復活の主

復活祭おめでとうございます!イエス・キリストの十字架と復活は私たちに罪の赦しと救いを与える唯一の道であり、聖書の歴史を通して預言されていたことの成就です。そして私たちはその恵みを信じるだけで受けることのできる恩寵の時代に生かされていると共にしっかりと目を覚まして神様の前に立つ時代に生かされています。キリストの死とと共に自分の罪に死に、自我を十字架につけ、自己中心的生き方から神中心な生き方に変えられていく過程においてキリストの復活というのは私たちの目指すべき信仰の完成した姿であり、天国への確信を与えてくれます。罪から来る報酬は死ですがその死を打ち破り生き返ってくださり、今も天においてとりなして下さっているイエス様のことを覚えましょう。そして助け手としての聖霊様によって私たちは日々変えられていくことが可能となります。信じない者にならないで信じる者になりましょう。神様の前にあきらめる者にならずに期待する者となりましょう。しかし高ぶることなく、謙遜な心を持って主に従っていく者となりましょう。


すでに与えられている救い

イースター商戦が過熱化している昨今ですがイエス・キリストの復活、そしてそのいのちに預かることを知らずしてうさぎや卵の飾りやお菓子、料理を食べてもなんにもなりません。しかし、私たちがイエス様のことを何も知らない時から、イエス様のことを知り、信じることによって救いが与えられるようにただ神様の愛ゆえに明確な罪からの赦し、永遠に至る救い、そしてイエス様の思いやりが私たちにも注がれていること、そしてそれはイエス様の霊的苦しみと肉体的苦しみを通り越したところにある死、そしてそのことによって完成した贖いによって備えられていることを覚えます。私たちはイエス様がご自身を十字架につけた人たちのことを神様に彼らは何をしているのか自分で分からないのですと赦しを願いとりなしをされました。私たちは自分で知らずにどれだけの罪を犯しているのか、また私たちの国がどれだけ知らずに、また知っている罪を犯しそれにどのように向き合っているかを見るときにとても償いきれない罪の重さを知ります。聖書は自分の敵のために祈るようにと教えています。報復合戦に愛によって終止符をうつためにイエス様は身をもって模範を示されました。このイエス様の思いを知り、そして私たちに提供されている救いが私たちひとりにとどまることなく私たちをとりまく人々にも溢れ流れていくように、私たち自身の人生の歩みが主によって造りかえられ続けることを心から願います。


断絶と回復

人は誰しも幸せに生きたいと願うと思います。そういった思いを数値化するために幸福度という用語があります。3/20は世界幸福デーということで国連からの調査発表がありました。データをとった155ヶ国の中で日本は51位、この数値はGDPや政治、社会福祉制度をもとにして算出された数値をもとにされているのですが気候的には日本よりも厳しいと思われるノルウェーから始まり、デンマークなど北欧の国が上位を占め、麻薬問題や国境問題で日本からの視点だと大変とも思えるメキシコが25位と上位に位置していたりといろいろと考えさせられるデータとなっています。しかし実際に人生において問題の多くは人間関係です。それは数値化しにくく、個人的主観に左右されます。しかし逆に人間関係が恵まれていると感じられる人生は他に多くの問題があっても本人は幸せな人生でを歩んでいると感じることができるでしょう。ゲッセマネの園においてイエス様が苦しみ祈られたことはあまりにも有名です。これは十字架による死を受け入れるかどうかで苦しんだという視点もあるでしょうがイエス様は生涯のすべてをそのために備えておられました。よく十字架に至る過程を読み解いていくとそこに死の霊的側面、神様との関係が離されるということが大きな事柄として考えられます。関係の断絶は私たちにとっても大きなダメージとなります。しかしイエス様は従順をもってその苦しみを通って下さいました。完全な従順があったからこそ完全な回復、復活がありました。私たちはイエス様ご自身が私が道でありいのちであり真理であると言われていたそのみことばを信じ、歩む時にイエス様が備えてくださった救いを受けることができると同時に神様との関係の回復が与えられます。そしてその愛を知り、変えられていく者となりましょう。


神に帰する心

自分の能力や力、またそれに伴う報酬や賞賛、このようなものを受けるために人の何倍も努力して名誉、地位、権力、財力を手に入れたとしてもそれはいつしか廃れるものであったりそれ故に通る葛藤、また追われる立場になって感じるプレッシャーなど手に入れたと思っても手放しで喜べることばかりでもありません。主の祈りの最後に国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなりとあります。これはすべての栄光を神様に帰していく心です。黙示録には天において長老たちが自分の冠を天の御座の前に置いてひれ伏し礼拝する姿が記されています。一度受けた栄誉を手放したり、またその立場を他者によって追われることは辛く、また受け入れることが困難なことです。しかし、すべての栄誉も、また時として困難な状況をも神様は私たちに与えてくださり、そのことによって私たちを計られます。地上にあることだけでなく天に宝を積む生き方を私たちがしていく時にこの世の富、権力、名声などに惑わされることなくむしろそれらのものを神様のための道具として用いることができるようになります。お金に支配されるのではなくお金を支配し用いる。権力で横暴になるのではなく、その権力を正しく用いて多くの人々を守る覆いとなる。大きな力には大きな責任が伴います。用いる方向性によって祝福にも呪いにもなります。常に神様に栄光を帰し続ける遜った心をもって祝福のうちを歩んでいきましょう!


時を見極める

人生において大切な要素として見極めるというものがあります。夏うっかり出しっぱなしにしていた食べ物が腐っていないか見極めるようなことや大安売りで本当に必要なものかをもう一度考えるような身近な事柄から、自分の人生にとっての大きな選択、決断、そういった物事を見極めたりする大切なことまで私達の周りにはタイミング良く、とか注意するという少し広がりのある意味まで含めると一日の生活の中で最適なこと、正しいことを見極めて生活しています。そういった中で聖書の語っていることを見極め、そして自分にその本質を適応していくことはとても大切です。聖書に書かれていることだからとなんでも同じように時をわきまえずに実生活の中に行っていくならば私達は一種の宗教オタクのような状況になるでしょう。神様の時に神様が語られることを聞き分け、従っていくその本質に信仰があるのであって、結果的に行っている行動になにか超自然的な力があるわけではありません。神様に従うことが大切であってその時に語られて限定的に行われた信仰による行動や預言的行動自体に奇跡を起こす力があるわけではありません。私達は自分の信仰生活において刈り取りという側面と試練という側面を混同せずに主の前にしっかりと立つ必要があります。なんでも試練だ思いこんでしまうと悔い改めも改善もないからです。逆になんでもかんでも刈り取りだと思ってしまうと神経質で恐れに満ちた生活になるでしょう。私達は主にあってみことばに立ち、そしてしっかりと見極めていく知識、品性、感性を主にあって養い育てていく者となりましょう。福音書からイエス様がどのようにされたのか。また使徒行伝以降の弟子達の成功や失敗の中に私達には大きな助けとなるヒントが溢れています。主を知り、時を見分け、力強く歩む者となりましょう。