イエス様の価値観~マタイ5:38-48

「目には目を葉には歯を」ということばを聞いたことがある方は多いのではないでしょうか?これは旧約聖書の出エジプト記やレビ記に書かれている律法の一部分です。この箇所には火傷や骨折、またいのちの代価についてのことに対する規定日本の法律的にいうと傷害罪についての裁きとして記されています。これだけ見ると怖いように感じるかも知れませんがこれは実は制限なのです。 人はなにか自分に対してされたことに対して同じような目に遭えばいいのにという以上に報復しようとする自己中心的な思いに負けることがあります。何倍もにして痛みを返したくなるような思いです。しかしローマ人への手紙やヘブル人への手紙には復讐は神様に任せることについて記されています。そしてほかでもないイエス様ご自身がこの規定について悪に対して悪で報いず自分の敵を愛し、そのために祈るようにと言われています。ここまでくるとすごくハードルが高く感じるでしょう。しかし世界中である負の連鎖を断ち切る方法はまさにこのイエス様の価値観、品性を理解し、実践しようとしていくことだと感じます。完全に実践出来なくてもそこには赦しがあり、歩み寄ろうという心がそこにあるからです。 聖霊様によって心の内面の深いところからきよめられ、思いを一新していくことが出来るように、神様に思いを委ねていきましょう。 [Read more...]

信仰によって義とされる~ローマ4:7-25

信仰の父としてアブラハムという人物が聖書ではひとつの柱として書かれています。旧約で登場する人物ですが新約においても信仰による義、救いと愛によって働く信仰をこのアブラハムの信仰を通して教えています。「行いのない信仰は死んでいる」とヤコブは記していますが逆に行いがないと救われないという強迫観念を持つことも間違っています。神様を信じ、期待する時にそのように備え、また行動するのは自然なことです。誰かの誕生日を祝おうと思ったら「おめでとう」と声をかけ、また時には喜んでくれたらとプレゼントを探し、そして買いに行って準備するでしょう。これは思いから出て来る自然な行動です。また思いがあるから行動しているのですが行動を見て思いがあることも分かります。また思いがあっても行動出来なかった時に「なにかプレゼントしたいと思ったのだけど準備が間に合わなかったからまたなにかお祝いさせてね」と声をかけることもあるでしょう。これも思いがあるからです。この関係のスタートは何かを行動する前にある思いであることが分かります。まずそれで喜ばしいことですし、その先の行動までいけばそのことをよりきちんと認識することが出来ます。神様を信じる信仰と行いというのはこのような自然な関係から流れていきます。プレゼントを選ぶ時に何を喜ぶのかをいろんな情報や経験から選ぶように成熟したクリスチャンは神様の思いを知っていてそのことを満たそうとして行動することが出来ます。自分が好きか嫌いかではなく神様が喜ばれるから喜んでするのです。信仰によってより神様との関係を深め、共に集まり、歩んでいきましょう。 [Read more...]

人の期待と神の期待~マタイ11:2-19

私たちが日常生活の中でサンプルや見本というもの、また説明を見て色々と予想して期待以上、期待以下という評価をしながら生活しているところがあると思います。メニューの写真と現物が思っていた以上に違ったとかいうこともあるでしょう。「どれくらい辛いのか」という主観的な質問に対して「大して辛くないですよ」という返事が来ても辛く感じるか感じないかは受ける側の主観によるとところが多いものです。また人に対する期待も様々な情報、期待、先入観、固定概念によって変わってきます。 マタイ11章にはバプテスマのヨハネとイエス様ご自身が当時ごく一部の人と信じたいが受けていた悪評について書かれています。そこには預言者やメシヤについての先入観と期待とのギャップから来るものを見てとることが出来ます。表面的な部分や一部の言動での評価がなされていることが分かります。新約にはいってから旧約と比べると様々な点で大きな変化があったことを私たちは聖書から知ることが出来ますが、当時の人々の中には混乱があったことが分かります。 現代に至るまで主は新しいことをなさっています。私たちはその表面上のものではなく、本質的なものを汲み取るべく、霊の目を開き、霊の耳を開いていただくように柔らかい心で主を見上げていきましょう。「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ」と箴言25章にあるように主の御心を求め祈っていきましょう。 [Read more...]