聖書箇所:マタイの福音書7章21−23節
説教題:『御心を行うもの』
1. 信じることと行動の不可分性
イソップ童話「オオカミ少年」において、村人たちは少年の言葉を「信じた」時には救助に向かい、「信じなかった」時には動きませんでした。このように、人が真に信じている内容は、必ず「行動」という目に見える成果(実)として生活に現れます。信仰と行動は切り離すことができない関係にあります。
2. 「主よ、主よ」と言うだけのうわべの信仰
マタイの福音書7章17〜21節でイエス・キリストは、良い木は良い実を結ぶと語り、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」と宣言されました。口先だけの告白や頭での理解にとどまり、父の御心を行うという具体的な歩みを伴わない態度は、神の目には真の信仰として認められません。
3. 信仰による義認と行動による証明
パウロがローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙で説くように、人は律法の行いではなく「信仰」によって義と認められます。しかし同時に、ヤコブの手紙2章17節が「信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです」と教える通り、本物の信仰には必ず行いが伴います。 アブラハムは神の約束と死者からの復活を信じたゆえに、愛する息子イサクを献げるという強烈な応答を行いました(ヘブル人への手紙11章17〜19節)。彼の行動は、その信仰が生きていることを証明したのです。
4. 終わりの日の審判と真の歩みへの招き
マタイの福音書7章22〜23節において、主の名によって預言し奇跡を行ったと主張する者に対し、イエス様は「わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け」と厳しく断罪されます。口先だけの奉仕や告白は最後の審判で通用しません。 主の再臨の約束から長い時が経ち、御言葉に慣れきって言葉を聞き流してしまう態度を悔い改める必要があります。私たちは「主よ、主よ」と口にするだけの形骸化した信仰を捨て、アブラハムのように神を本気で信頼し、父の御心を行って実を結ぶ「生きた信仰」に歩むことが求められています。
