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祈祷会メッセージとお祈りの課題

祝福とのろい

全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。(ヨシュア記8:33-34)

ヨシュア記に入りました。ヨシュア記はイスラエルの人々が神様から約束の地カナンを与えられる時のお話です。カナンにはすでに先住民がいました。これらの民族のうちほとんどは、イスラエル民族の侵入を拒み、神様からも「聖絶せよ」と言われイスラエルと戦争になりました。8章には、ゲリジム山とエバル山での出来事が書かれています。ゲリジム山の前にイスラエルの民の半分が立ち、エバル山の前にもう半分の民が立ちました。そしてモーセの律法を読み聞かせたということです。ゲリジム山とエバル山は隣り合っている山です。その麓にはシェケムと呼ばれる場所があります。旧約聖書でとくに有名な出来事は、この場所で神様はアブラハムに現れ「あなたにこの地を与える」と約束されました(創世記12:6-7)。まさにこのシェケム、ゲリジム山、エバル山は、イスラエル人にとって神様が与えてくださる約束の地の象徴的な場所です。ヨシュア記の前の申命記の中で、モーセはイスラエルの民にナンの地に入ったら、ゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置くためにイスラエルの民が半分ずつ立つように伝えました(申命記27:12-13)。これはゲリジム山に登ると祝福されるとかそういうパワースポット的な発想ではなく、シェケムに立った時に見える二つの山を見て、神様の祝福とのろいを思い出しなさい。そして神様の律法を思い出しなさいという意味です。モーセが申命記の中で命じたので、ヨシュア記8章で実際にイスラエルの民は半分ずつ立ちました。そして律法の書が読まれました。モーセは申命記30:19でこう言っています。「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」いのちを選びなさい。とは日々神様の教えを守って、いのちの道を歩みなさいということです。イスラエルの人々はゲリジム山、エバル山を見るたびに神様の律法を思い起こし、日々神様に従うということを意識したと思います。

ヨシュア記6-7章には二つの町での出来事が書かれていました。一つはエリコの町の攻略、もう一つはアイの町の攻略でした。エリコの町を攻略するにあたって、イスラエルの人々はしっかりと神様の言葉を守り、備えをして大勝利を収めました。しかしその途中で、神様の言葉を守り切れず、聖絶すべき品物に手を出した人がいました。神様はそれをご覧になっていて、続くアイの町では最初は戦に負けてしまいます。多くの民が命を落としてしまいました。そこでイスラエルの民は聖絶のものを取り除き、再び神様の言葉をしっかりと守って戦ったところ、戦争に勝つことができました。神様の言葉に従う事、従わないことの明暗がはっきりと出ている出来事でした。神様の言葉はまさにいのちに直結する出来事だったのです。神様の厳しさが表されていた出来事でもありましたが、神様のあわれみと臨機応変さも現れていました。神様は神様の言葉を守り切れなかったイスラエルをすぐに見捨ててしまうことはしませんでした。イスラエルの民が悔い改めて、聖絶のものを取り除くチャンスを与えてくださいました。そしてイスラエルの民がしっかりと悔い改め、聖絶のものを取り除いた時、神様は前の負け戦を用いて、次の戦の勝利へとつなげてくださったのです。アイの町の人々は前の戦いでイスラエルに勝ったので、油断して出てきたのです。そこへ神様の次の作戦が働いて、見事に勝利を収めました。前の失敗を失敗のままにせず、用いて成功へと導いてくださいました。

 私たちも神様に日々従うことを覚えていきたいと思います。ゲリジム山、エバル山ではないですが、何か神様の事を思い出せる記念の物を用意しておくのもいいかもしれません。そして失敗してしまったときも恐れず神様に悔い改めをしたいと思います。神様は必ず赦して下さって、その失敗をも活かしてくださるお方です。

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キリストにあって一つの体、互いに従う

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5:21)

エペソ人への手紙は、「一つに」や、「互いに」という言葉が多く出てきます。クリスチャンは神様と一つとされたものであること、互いに助け合う事などが教えられています。使徒の働きによるとエペソには女神アルテミスの神殿がありました。相当大きな立派な神殿であったようです。そして町の人たちも「エペソの町は女神アルテミスの町だ。」と熱心に信じていました。エペソの教会は、そのようなアルテミス信仰の強い町にたてられていた教会でした。使徒の働き19章には、クリスチャンとエペソの町の人のいざこざが書かれています。

