説教題:『恵みを求める祈り』

聖書箇所:マタイの福音書6章11−12節

祈りという特権:私たちのための恵み

私たちは日々、言葉にできない不安や心の痛みを抱えて生きることがあります。心理学において、どんな時も変わらずに愛し続けてくれる存在との出会いが人格の安定(獲得安定型)をもたらすように、私たちの魂の安定もまた、天の父なる神様との交わりにかかっています。教会は、神様の不変の愛を知り、祈りを通して個人的に出会うことで、すべての理解を超えた平安に満たされる(ピリピ4:6−7)場所です。
ここで覚えたいのは、「祈り」は神様が必要としているからではなく、私たち自身のために与えられた大きな恵みであるということです。宗教改革者カルヴァンはこのように述べています。

「神様が祈りを定められたのは、神様自身のためではなく、むしろ私たちのためです。……私たちがたゆむことなく祈り続けるのは大切なことです。それは、私たちの心が、常に神様を求め、愛し、崇めようとする、真剣で熱烈な願いに燃やされるためです。また、この祈りによって、さまざまな困難のただ中にあって、神様のうちに逃れていくことを学んでいくのです。また、この祈りによって、私たちが感謝をもって恵みを受け取る備えをすることができます。」

祈らないことは、父親が食事を運んでくれているのに、自室に閉じこもって対話を拒む青年のように、孤独と暗闇の中に留まることを意味します。私たちは祈りを通して孤独から連れ出され、神様との交わりの中で平安と喜びを受け取るのです。

日毎の糧を求める:生かされている自覚と連帯

主の祈りの第一の願いは「日毎の糧」です。神様は私たちに必要なものをすでにご存じですが、あえて祈るように教えられました。そこには二つの意味があります。
一つは、私たちが神様によって日々「生かされている」ことを忘れないためです。食卓に並ぶ物、働く健康、社会の平和、そのすべてが当たり前ではなく神様の恵みの結果です。祈りは、私たちが自らの高慢を捨て、神様に依存している存在であることを再確認させてくれます。
もう一つは、共同体の連帯です。これは「私たちの」祈りであり、自分さえ満たされていれば良いというものではありません。世界中で困窮し、今日食べるものがない隣人のために、私たちは重荷を分かち合って祈るよう招かれています。

罪の赦しを求める:良心の解放と神のあわれみ

第二の願いは「負い目の赦し」です。罪の意識は、誰かに教えられずとも私たちの良心に刻まれている普遍的な苦しみです。自らを正しいと過信し、他者を見下す「パリサイ人」のような者ではなく、自分の胸をたたいて「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈る「取税人」こそが、神様に義と認められるのです。(ルカ18:9−14)

罪を隠し、祈ることを止めてしまう時の苦しみについて、詩篇の記者ダビデは次のように歌っています。

 「私が黙っていたとき 私の骨は疲れきり 私は一日中うめきました。昼も夜も 御手が私の上に重くのしかかり 骨の髄さえ 夏の日照りで乾ききったからです。」(詩篇 32:3-4)

しかし、その罪をありのままに告白する時、状況は一変します。

「私は自分の罪をあなたに知らせ 自分の咎を隠しませんでした。……すると あなたは私の罪のとがめを 赦してくださいました。……主に信頼する者は 恵みがその人を囲んでいる。正しい者たち 主を喜び 楽しめ。」(詩篇 32:5,10-11)

結び:変わらない愛への応答

神様は、私たちがどれほど酷い状態にあっても、決して私たちをお見捨てにはなりません。なぜなら、神様は絶対に変わることのない愛で私たちを愛しておられるからです。私たちは、日々の糧を求め、罪の重荷を告白することを許されています。祈りは義務ではなく、弱い私たちに与えられた最大の特権です。この祈りの恵みにいっそう深くあずかり、主が備えてくださる豊かな平安の中を歩んでまいりましょう。