主に対する愛を持って仕える~Iコリント12:26-31

 初代教会が建て上げられていく中で当時のシナゴーグでの礼拝や集まりの形態から変化して行きました。それはシナゴーグが地域の集会所や会議をする場所、そして礼拝する場所という特徴と比べて初代教会は使徒達が福音をのべ伝えるようにとイエス様に言われていたその使命を土台として建てられている点が大きく異なります。地域コミュニティの必要を満たす場所から主の必要を満たす場所へとシフトしていったのです。  事実、初代教会は異邦人の地にも宣教していくことを可決し、そしてそのような働きを展開しました。そしてその背後にはパウロやペテロのような使徒達に示されて解き放たれていくということがありました。  しかし、Iコリント12章にはひとりひとりがキリストの体の器官として尊いことが書かれています。お互いがキリストの体の尊い器官として繋がっていく時に体全体が動き出します。  賜物やポジションの違いはあったとしても、主に対する愛によって一致していくことが大切です。その愛を土台とし、また追い求めて共に主に仕えていく時に主はそこに大きな恵みを注いでくださいます。  主の愛に生かされ、主の愛を流し出す器となっていきましょう。 [Read more...]

力を解き放つ信仰~マルコ6:3-7

素晴らしい才能を持っていても大舞台に弱く結果がなかなか出せないこと、またここ一番という時に力みすぎてうまくいかないこと、またアウェーな環境で結果を出していても認められないことなど物事がなかなかスムーズにいかないことを体験したり見たことはないでしょうか? 聖書の中ではなんとイエス様ですら郷里という環境の中で力ある御業をあまり行うことが出来なかったという記事があります。そこにあった要因はイエス様の問題ではなく、受け入れるはずの地域の人々の不信仰であったと聖書は記しています。自分にある同じことを誰かが言ってきたとします。受け入れやすい人と受け入れにくい人、また受け入れない人が存在するのではないでしょうか?そこには独立した情報ではなく、誰を通して伝わってきたかというパッケージの部分がいかに影響するかという問題があります。同じジュースを買うのでもひいきの店やメーカーから買うような感覚です。 でも聖書の中に書かれていることはもっと深刻な問題です。神様の力をイエス様は解き放ち、救いと解放、癒しを地域にもたらしてくださるはずでした。でも民の疑問、動揺、尊敬出来ない思いなどがその道を閉ざしてしまいました。そしてそのことをイエス様は「不信仰に驚かれた」と記しています。現代に生きる私たちからしたらイエス様から直接肉声でメッセージが聴けた彼らをうらやましいと思いますがそうではなかったのです。 そしてその後12弟子に権威をお与えになり遣わされたのです。時に備えるために弟子達を整え、福音を伝えていくためにです。主の奇蹟を信じ、知り、体験し、行い、また解き放つ信仰を持っていきましょう。 [Read more...]

使徒的教会~マタイ10:1-7

イエス・キリストの選ばれた12弟子ですがそこから使徒(遣わされた者・使節という意味・ギリシャ語:アポストロス)ということばが聖書の中で用いられるようになりました。 その働きは霊的権威を持ち、街々に行き、「天の御国が近づいた」と伝えていくことでした。イエス様と共に歩んでいた時にはこの使徒達の行動範囲はユダヤ人の生活圏に限られていました。しかし初代教会が建ち上がってから異邦人にも開かれていき、12使徒と呼ばれる人たち以外にもパウロ、テモテ、シラス、イエス様の兄弟であるヤコブ、アンドロニコ、ユニアス、バルナバなどが使徒として扱われています。ここだけでも狭義においての使徒と広義においての使徒があります。 そして私たちが知っていく必要があることは教会の働きの方向性として使徒、または使徒的という事柄があるということです。それは宣教師のような側面もありますが広義においての使徒ということばを聖書から見ていく時に教会を代表する者、他の文化圏に宣教していく者、また特別な働きのために召された者という方向性があります。 それは教会の霊的地境を広げていく働きです。その土台は大宣教命令に基づいています。聖霊の導きを土台として初代教会は特にその働きが多岐に渡って拡大し、今でいう社会福祉をそういった保証がなにもない時代において独自に展開していきました。それだけでも相当な経済的負担があったはずです。そこからさらに街々に福音を伝え、そこに生まれた教会を励まし建て上げていったのです。現代においての使徒的な働きを理解し共に主にある教会を建て上げていきましょう! [Read more...]