ガリラヤ湖の日の出、マタイ4:15,16参照

「ゼブルンの地、ナフタリの地、海に沿う地方、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤ、
暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。(マタイ4:15、16)or (イザヤ書8:23、9:1)

朝早くゲネサレ(ギノサル)湖岸に行ったとき、ガリラヤ湖の東側山脈が白み始めました、間もなく美しい朝日の姿を現してくれました。その時、私の頭に浮かんだのはイザヤ書の言葉でした。

数ヶ月の後で

この夏は老人には厳しい暑さでした。今になってやっとホームページに触ってみる気になりました。今日朝の聖句次のものでした。

わたしがそう言うのは、キリストの十字架に敵対して歩いている者が多いからである。わたしは、彼らのことをしばしばあなたがたに話したが、今また涙を流して語る。彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。(ピリピ3:18~21)

9月21日の朝

夫あり、妻あり、しかしてその間にひとりの子あり、秋の宵静かなる所、彼ら3人、灯火(ともしび)を囲んでこうべを垂れて神に祈る。これ幸福なる家庭なり。その時、主は彼らの中に現れて言いたもう。「二人三人、わが名によりて集まれる所には、われも必ずその中にあるべし」と。神聖なにものかこれに若(し)かん。これありて、王侯の宮殿もうらやむ足らざるなり。(続1日一生より)

国民の聖書

ホームページずっと触ることができませんでした。いろいろアップロードしたいことは山ほどあるのですが、90歳の孤独老人には物理的に難しいのです。この二ヶ月何もかも放り出して「国民の聖書(下)の編集に取り組んできました。目の疲れがひどいですが、自分の日々の生活をすべて自力で出来ることを感謝しつつ、本当にわずかずつでもこのようなことが出来る事を感謝せずにはいられません。

二種の宗教

宗教に二種ある。ただ二種あるのみである。すなわち自力宗と他力宗と、これである。儒教、神道、回教、ユダヤ教、みな自力宗である。そうして浄土門の仏教は他力宗であるが、絶対的他力宗でない。信仰を救いの条件として要求する宗教は、いまだ絶対的他力宗と称することはできない。信仰そのものまでを神のたまものとして見るに至って、宗教は絶対的他力宗となるのである。そうしてキリストの福音はかかる宗教である。すなわち絶対的他力宗である。いわく、「なんじらの信ずるは、神の大能の感動によるなり」(エペソ書1・19)と。信者の信仰そのものが神のたまものである。ゆえに誇るの余地が寸筆(すんごう)ないのである。ただ祈るのである。祈り求むるのである。そうして、その祈る心をさえ祈り求めて、これを与えられて、神に感謝するのである。造られし人は、造りし神に対して、絶対的服従に出づるよりほかに、取るべき態度はないのである。信仰の道はつまるところ、祈り求むろの道にほかならないのである。(内村鑑三聖書注解全集14巻 66頁より)

私はキリストを知るまでは、すべて自力でした。しかし、今は私のすべて(健康、知識、仕事)が神から与えられたものであることを信じて感謝と心の平安、それは人の思いを遥かに超えた安らぎを日々経験しているのです。

キリスト教はいわゆる宗教ではない。

キリスト教というからとて、これを、他のいわゆる宗教と同一列に置くは誤っている。キリスト教はいわゆる宗教ではない。神より人への啓示である。宗教は人が神を求めるものであるが、キリスト教は神が人を求めるものである。ゆえに前者は、人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はただ神の恩恵の受納を主眼とするものである。自己が種々の方法をめぐらして神に近寄り行くのが普通の宗教であって、ただ恩恵を受け感謝喜悦に入るのがキリスト教である。(内村鑑三聖書注解全集17、245頁)より

あなたはどちら?

わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超やえている。(イザヤ55:8,9)
キリスト教というからとて、これを、他のいわゆる宗教と同一列に置くは誤っている。キリスト教はいわゆる宗教ではない。神より人への啓示である。宗教は人が神を求めるものであるが、キリスト教は神が人を求めるものである。ゆえに前者は、人の努力、工夫、攻究、修養、論理、修道に重きを置くに反し、後者はただ神の恩恵の受納を主眼とするものである。自己が種々の方法をめぐらして神に近寄り行くのが普通の宗教であって、ただ恩恵を受け感謝喜悦に入るのがキリスト教である。(内村鑑三聖書注解全集17 頁245)

人の思いを遥かに超えた十字架

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである (申命記21:23)
2000年前、人々は一斉に叫んだのです。
ローマ総督ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。(マタイ27:22)
罪のないキリストが私たちのために身代わりとなって、神に呪われて十字架に架けられて犠牲の死を遂げられたと言うのです。何故このようなことを神は許したもうたのでしょう。それは、使徒ヨハネが記している通りです。
神は、その独り子をお与えになった(ここの与えるという語は=人々がキリストを辱め、なぶり殺しをする事を許された意味)ほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3:16)
今朝マタイによる福音書27章を読んで、私は頬を涙で濡らすことしかできません。

キリストのゆえに われ神を知る

1. ああわがための十字架 いかにしたわしきかな
み子イエスを知りて われ神を知る
2. ああわがための十字架 み子の苦しみをしのび
なぐさめ身にうけて  われ神を知る
3. ああわがための十字架 かぎりなき愛の主よ
み子イエスを知りて われ神を知る
アーメン(1953年8月17日)

私は毎週日曜日と水曜日横須賀まで東京・中野から通っていました。宣教師B師の伝道活動を手伝っていました。100坪ほどの土地を購入し、そこに教会堂を献堂することができました。65年前のことです。その直後特別集会を開いて、先輩牧師先生を招きました。私はその時話された、キリストの十字架の愛に感動しました。夜私は独り横須賀線に乗って中野へ帰りました。当時はまだ車内も薄暗い、座席も板張りの硬いものでした。乗客も少なく、独り座って特別集会で受けた十字架の主キリスト愛を心に深く想ったときに、自然に上記の詞が生まれたのです。それを一枚のメモ用紙に記しておきました。そしてこの歌詞にその37年後ハワイ在住の婦人によってメロデーがつけられたのでした。

人生の目的(年の初めに)

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」ヨハ14:6,7
人生の目的は神を知るにある。その外にない。金をためるのではない。人にほめられるのではない。哲学と美術とを楽しむのではない。神を知るにある。これが人生の唯一の目的である。この目的を達せずして、人生は全く無意味である。ほんとうの夢である。この目的を幾分なりと達せずして、最も成功せる生涯も失敗である。われらは年の初めにあたって再びこの事を深く心に留めるべきである。(内村鑑三信仰著作全集20. 256頁)

2019年を迎えて

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント5:17)
私たちにとっては、新年必ずしも新ではない。旧年必ずしも旧ではない。「霊」これ新である。「肉」これ旧である。キリストこれ新である。この世これ旧である。キリストは、昨日も、今日も永久に新である。この世は過去も現在も永遠に旧である。肉を捨てて霊に行き、この世を去ってキリストに至るよりほかに、旧より新に移る道はない。(続一日一生・内村鑑三 1月3日より)

私は正月3日の初めに、この奨励を頂いて、主キリストによって生かされている身を知って、感謝の祈りをささげました。