主の栄光の姿~マタイ17:1-8

イエス・キリストはこの地上に弱い赤ん坊として誕生してくださり、私たちと同じように成長の道を歩まれ、そして公生涯において福音を伝え、癒し、奇蹟、解放の御業を行われただけでなく、弟子達と共に歩まれ、その中で多くの真理を示されました。そんなイエス様の歩みの中で天の栄光の姿が湧き出てくるような場面があります。マタイによる福音書17章では変貌山とよく言われる出来事について記されています。高い山にペテロとヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて行かれ、そこでイエス様の姿が変わり、衣も光のように輝き、モーセとエリヤと話し合うという出来事が起こりました。この事の前くらいからイエス様はご自身がキリストであることを弟子達に示し始められました。しかしそれと同時にそのことを人々に話さないようにとも言われました。それはそのことによって神様の思いとは違うメシア像を人々が抱き、曲解してしまわないためでした。そのような中でもご自身が救い主であることを語るだけではなく、その栄光の姿を弟子達に示されたのです。しかし弟子達はどのように受け止めたら良いか困惑しました。天からの神様の声はイエス様の声に従うようにと語られました。事実弟子達にはメシアに関しての混乱もありました。しかしそれを超えたところにある神様のご計画と励ましがありました。主の救いにあずかり、右にも左にも逸れることなく、まっすぐに主の備えて下さる道を歩んでいきましょう。 [Read more...]

主が言われる自己評価~ルカ4:18-24

資本主義社会の中で評価というものが常につきまとい、時として本来の姿とは全く違う評価になっていることがあると想います。 それぞれの特徴を把握するためにカテゴリーで分類すること、例えば理系とか文系ということであったり経歴から来る評価、あることが出来るか出来ないかだけで決められることなど、、、神様が言われることは私たちの価値は計りがたいもので高価で尊いものであり、私達を愛するがゆえにイエス様の誕生、十字架復活という犠牲を伴う愛を示し、救いの道を与えてくださいました。そして私たちひとりひとりには神様の召しが与えられています。 それほどまでに私たちは神様に愛され、期待され、喜ばれている存在です。しかしゼカリヤ書3章に大祭司ヨシュアの汚れた服(罪など)を神様の前にサタンが訴えているように私たちの弱さや罪を日夜訴えている存在がいるのです。私たちはイエス様がされたように主の前でその訴えを退け、また世の評価、価値観よりも主の思いを知り、揺るがないものとして主の前に打ち立てていくことがとても大切です。 みことばを土台として、主の思いを受け止めて揺るがぬ信仰の土台であるイエス・キリストに根ざしていきましょう。 [Read more...]

信仰と希望の継承~ヘブル11:24-26

モーセはヘブル人として生まれましたが当時のエジプトの政策のため命を狙われるという問題に生まれてすぐに直面します。そして母親がカゴに入れて水に浮かべられて誰かが拾って育ててくれないだろうかというようなとても辛い決断の元でパロの娘に拾われ、王の娘の子として育てられます。機転を利かせた姉のミリアムの計らいで実の母であるヨケベデが乳母としてしばらくの間育てることが出来ましたが乳離れし、物心ついた時には宮殿で何不自由なく王の娘の子としての人生を歩んでいました。しかし、ヘブル人への弾圧の中でモーセは自分の中にあるヘブル人としての信仰に目覚めます。王の娘の子として生きることよりも信仰を求めて歩んだのです。この転換に神様のご計画と共に母の祈りや姉の祈りがあったと感じます。最近の医学では胎児の時の親のことばや感情が胎児に与える影響のことも分かってきて胎教ということばも出てきます。モーセの母ヨケベデはレビ人の家系でした。お腹の中にいた時から多くの祈りや賛美の中で大きくなっていたことでしょう。そうした信仰が継承され、芽を出す時に大きな祝福に繋がっていきました。何よりモーセははかない罪の歩みよりも神様と共に歩み、弾圧を共に通ることを選びました。そして新約においては彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。とヘブル人への手紙で記されています。まだ多くの預言書が書かれる前にモーセは永遠のいのち、贖いのことを信仰的に理解していたのです。主にある信仰と希望を持って、信仰のバトンを継承していきましょう。 [Read more...]