悲しむものを慰められる神

サムエル記第一1章1節~18節
聖書は昔書かれたものですが、国や時代が違っても人間が受ける苦しみや悲しみには時代や国を超えて共通することが多くあります。そういう意味では、神は聖書を通して今も私たちに語りかけ、また歩む道を示しておられます。
ハンナの苦しみは、子どもが生まれないという悲しみだけではありません。当時、女性の一番の役割は、子を産み子孫を残すことでした。また、子をたくさん産む女性は神様に祝福された者として、周りから尊敬と称賛を受けました。逆に子を産めない女性は神の祝福を受けられない者とみなされ、人々から低く見られ、忌み嫌われました。また、それが理由で離縁されることもあったようです。また、当時は、一夫多妻が認められていました。特に、妻が子を産めない場合は、子孫を残すために、別の女性を妻にすることは普通の事でした。ハンナの夫エルカナもハンナを愛していましたが、彼女が子を産めないゆえに、もう一人の女性ペニンナを妻に迎えていました。
ハンナのもう一つの苦しみは、ペニンナには子が生まれ、彼女が子を産めないハンナをひどく苛立たせたことでした。ペニンナにしてみれば、夫のエルカナはハンナを愛しており、自分は子を産むためだけに妻とされた者です。ペニンナが子を何人産んでも夫の愛はハンナにあります。夫の愛を得られない彼女はどれほどハンナを憎んだことでしょう。それがペニンナがハンナを苛立たせた理由です。特に、宮参りの時、動物の犠牲を神にささげた者は、その一部を祭司から受け取り、食事をすることになっていました。その時、ペニンナは自分と子どもの分を受け取ります。しかし、ハンナは自分の分だけです。エルカナはハンナの気持ちを気遣って、彼女には多めに分け与えますが、それでも彼女の心が慰められることはなく、悲しみで食事をする気にもなりませんでした。そのとき彼女はどうしたでしょうか。サムエル記第一1章10節「ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。」とあります。
もし皆さんがハンナの立場に立たされたらどうするでしょうか。アブラハムもサラも自分たちの子を待ち望みましたが、子を得ることが出来ませんでした。そこで、サラは自分の女奴隷ハガルを夫アブラハムに妻としてあたえました。サラは自分の女奴隷に子を産ませ、自分の子にしようと考えたのです。若いハガルはすぐにアブラハムの子を身ごもりました。しかし、彼女は自分がアブラハムの子を身ごもったことで高慢になり、サラを見下げるようになったとあります。そのとき、サラはどうしたでしょうか、彼女はハガルをいじめたので、ハガルは荒野へと逃げて行ったとあります。サラは自分がアブラハムに妻としてハガルを与えたのに、彼女が高慢になるといじめて追い出したのです。その後、ハガルは神に戒められてサラの許に戻り、身を低くして、男の子を産みました。その子がイシュマエルです。そして、その後サラも身ごもって男の子を産み、イサクと名付けました。しかし、ある日、イシュマエルがイサクをからかっているのを見たサラは、イサクの将来を心配して、アブラハムに、ハガルとイシュマエルを追い出すように迫ったのです。アブラハムはイシュマエルも自分の子ですから悩みましたが、イシュマエルも一つの国の族長になることを神に告げられて、二人を荒野へと送り出したのです。これを読むと、サラという女性は自分勝手な女性のように思えますが、当時としては、自分の子を守るためには必要なことだったのでしょう。
ハンナの場合、同じように夫の愛はハンナにありますから、夫のエルカナに頼んでペニンナを追い出すこともできたでしょう。しかし、彼女はそうせずに主に祈ったのです。11節「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主に渡します。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」頭にかみそりを当てないとは、髪を切らないことです。ユダヤ人の間には昔から「ナジル人の誓願」というものがあり、神に特別な願い(誓願)をする場合、ぶどう酒やぶどうの実で作られた物を食べない、髪の毛を切らないなどの制約をして祈ることがありました。ハンナは生まれた子を神の働きのためにささげるという誓願を立てたのです。この祈りは、ただ単に子どもをくださいという祈りではないことがわかります。もし、この祈りが叶えられ、子を得たとしても、ハンナはその子と生活することはが出来ないわけです。では、ハンナはどうしてこのような祈りをささげたのでしょうか。彼女にとって一番の苦しみは、子を産めないことで、世間から、不幸な女、神の祝福を受けることが出来ない呪われた女性として差別される(蔑まれる)ことではなかったでしょうか。神は彼女の祈りを受け止め、彼女は男の子を産み、その子はサムエルと名付けられました。また、ハンナはサムエルが乳離れした後、神との約束を守り彼を祭司エリに委ねました。この後、ハンナは、三人の男の子と二人の娘を産んだとあります。ハンナとペニンナの関係はどうなったでしょうか。聖書には書かれてありません。想像するとハンナはペニンナを赦し暖かな家庭を築いたのではないでしょうか。
ハンナの取った行動は、難しい道です。人は自分を傷つけた者を赦すことなく、何倍にもして、仕返しをするものではないでしょうか。先程の、アブラハムの妻サラも、自分の立場を守るために自分の女奴隷であったハガルをいじめて追い出しました。私たちは神様にあれをください、これをくをださいという祈りをしやすい者です。ハンナの祈りは、子を与えてくださいという祈りよりも、自分の苦しい立場を神に訴える祈りでした。実は、祈りとは、神様と交わることであり、自分の願いを叶えてもらうためだけにするものではありません。神は私たちの祈りを受け留め慰めてくださるお方です。カウンセラーという仕事があります。以前、カウンセラーの学びをした時、カウンセラーは話を聞くだけで、教えたり、指示してはいけないと学びました。ただ話を聞くだけで問題は解決するのだろうかと疑問に思いましたが、カウンセリングで大切な事は、相手に「共感」することだと学びました。「共感」とは、相手の話を聞き、相手の痛みを理解し、共に寄り添うことです。人は、自分の苦しみ、痛み、悲しみを理解してもらうことで心が軽くなります。神(イエス・キリスト)は、良いカウンセラーです。私たちがハンナのように、神に自分の思いのままを伝えるなら、神はその大きな愛で私たちを包み慰めてくださるお方です。新約聖書のマタイの福音書5章4節に「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」とあります。誰が悲しむ者を慰めてくださるのでしょうか。主ご自身が悲しむ者を慰めてくださるのです。神は今も生きておられます。また神は私たちの近くにおられます。私たちが自分の力、知恵に頼っている間、私たちは神を見ることはできません。しかし、すべてを神に委ねた時、ハンナと同じように神は、その大きな愛で私たちを包み満たしてくださるのです。