エペソ5章では、クリスチャンであるならば、クリスチャンらしく生活するように心がけなさいと言っています。そうすることが、他の宗教の人々の間で生活するときに、クリスチャンとしての光を放つことになるからです。真の神様によって救われ、何が良いことで、何が悪いことか判断できるようになりました。以前は罪の奴隷でしたが、今は光の子どもとされたのです。ですからクリスチャンとして光の子どもらしく歩みなさいと勧めています。

その中で、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という言葉が出てきます。この言葉は続く、妻たちへの教え、夫たちへの教え、子どもたちへの教え、奴隷たち、主人たちへの教えへと導く鍵の言葉です。キリストを中心として生きること、キリストのみを主人として生きるのがクリスチャンです。「クリスチャン=キリスト者」とはそういう意味の言葉です。キリストは私たちの主ですが、多くの人に仕える生き方をされました。今日の私たちのためにも十字架の贖いのわざを成し遂げてくださいました。私たちの主がそのような生き方をされたのですから、しもべである私たちもキリストと同じように互いに従いあう生き方をしましょうというのがエペソ人への手紙の教えです。互いに従いあうということは、互いに愛し合うということです。愛をもって誠実に接し合うという事です。5:28は夫たちへの教えの中の一節ですが、このように書かれています。「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」キリストに倣って夫は妻に従うのですが、それは夫が妻を、自分の体のように愛するという事です。究極の意味で、夫と妻は一つだからです。ですから夫が妻に従うというのは、主人としもべの関係になったというよりは、一つとされたから、お互いに愛し合うのが自然で、お互いに別々になるのはおかしいでしょうということになります。キリストはクリスチャンに対して、教会に対して、そのように愛されたということが書かれています。キリストは教会と結婚して一つとなりました。ですからもはや自分のからだとなった教会を、キリストは心から愛してくださっています。私たち教会にいる兄弟姉妹が互いに従う、互いに愛し合うということは、キリストにあって一つとされているからです。

互いに従いなさいということについて教えられていましたが、今一度私たちは何と一つとされているかしっかりととらえさせて頂きましょう。私たちはキリストと、そしてキリストを通して兄弟姉妹と一つとされています。聖書のほかの箇所では、もし私たちが他の何か、偶像に心奪われるなら、その偶像と一つとなってしまいますよと教えています。しっかりと私たちはキリストと一つとされていることを捉えさせて頂きたいと思います。

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ご恩寵のうちに

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)

詩篇30篇は、喜びの歌のようです。ただ喜んでいるというよりは、一度は苦しみにあったけれども、回復された喜びを歌っているように見えます。この詩篇の表題には「家をささげる歌」とあります。家を建てた時に、この家を感謝し聖別するために歌った歌かもしれません。この表題については年月が経ってからつけられたのではないか?という説もあるようです。いずれにしても、家を建てた記念に、それまでの工程を振り返り、人生を振り返り、山あり谷ありであったけれども、こうして喜びの時を迎えたという内容の歌を歌いたくなる気持ちはよく分かります。この詩篇は、あるふとした時に、自分のたどってきた道を思い返し、守られたことの感謝の喜びを歌っている詩篇です。

人生山あり、谷あり。それはだれもがそう思うのではないでしょうか?まだ人生経験の乏しい子どもでさえ、いつもうれしい日ばかりではないということはよく分かっています。いつもうれしければどんなに幸いだろうかとも思いながらも、人生には辛い時もあります。そんな辛い時、苦しい時に、私たちをしっかりと支えてくださるお方がいるという事は素晴らしいことです。この詩篇の作者は、苦しい時にしっかりと自分を立たせてくださった神様に感謝をしています。7節にこう書かれています。「主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」神様、あなたはご恩寵のうちに私を立たせてくださいました。とあります。「恩寵」という難しい言葉が出てきました。恩寵とは恵み、慈しみのことだと思いますが、ヘブル語には、ヘーン、ヘセドゥといった恵みという意味の言葉があります。しかしここで使われているのは、ラツォンという別の言葉です。この言葉は「受け入れる」という意味があるそうです。つまり神様の特別な顧みによる恵みのことを指しているようです。恩寵という言葉も何となく、特別に囲って受け入れているイメージだと思います。人生は、時には辛いこともあったけれども、神様からおしかりを受けるようなこともあったけれども、そのようなときにも、神様の御手が私を囲って守ってくださっていたのだという事を思い返し、感謝をささげている様子がうかがえます。

