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祈祷会メッセージとお祈りの課題

孤軍奮闘のサムソン

そこで、ユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った。「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか。あなたはどうしてこんなことをしてくれたのか。」

士師15:11

士師記に登場する最後の士師はサムソンです。サムソンは怪力の持ち主でした。生まれる時から神様に聖別された人で、髪の毛にその秘密がありました。腕力ではサムソンにかなう人は誰もいません。もしかするとそれがゆえにサムソンはやや横暴な性格でした。強すぎてだれもサムソンに注意できないわけです。これまで士師記では、士師がイスラエル民族と協力して外敵に対抗するお話が多かったのですが、サムソンの話だけは違います。サムソンが一人でペリシテ人と戦います。そしてなんと15:11では、イスラエルの人々がサムソンに立ち向かっている場面があります。これではサムソンは誰のために戦っているのか分かりません。サムソンのお話全体にはなんとなくサムソンが孤軍奮闘している悲壮感も漂っています。

15:11でイスラエルの人々はなぜサムソンに立ち向かうことになったのでしょうか。サムソンはいつも自分の都合でペリシテ人と戦っていました。サムソンは一人のペリシテ人に一目ぼれし、結婚を申し込みます。ペリシテ人は結婚式の時にサムソンと散々もめた挙句、結婚するはずだった女性を、他の男性と結婚させました。その腹いせにサムソンは畑に火を放ちました。ややこしい話ですがこのような仕返し合戦が大きくなり、ペリシテ人はイスラエルに対して軍隊を派遣したのです。イスラエル人は困ってサムソンを縛り上げてペリシテ人に引き渡すことにしました。こうしてイスラエル人はサムソンのところにやってきたのです。

15:11によると、イスラエル人は3,000人でサムソンのところにやってきたとあります。そしてこの後、サムソンを縛り上げペリシテ人の軍隊に引き渡しますが、その時サムソンの縄が解けてサムソンはペリシテの軍隊を一人で負かしてしまいます。15:15によるとサムソンが打ったペリシテ人は1,000人と書かれています。この時、イスラエルに対して攻め上ってきたのはペリシテ人1,000人だったのです。サムソンのところに来たイスラエル人は3,000人です。この後のサムエル記なども参考にしますと、ペリシテの武装とイスラエルの武装には大分差があったようですから単純に数だけ比較することはできないかもしれませんが、そのまま戦ってもイスラエル人が勝ちそうなものです。しかしイスラエル人はこの戦いが主の戦いであるとは思ってもみませんでした。もしかしたらサムソンの事も士師としてではなく、ただ怪力で手の付けられない横暴者と見ていたのかもしれません。

イスラエル人が神様からのメッセージに対して疎くなっていたことは、13章のサムソンが生まれた時からも読み取ることができます。サムソンが生まれる時、両親のもとに主の使いが来ますが、両親ともにあたふたするばかりで、その人が主の使いである、神様からのメッセージが来たということが中々受け入れられない姿が記されています。イエス様が生まれる時のような素晴らしい知らせのはずなのに、両親、特に父親はそのメッセージの意図を終始よみとることができません。士師記の中心的なメッセージは、イスラエルは「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた(21:25)」です。真の神様を自分の人生の中心に置くのではなく、倫理観や、どの神を拝むかということも含めて、自分の目に正しいと見えることを中心にして生活していました。だからイスラエル人は、サムソンが生まれる時も、主の使いが来たことが分かりませんでした。そしてサムソンが神様に遣わされた士師であることも認められず、結果的にサムソンを孤軍奮闘させることになったのかもしれません。イスラエル人はこの時代、ペリシテ人に圧迫されていました。しかし13章の初めには今まで士師記の中で見られた「イスラエル人は主に叫んで言った(10:10等参照)」という言葉が見当たりません。代わりに15:11にあるように「ペリシテ人が私たちの支配者である」と言っているのです。イスラエルは神様を離れ、ペリシテが圧迫するようになっても、神様を求めようとはせず、ペリシテの圧政を受け入れてしまいました。それくらいにイスラエルは神様を忘れてしまったのかもしれません。士師記は人間の罪深さをよく表している書物です。

