聖書箇所:マタイの福音書 5:21-26

説教題:『和解の追求』

1. 礼拝に優先する「和解」の命令

キリスト教信仰において、神への礼拝や献げ物は生活の中心です。しかし、イエス・キリストは山上の説教において、驚くべき教えを語られました。それは、祭壇にささげ物を献げようとする聖なる瞬間であっても、もし兄弟との間に未解決の問題(恨まれていること)を思い出したなら、その行為を中断してでも「まず、行って、和解しなさい」という命令です。
当時のユダヤ人にとって、エルサレム神殿での献げ物は多大な準備と犠牲を伴う、一年で最も神聖な宗教行為でした。しかしイエス様は、形式的な宗教儀式よりも、隣人との正しい関係を優先すべきだと教えられたのです。

2. 神との関係と人との関係の結びつき

なぜイエス様はこれほどまでに和解を優先されるのでしょうか。それは、「神様との関係」と「人との関係」が切り離せない一筋のものであるからです。旧約聖書の預言者イザヤも、不正や悪行を行いながら形式だけを整えた献げ物を、神が激しく拒絶される様を伝えています(イザヤ1:11-17)。
親が、我が子の贈り物であっても、それが盗品であれば喜べないように、神様もまた、隣人を傷つけたまま、あるいは不和の中にありながら捧げられる礼拝を喜ばれません。重要なのは形式ではなく、神様との人格的な交わりであり、内面の信仰です。神に受け入れられるためには、まず人との関係を正す必要があるのです。

3. 和解の緊急性:時を逃さない

さらにイエス様は、裁判所に向かう途中のたとえを用い、和解の「緊急性」を説かれました(マタイ5:25-26)。「早く(タキュ:できる限り急いで)」和解しなければ、事態は個人の手を離れ、取り返しのつかない裁きへと至ります。
人間関係も同様です。小さな誤解や傷を放置すれば、怒りは根を張り、憶測や周囲の巻き込みによって問題は肥大化します。時間が経てば経つほど、関係の修復は不可能に近い断絶へと向かいます。和解を後回しにすることは、コミュニティ全体の分裂や霊的な破綻という、極めて重い結果を招くのです。

4. 結論:能動的に平和を求める

私たちは「今は忙しい」「相手が謝るべきだ」と言い訳を探し、問題を先延ばしにしがちです。しかし、聖書が命じるのは、自ら進んで、積極的に、最優先で平和を求める生き方です。
イエス・キリストご自身が、神と背き合った私たちとの間に和解をもたらすためにこの世に来られました。私たちは、このキリストの恵みの中に生かされています。今、私たちの心に、誰かとの不和や神様への不誠実が示されているならば、それを放置してはなりません。
天の御国にふさわしい生き方とは、神との和解、そして人との和解を第一に追求することです。この聖日の礼拝が真に主に喜ばれるものとなるよう、私たちは今日、平和をつくる者としての一歩を踏み出していきましょう。