様が、私たちと崩れてしまった関係を作り直し、和解しようとなさるのです。神様がイエス様を通して与えようとしている平和というのは、神様との和解であり、関係の修復です。そして私たちが再び神様との関係を回復させることによって、人間が作り出す表面的な平和ではなく、本当の平和を持つことが出来るのです。
イエス様に対する四つの名を見た後で、イザヤの預言は主権と平和について展開します。イザヤがこの預言を語った時代から見れば、イスラエルがダビデ以上の王様によって栄え、平和に満たされることを期待していたかも知れません。しかしここで語られる主権と平和は、この地上における軍事的で人間的なものではなく、神様によるものです。イエス様がこの世に来られることによって、私たちは神様の子どもとして新しく生きていく歩みを持ち、そして最後には、神様の王国の中で、神様の正しさと平和の中で永遠に生きていくこと出来るのです。私たちは、生まれた時からこの世界に縛られて生きていきます。神様との繋がりを失ってしまい、人間の自己中心的な思いに生き、束縛され、神様からどんどんと離れていってしまいます。私たちが神様から離れる罪の状態から、救ってくださるのが、イエス様なのです。
イエス様がこの世に来られたのは、私たちが罪から解放されて、神様の主権と平和のうちに豊かに生きていくためです。なぜそこまでするのでしょうか。それは先ほどお読みした招詞の御言葉で語られています。
John 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
イエス様がこの世に生まれたことも、不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君という名を携えて来られたのも、神様の御子でありながら十字架という苦しみを受け入れたのも、すべて私たちのためです。私たちが、罪によって滅びることなく、神様のうちにある本当の平和と愛の中に招くために、神様は熱心に成し遂げてくださいました。
結
私たちの救い主イエス様の誕生は、ただの過去の出来事ではありません。今を生きる私たちのために、神様はイエス様を世に遣わし、飼い葉桶の中で小さな男の子として誕生しました。誰よりも私たちを愛して下さるお方が、誰よりもその身を低くして、ひとりのみどりごとして生まれ、そして十字架によって死んで復活することで、神様との間にあった壁を打ちこわし、神様の愛のうちに生きる道を与えて下さいました。私たちのために生まれて来られたイエス様を共に信じていきましょう。神様との新しい関係の中で、本当の平和にうちに生きていきましょう。神様は今、私たちを豊かないのちの道に招いています。神様から差し伸ばされた手をとり、共にその恵みの中で歩んでまいりましょう。