親は子どもを愛しているからこそ、時には厳しく接します。子どもがその事に気づくのは、ずっと後になって大人になってからです。大人になって振り返った時、親の愛、恩寵を知ります。私たちと神様の歩みも、山あり谷ありを走っている最中にはなかなか気づかないかもしれません。しかしふと何かの時、家を建てた記念のようなときに、立ち止まって振り返ると、神様の恩寵に気づくのではないでしょうか。そして神様の恩寵の内側で生きることこそ、私たちの幸いであると気づきます。その恩寵の中には、まだ山も谷もあるかもしれませんが、神様の恩寵の外側で生きるよりは幸いであると感じます。神様の恩寵のうちでは、夕暮れに涙が宿っても、喜びのうちに朝明けを迎えることができると経験から分かっているからです。信じることができるからです。今日も神様の恩寵のうちに歩ませていただきましょう。

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雪ですね

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雪ですね。

うっすら積もってます。お出かけの方、足元に気をつけてください。

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あなたの小道を教えてください

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(詩篇25:4-5)

詩篇25篇には、道という表現がよく出てきます。神様の道、主の道を教えてくださいということが主題となっている詩篇のようです。クリスチャンも、ユダヤ人も、自分たちの宗教のことをよく「この道」と表現してきました。それはユダヤ教、キリスト教というのが、一過性のものではなくて、人生に渡って継続していくものであるということを示しています。救いを受けたからそれで終わりなのではなく、そこからがスタートで、自分の人生、この地上生涯と、永遠に続く天国での生活にまで続くものであるということを示しています。キリスト教やユダヤ教でなくても、私たちは自分の人生のことを「道」と表現します。どの道を歩んで生きているのか、自分は人生をかけてどこへ向かっているのか、それが私たち人間が心の奥深い部分で求めていることなのかもしれません。

詩篇25篇では、神様に向かって「主よ。あなたの道を教えてください。」と祈っています。これは「神様、あなたは人生をどう歩んでいるの?ふ~ん。そんな道を歩んでいるんだ。じゃあね。」ということではありません。単なる好奇心から神様に「道を教えてください。」ときいているのではありません。自分がその道を歩みたいので、「教えてください。」と頼んでいるのです。5節にあるように、「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。」ときいています。なぜなら、この詩篇を作った作者は神様の事を、「あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」と慕っているからです。私たちはみな、自分の人生の道を歩んでいます。その道は誰か他の人が用意してくれて歩んでいる道ではありません。誰かが前に通った道でもありません。自分だけの道です。自分の道が他の人と違うのは当たり前で、交換することもできないのです。まさに私たちは常に前人未踏の道を歩んでいます。このような道なき道を歩んでいるのですから、私たちは当然先行き不安になります。だれかに導いてほしい。ガイドしてほしい。と思います。この詩篇の作者は、神様にガイドしてほしいとお願いしているのです。神様以外にこの責任重大なことに関して頼れる方はいないということです。

詩篇25:4ではこの道について「小道」と表現しています。神様が導いてくださる「あなたの小道」です。面白い表現だと思います。どうして小さい道なのでしょう?自分という存在の小ささを認識してというのもそうかもしれません。新約聖書マタイ7:13-14でイエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と言っています。あなたの小道とは、その道が神様のガイドなしでは見つけるのが難しい道であるということを表現しています。詩篇25篇も作者も「あなたの道を教えてください」という言葉とともに、「わたしの罪を赦してください」ということも多く語っています。神様なしで、自分でなんとか歩んでいこうと思ったけれど、失敗も多かった。そこで今度は罪を悔い改めて、ちゃんと神様のガイドのもとに歩んでいきたいという思いが伝わります。私たちも今一度、あわれみによって神様に罪を赦して頂き、神様のガイドを求めたいと思います。

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