しかし神様はそんなイスラエルを見捨てず、サムソンを遣わし手イスラエルを救い、そして続く新しい時代にはサムエルとダビデを遣わして、イスラエルを救ってくださいます。あわれみ深い神様にもう一度感謝し、神様を中心に置くことを心がけたいと思います。

お祈りの課題

  • 教会予算総会、新年度計画のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

不幸は神様の責任?

それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。(士師6:10)

士師記に入りました。イスラエルにはエジプトを脱出後、モーセ、ヨシュアと偉大な指導者がいました。彼らがいる間は、民族としてのまとまりも強く、なによりもしっかりと神様に従い歩むことができました。士師記は彼らがいなくなってから、イスラエルに王が誕生するまでの期間の事が記されています。イスラエルの民はこの間、神様に従う平和な一時、だんだんと神様から離れてしまう時、外国に攻め入られ苦しむ時、神様が士師と呼ばれる軍事的な指導者を送り国が救われる時、というサイクルを繰り返します。このサイクルは本当に人間の弱さを実感します。これらは国単位、あるいは民族単位の弱さを示した、歴史的な教訓でもありますが、同時に私という一人の人間の生活の中での教訓でもあります。個人的にも神様に素直に従える時と、心が離れてしまう時があります。神様はその両方をちゃんと見てくださっていて、忍耐をもって接してくださるお方です。神様はこのような延々としたサイクルを続けるイスラエルの民を見捨てはしませんでした。素直に従っている時にも傍におられ、心が離れている時にも傍におられるお方です。

6章からは、ギデオンという士師が登場します。まず聖書が語るのは、この時代イスラエル人は、再び神様から離れてしまったということです。一つ前の5章は神様がデボラとバラクという士師を遣わして、イスラエルが勝利し、神様を賛美している喜びの章です。5章から続けて読みますと、6:1の「イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。」という出だしを見てショックを覚えます。さっきまで神様に賛美していたのにと思います。イスラエル人は急に神様から離れてしまったわけではないでしょうが、神様を忘れたという事実は確かです。この時、ミデヤン人がイスラエルに攻めてくるようになりました。ミデヤン人はイスラエルから略奪しまくります。イスラエル人はミデヤン人に怯えながら生活していました。

士師のギデオンが登場する前に一人の預言者が登場します。預言者は言います。「神様はエジプトから力強い手でイスラエルを救われました。イスラエルと神様は契約を結びました。イスラエルに神様以外の神々があってはなりません。ところが、あなたがたは神様の声に聞き従わなかった。」だから悔い改めなさいというメッセージです。イスラエル人は自分たちに罪があるということを理解していたでしょうか?いいえ。していません。それはギデオンの言葉から明らかになります。ギデオンは6:13でこう言います。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。」ミデヤン人が攻めてきたことは神様がイスラエルと一緒におられなかったからではないですかとギデオンは言いたいのです。要するに自分たちの罪の故ではなく、神様のせいにしています。でもそれが人間の罪の恐ろしさかもしれません。自分は正しく、相手が悪いと思いたいのが人間です。このギデオンのセリフは現代でもよく言われる「神が存在するならなぜ戦争があるのか」と全く同じことです。この世界の不幸のすべてを自分たちの自己中心的な思いの故ではなく、神のせいにしたいのです。そんなギデオンに神様は言います。「私はいつも一緒にいる。だからあなたがその手で救いに行きなさい。(6:14,16参照)」神様は、人間から向けられた責任追及の言葉に対して反論するのではなく、これを受け止め共に解決に行こうと言います。こう言われると今度は人間の良心が問われます。じゃあ自分はその戦争に対して何か正しいことをなしてきただろうか?正しいことをなせるのだろうか?そして多分私たちの答えはギデオンと同じです。「私は小さい者です。私に何ができるというのでしょうか?(6:15参照)」神様の答えは明白です。「あなたはわたしに従いなさい。」です。こうして預言者が民に語った言葉に戻ります。あなたは神様の声に聞き従うのか従わないのかという事に戻るのです。士師記の中心は、神様に従えば圧倒的な力をもって勝利できるという点ではありません。それは一部分にすぎません。それよりも神様に従い通し平和な時を過ごすことができるのかできないのかは、私たちの信仰にかかっているのだという事を士師記は語っています。

