聖書箇所:ネヘミヤ記9:1-5

説教題:『罪を告白する民』

説教者:堀浩史牧師(北国分キリスト教会)

みなさん、おはようございます。

ネヘミヤ記9章に入ります。この章でイスラエルの民は「悔い改め」へと進んでいきます。今日、私たちが学ぶのは、聖書が教える「悔い改め」が、単なる後悔や反省とは根本的に異なるということです。

日本語の「反省」は、自分の過ちを振り返り、次は失敗しないようにと心に誓うことです。それは私たちの内面的な感情や、人間関係の修復を目的とします。しかし、聖書的な「悔い改め」は、もっと深い意味を持っています。新約聖書では「メタノエオゥ」(考えを変える、心を方向転換させる)、旧約聖書では「シュゥブ」(立ち帰る)という言葉が使われます。これは、罪という「神から離れた生き方」を根本的に方向転換し、「神に向き直る」という決意と行動を指します。

ネヘミヤ記の民は、まず神様の前にへりくだることから始めました。彼らは断食をし、粗布をまとい、土をかぶりました。これは単なる後悔の表現ではなく、全知全能なる神様を認め、心から敬う思いが外面に表れたものです。このへりくだりこそが、真の悔い改めの第一歩です。

そして、彼らが行った「罪の告白」には、四つの重要なポイントがあります。

第一に、罪そのものからの分離です。 彼らが「すべての異国の人々と関係を絶ち」とあるように、罪の告白は、罪そのものから距離を置くことから始まります。

第二に、共同体としての告白です。 彼らは「自分たちの罪と先祖の咎」を告白しました。これは、個人の罪だけでなく、教会や社会の一員としての共同体の責任を神の前に認める姿勢です。

第三に、みことばに照らされて行うことです。 「主のみおしえの書を朗読し」告白したように、私たちの罪の告白は、聖書に記された神の基準に照らし合わせて行われる必要があります。聖書の光がなければ、何が罪であるかを正しく知ることはできません。

第四に、礼拝へと導かれることです。 民は「主に告白をして礼拝した」とあります。悔い改めは、悲しみで終わるのではなく、神様からの赦しの恵みを受け、主を賛美する喜びへとつながるのです。イエス・キリストの十字架があるからこそ、私たちの告白は、単なる反省から「礼拝」へと変わるのです。

悔い改めは単なる後悔ではありません。それは、神様に赦されて、喜びをもって礼拝に生きる道です。全知全能なる神様は、私たちが告白しなくても罪をご存知です。それでも、私たちが自ら告白するとき、神様の豊かな恵みと赦しを改めて知ることができます。

どうぞ、神様の前にへりくだり、罪を告白し、真の礼拝者として歩んでいきましょう。