説教題:『求めるべき本当の報い』
聖書箇所:マタイの福音書6章1−6節
1. 信仰生活における「動機」の問い
本日の御言葉を通して、イエス様は私たちの信仰生活における「動機」を厳しく問うておられます。主はここで、二つの生き方を鮮やかに対比させられました。一つは「人に見せるための宗教」であり、もう一つは「隠れたところにおられる父との交わり」です。
当時、施しをする際にラッパを吹き鳴らし、人目を引く場所で祈るような人々がいました。彼らの目的は神ではなく、人からの称賛、すなわち「自己の栄光」にありました。これに対し、主は「右の手のしていることを左の手に見せてはならない」と命じられます。これは、自分の善行に酔いしれることを戒め、ただ神の御前で誠実に仕える姿勢を求めておられるのです。
2. 神の「お取り扱いの法則」:内面を見る目
イエス様は、人前で行う善行には天の父からの報いがないと警告されました。ここには、地上と天とでは評価基準が全く異なるという「不思議なお取り扱いの法則」があります。たとえ行為そのものが立派であっても、動機が不純であれば神には受け入れられません。
この真理は、創世記のカインとアベルの捧げ物にも表れています。ヘブル11章4節が記す通り、アベルの供え物が受け入れられたのは、その背後に「信仰(信頼と畏敬の心)」があったからです。対してカインは、形だけの儀式を行い、心は神から離れていました。
人間関係においても、高価な贈り物が自己顕示の道具(SNSへの投稿など)として利用されていると知れば、喜びは失せます。神様も同様に、行為そのものではなく、その奥にある「心」を求めておられるのです。
3. 「偽善者」という名の演技者
主は、人前で善行をひけらかす者を「偽善者(ヒュポクリテース)」と呼ばれました。これは「舞台で仮面を被り、役を演じる俳優」を意味する言葉です。彼らにとっての信仰生活は、神との人格的な交わりではなく、観客の拍手を浴びるための「パフォーマンス」に過ぎません。
心理学者マズローが説いた「承認欲求」が示す通り、人は本能的に他者からの称賛を求めます。しかし、信仰をこの欲求を満たす道具にしてはなりません。人からの称賛を求めて演技をする者は、すでにその報酬(人々の誉れ)を受け取ってしまっています。そのため、天の父からの永遠の報いを受けることはできないのです。
4. 虚しい独りよがりからの解放
哲学者のニーチェが指摘したように、皆が自分を主役だと信じて演技をしている世界には、真の観客など存在しません。承認欲求に支配され、他人の目を気にしてひた走る姿は、自由ではなく「罪の奴隷」の状態です。
イエス様は、そのような虚しい歩みを「もうやめなさい」と招いておられます。私たちが世の人々と決定的に異なるのは、「たとえ誰も見ていなくても、天の父が見ていてくださる」と知っている点にあります。
結論
私たちの歩むべき道はシンプルです。人に見せるためではなく、虚栄心を満たすためでもなく、ただ「隠れたところにおられる父」の評価だけを求めて歩むことです。主は、隠れたところで行われたすべてのことを見ておられ、相応しい報いを与えてくださいます。消え去るこの世の栄光ではなく、神様との生きた関係の中にある「本当の報い」を、熱心に追い求める者でありましょう。