お祈りの課題

  • 新しい年の歩みのために
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新年のごあいさつ

教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
使徒12:5

 

新年あけましておめでとうございます。

昨年はおかげさまで、会堂の一新も行うことができました。

本年もささやかながら、昭島市の地域にあって皆様の祝福をお祈りしております。

東京フリー・メソジスト昭島教会一同

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何もできなくても神様にあって恵み

たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。(ピリピ2:17)

ピリピ2:6-11は、一般に「キリストの謙卑」と呼ばれています。イエス様は神様ですが、神様としての姿を捨てて、人間として生まれて下さり、他の人に仕える者となって下さいました。それだけではなく、すべての人を救うために、いのちを捧げて、歴史上最も残酷と言われる十字架刑にかかって下さったのです。イエス様は何の罪もありませんでしたが、イエス様が十字架にかかって死んでくださったことにより、私たちの罪は赦されました。天の父なる神様は、イエス様を高く上げられ、イエス様の御名によってすべてのものは贖われます。

ピリピ人への手紙を書いたのはパウロですが、パウロはこの時、牢にとらわれていました(ピリピ1:12-14参照)。牢と言っても監視付きの部屋に閉じ込められる軟禁状態であったようです。ある程度の自由は許されていたようですが、外出はできませんでした。ですのでパウロの福音宣教の働きはかなり制限されて留められていました。そんなパウロにピリピ教会の人々は贈り物を送ったようです。その贈り物に対する返礼としてパウロはこの手紙を書きました。この先パウロはどうなるのかと心配したピリピ教会の方々が、必要な物を送ったのだと思います。パウロ自身もこの先どうなるのかという不安が無かったわけではないと思います。しかしパウロはこの機会に、自分の境遇と合わせて、信仰の大事な教えを解き明かしています。それはパウロの今の困難な状況は、キリストの苦しみの一端を担わせて頂いている恵みなのだということでした。

パウロは1章の中で、自分にとっては「生きることはキリスト、死ぬことも益です。(1:21)」と述べています。私たちは神様の御許にいることが一番の幸せです。地上にいるにしても、天国にいるとしてもそれが一番です。そしてパウロは、どちらかと言うと天国の方がより幸せかもしれないということも語っています。しかしパウロは地上での今の事についても神様に感謝していました。それはパウロのあらゆる境遇も神様が用いられて、宣教の働きが進められているとパウロが確信したからです。パウロにとっては神様の喜びこそが喜びでした。パウロは今まさに、キリストが十字架で苦しめられたのと同じように苦しめられています。もちろん十字架の苦しみの方がはるかに大きいものですが、その一端をパウロが担っています。神様がキリストの苦しみをそのままにしておかず、すべての人々の救いと贖いのために用いられたように、パウロの苦しみもまた用いて下さっています。事実、パウロが獄中にいることにより、ピリピ教会の人々の熱心さが増し加えられ、その愛の働きにより、キリストを信じる人々がピリピ教会の周りでも、パウロの周りでも起こされるようになりました。

