聖書箇所:ヨハネの福音書13章34−35節
説教題:『キリストの弟子として愛し合う』
1. 導入:昨年の歩みと新年のヴィジョン
新しい一年の始まりを礼拝をもって捧げられることに感謝いたします。本日は、今年一年の教会の歩みの指針となる目標について分かち合います。
昨年、私たちはマタイの福音書28章19-20節に基づき、「主の弟子として生きる」というテーマを掲げました。大宣教命令に従い、私たち自身がイエス様の弟子となり、地域に福音を伝え、弟子を増し加えていくことを目指しました。主の憐れみにより、新たな方々が教会に導かれたことを心から感謝いたします。
本年は、この歩みをさらに一歩進め、「キリストの弟子として互いに愛し合う」というテーマに導かれました。
2. 「互いに愛し合う」という新しい戒め
なぜこのテーマなのか。それは、イエス様が弟子たちに与えられた最も重要な命令が「互いに愛し合う」ことだからです。
「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:34-35)
キリストの弟子であることの証しは、高度な教理の理解や宗教儀式の遵守ではなく、信徒の間に流れる「愛」にあります。主は、心を尽くして神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという二つの戒めに「律法と預言者の全体(旧約聖書すべて)」がかかっていると教えられました。弟子として歩む上で、愛は避けて通れない、本質的な課題なのです。
3. キリストの愛の具体性:低くされた奉仕
イエス様が言われる愛は、単なる感情的な温かさではありません。主は、この戒めを与える直前に弟子たちの足を洗われました。当時の卑しいしもべの仕事であった「足を洗う」という行為を、天地の創造主である主自らが行われたのです。
ここから学べるのは、愛とは自分を低くし、相手の最も汚れた部分に触れることを厭わない、具体的な奉仕と行動であるということです。弟子とは、単に知識を学ぶ者ではなく、師の生き方を実践する者のことです。教会が教理の正しさや形式に固執して愛を失うなら、弟子共同体としての本質を失ってしまいます。
4. キリストの愛の基準:忍耐と真実
主の愛の基準は、人間的なレベルを遥かに超えています。イエス様は、自分を裏切るユダやペテロを含むすべての弟子たちを「最後まで(極みまで)」愛されました。(ヨハネ13:1)また、自分を否認するペテロの失敗を予見しながら、彼の信仰がなくならないように祈り、再起を信じて待たれました。
私たちの自然な性質は、自分に親切な人を愛することに限定されがちです。しかし、キリストの弟子として召された私たちは、相手の弱さや失敗を知りながらも、なお希望を持ち続け、忍耐し続けるキリストの愛を模範として歩むよう招かれています。
5. 真実な愛の実践に向けて
愛の実践において注意すべきは、それが「自己満足」になっていないかという点です。ある事例では、一人の父親が家族を溺愛し、自己犠牲的に尽くしているつもりでも、結果として家族の自立を妨げ、自分に依存させ、かえって精神的な疲労を与えていたという歪みがありました。これはキリストに倣う愛ではなく、自分の心の穴を埋めるための自己中心的な愛だったのです。
真に愛するとは、相手にとっての真の益(自立や霊的成長)を考え、時に厳しく、時に忍耐強く関わることです。家庭、職場、そして教会において、私たちはこの「行いと真実」による愛を具体的にイメージし、実践していかなければなりません。
結び
「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」(ヨハネの手紙 第一 3:18)
今年一年、私たちが言葉だけでなく、具体的な歩みを通してキリストの愛を体現し、主の弟子としての実を結んでいくことができますよう、共にお祈りいたしましょう。
