聖書箇所:ヨハネの福音書20章19−29節

説教題『信じる者になりなさい』

はじめに

本日はイースター(復活祭)の喜びを共に分かち合います。ヨハネの福音書20章に記された「使徒トマスの疑いと信仰」の箇所から、現代に生きる私たちがどのように復活の主と向き合うべきかを考えてまいりましょう。

科学万能主義への問いかけ

私たちは日々、科学やテクノロジーの恩恵を受けて生きています。客観的なデータや根拠(エビデンス)を重んじる科学的思考は、人間が生きる上で切り離せない大切な営みです。しかし、現代社会には「科学的に証明できないものは無価値である」という極端な風潮も見受けられます。
しかし、魂の救いや死後の希望、目に見えない神の存在といった、人生において最も重要な事柄は科学の物差しでは測れません。聖書は、私たちが目に見える身体や物質的な関心を超えて、魂の支配者である神に目を向けるよう促しています。(マタイ10:28)私たちは、無意識のうちに理性を絶対視していないか、自らの思考法を再検討する必要があります。

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

マタイの福音書 10:28

トマスの姿と現代人の孤独

復活したイエスが弟子たちの前に現れた際、その場に居合わせなかったトマスは「自分の目で見て、傷跡に触れない限りは決して信じない」と言い張りました。この合理主義的で懐疑的な姿勢は、現代を生きる私たちの姿そのものです。
トマスは情熱的な弟子でしたが(ヨハネ11:16)、主の死という残酷な現実に打ちのめされ、かつて目撃した数々の奇跡さえも忘れて冷笑的な心に支配されていました。他の弟子たちが復活を喜ぶ中で、彼は8日間もの間、疑いと孤独の中に置かれていたのです。

そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

ヨハネの福音書11章16節

主の慈しみと「見ないで信じる」幸い

復活の主は、そのようなトマスを見捨てられませんでした。再び現れたイエスは、トマスの疑いや呟きをすべて知った上で、彼が求めていた「証拠」を自ら差し出されました。主は人間の知的な葛藤や弱さを否定せず、愛をもって「信じる者になりなさい」と招かれたのです。
主の御姿に触れたトマスは、客観的なデータを超えた確信へと導かれ、「私の主、私の神」と告白しました。イエスは彼に「見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。これは、主の肉声を直接聞くことのできない現代の私たちに向けられた祝福の言葉です。

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」・・・これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。

ヨハネの福音書 20:29-31

結論:御言葉への応答

信仰とは、納得できる証拠を揃えてから受け入れるものではなく、神の愛という人格的な交わりの中で、主の言葉を信頼して一歩踏み出すことです。
私たちは、自分の理性や現実のデータを最終的な判断基準とする生き方から、神の言葉を基準とする生き方へと招かれています。この福音書が書かれた目的は、私たちがイエスを救い主と信じ、その名によって永遠の命を得るためです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という主の招きに応え、復活の喜びを確信して歩んでまいりましょう。