パウロは「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。」と語っています。パウロのこの信仰は素晴らしいものです。私たちはパウロのように「苦しみもまた恵みです」とは、なかなか言えないかもしれません。しかし苦しみの中にある時にこそ、私たちは周りの人々の愛をより感じることができるのではないでしょうか。この時のパウロも、苦しみの中にあっても自分が頑張ったからということで恵みと感じているのではありません。恵みというのは勝ち取るものというよりは、無償で受け取るものです。パウロは自分は苦しむだけで何もできないと感じた時に、ピリピの教会の人々が送ってくれた贈り物、そして福音が広がっているという知らせを聞いて恵みだと感じました。自分の何もできない苦しみが無駄ではなく、神様に用いられていると感謝したのです。神様にあっては全てが無駄ではないことを感謝したいと思います。

お祈りの課題

  • 今年の恵みを思い返して感謝しましょう
  • 新しい年に向けて導きを祈りましょう
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 桜ヶ丘教会のために
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割り当て地を与えられた女性たち

彼女たちは、祭司エルアザルと、ヌンの子ヨシュアと、族長たちとの前に進み出て、「私たちの親類の間で、私たちにも相続地を与えるように、主はモーセに命じられました」と言ったので、ヨシュアは主の命令で、彼女たちの父の兄弟たちの間で、彼女たちに相続地を与えた。(ヨシュア記17:4)

ヨシュア記前半は、カナンの地での戦争を描いています。11章の最後に「その地に戦争はやんだ。」と書かれていて、ヨシュア記後半はカナンの地を12の部族で分割していく様子が描かれています。イスラエル=ヤコブの子どもたち(男の子)は12人で、この子どもたちの子孫がイスラエルの民族です。12人の子どもたちの名前が、それぞれ部族の名前になっています。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンです。このうち、レビ部族は祭司として各地に住むように言われていたので、割当地はありません。そしてヨセフ族は、ヨセフの二人の息子たちから生まれた部族、マナセとエフライムがそれぞれ一つの部族として数えられます。ですので、12部族(ルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、マナセ、エフライム、ベニヤミン)で分割+レビ部族という図式になります。このようにイスラエルに限らず当時は、家系をとても大切にしていました。自分がどの家に属しているのかが重要な社会でした。それぞれの家では男性の年長者が家長となり、家長同士の繋がりによって社会が作られていました。相続地も家ごとに、家長ごとに整理されていったのです。

16-17章ではヨセフ族、つまりマナセ族とエフライム族の割当地について書かれていました。マナセ族はとても祝福されていたようで、人数も多かったので、割当地も多く与えられましたが、それでも足らずにまだ切り開かれていない土地を開拓している様子が描かれています。その中で、マナセ族のうちのある家のことが問題となりました。ツェロフハデという人には男の子が生まれず、女の子しか生まれませんでした。男の子が生まれないという事は、その家は後継ぎが生まれなかったことになるので、家がなくなるという事を示しています。しかしここでは当時の常識では考えられないような例外的な措置がとられました。女の子たちに相続地を与えるという事です。ヨシュア17:4によると、モーセがそう命じたと書かれています。民数記27章にそのことが書かれています。そこでは、彼女たちがモーセに訴え、モーセが神様に相談していたことが書かれています。神様はこのままでは約束の地カナンに入っても、相続地が与えられずみじめな思いをする彼女たちのために、相続地を与えなさいという律法を与えました。彼女たちに限らず、この先、イスラエルの国においては、男の子が生まれなかったからといって、家長が死んだらすぐにその相続地を取り上げるのではなくて、娘たち、娘がいなければ親族に与えるようにという律法を与えました。

神様は常に弱い立場の者の味方です。当時のイスラエルにはこのような弱い者を顧みる律法がたくさんありました。それによってイスラエルで生きて働かれる真の神様はそのような弱い立場の物を助けて、見捨てないお方であるということを世界に示していきました。今日においては、国も法律も慣習も聖書の時代とは異なりますが、神様は同じ神様です。神様は私たちの弱さを知り、必要な助けを与えてくださいます。今日も神様を求めてお祈りをしたいと思います。

お祈りの課題

  • クリスマスキャンドルサービス、クリスマス礼拝のために
  • 新しい年の導きのために
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 小金井教会のために