聖書箇所:マタイの福音書5章43−48
説教題:『御父に倣いて』
1. 「倣う」ということ:模範としてのキリスト
トマス・ア・ケンピスの名著『キリストに倣いて』に象徴されるように、私たちクリスチャンにとって、主イエス・キリストの謙遜や愛という「具体的な型」を模倣し、その弟子として歩むことは馴染み深い信仰の姿です。神様を見ることができない私たちのために、人の子となって来られたイエス様は、御父のご性質を現す完璧な模範です。しかし、本日私たちが向き合う御言葉は、さらに一歩進んだ、より「畏れ多い」招きです。それは、御子だけでなく「天の父なる神様に倣う」こと、すなわち「天の父が完全であるように、完全な者となる」という召命です。
2. 「完全」への招き:割引のない要求
「完全でありなさい」という主の命令に対し、私たちは直感的に「無理だ」と拒絶するか、あるいは「これは絶望させるための比喩だ」と制限をかけがちです。しかし、イエス様が求めておられるのは、自分ができるレベルに基準を下げる「パリサイ人の義」ではなく、神の基準をそのまま受け入れる生き方です。
この「完全さ」とは、決して現世では不可能な「理想」に過ぎないものではありません。最初の殉教者ステパノが自分を殺そうとする者のために祈ったように、それは今この地上で、神の恵みによって生きる者に期待されている「割引のない要求」なのです。
3. 奴隷の服従ではなく、子の自由として
私たちが「完全」を目指すのは、そうしなければ救われないからという「律法の奴隷」としての歩みではありません。私たちはキリストの十字架によって救われ、すでに自由な身分とされています。しかし、その自由は「何を選んでもよい」という放縦ではなく、神の子として「御父のご性質にかなうように歩む」ための特権です。
ステパノのとりなしの祈りは、義務感からではなく、神の子として「父に似ていきたい」という自発的な思いから溢れ出たものでした。復讐心や自己中心性から解放され、敵をさえ愛する。これこそが、主が私たちに獲得してほしいと願っておられる「真の自由」であり、神の子としての生き方なのです。
4. 新しい家族のアイデンティティ
イエス様は、敵を愛することを「天の父の子どもになるため」と教えられました。これは、父親に似て成長していくことこそが、その家の子であることの証左だからです。
小説『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンが、司教の無条件の赦しによって古い罪の生き方を捨て、新しい人へと変えられたように、私たちもまた、神の憐れみによって負債を帳消しにされた者です。王に引き取られた子が王の子らしく、音楽家に引き取られた子が音楽を愛するように、神の子とされた私たちは、神のご性質である「完全な憐れみ」を映し出す者へと造り替えられていくのです。
5. 結論:報いのある歩み
ここで語られる「完全さ」とは、ルカの福音書にある通り「憐れみ深さ」を指しています。自分を愛してくれる人だけを愛する生き方は、未信者や取税人と同じであり、そこには天の報いはありません。私たちは、傷つくことを恐れて愛を拒む「古い自分」を捨て、悪人にも善人にも雨を降らせる御父の広大な愛に倣いましょう。
過去の罪に縛られるのではなく、神に選ばれ、贖われた者として、やがて来る収穫の時期に豊かな報いを受けることを期待しつつ、今日から「御父に倣いて」歩んでまいりましょう。
