信仰によっての行い~ローマ14:22-23

 相手への配慮で自分の行動を制限するような場合があります。その土台に愛があればそれは素晴らしいものです。文化的に相反するような習慣がある人々が集まる時にこの配慮にも限界が訪れます。聖書には肉をどのように扱うかということを例にあげてそれぞれの信仰によって行うならばそれはどちらも問題ないということがらが書かれています。当時のエルサレムにおいても多様性がありましたが移動手段が発達し、通信手段も多様になった現代においてこの問題をどのように扱うかということもかなり受け入れ合いやすい土壌になっていると思います。それは多くの文化の違いをより理解しやすいことから自分の当たり前が他の人の当たり前ではないということを多くの方が理解するようになっているからです。ですから周りの人の表面的な習慣などの違いでつまずくということが減ってきたと思います。聖書を土台として考えるならばお互いの違いを受け入れ合い、繋がり合うことで教会がキリストの体として建て上げられていくことを理解することが可能になります。しかしちょっとした信仰のスタンスの違いが気になってしまうこともあるでしょう。そのような時にこそ聖書に立ち返り、精査し、神の家族としてひとつとされていくように整えられるように励みたいものです。私たちの習慣、行いが信仰を土台として建て上げ、そして自らも良いと認めることを神様の前にも人々の前にも行う者とされていきましょう。 [Read more...]

すべての人の主~ローマ14:5-9

キリストの救いは完全なものです。ローマ14章を見る時にイエス・キリストの十字架と復活、この死と復活を通して生きている人にとっても死んだ人に対しても主となられたとあります。またパウロの死生観として生きるなら主のために生き、もし死ぬのなら、主のために死ぬということばがあります。自分のために人生を歩むのではなく神様とともに歩む人生はそのような価値観での歩みがあります。つまり神様によって創られたその目的に従って歩むこと。そして主の道とその備えに期待するという信頼に基づいた歩みです。私たちは周りと比べて豊かだと思ったり貧しいと思ったりしやすいものですがその比べる心は神様の前に貧しいと気がつく必要があります。そして主にあって満ち足りるということを知っていくと状況によって左右されない平安ということが理解出来てきます。イエス・キリストにあって私たちの罪が赦されて神の子とされ、そしてこの地上においても主とともに歩むことが出来る特権が与えられるということをしっかりと確信して歩むならば感情的に落ち込むことがあってもまた立ち上がることが出来ます。主にあって歩む人生の歩みを共に力強く歩んでいきましょう。 [Read more...]

立たせて下さる主~ローマ14:1-4

安易につかってしまうことばの一つに「がんばる」という言葉があります。自分に対して使ったりまた人を励ますためにがんばって!と声をかけたり、その使い方は万能に見えますが本人としては十分やっていて限界なのにこのことばをかけられるととても負担になってしまうこともあります。また精神的に鬱状態の方にこのことぱを使ってはいけないと教わったかたも多いのではないでしょうか? 信仰の弱い人を裁いてはいけないとローマ14章にはあります。この信仰の弱いというのも自分の観点から聖書と照らし合わせて弱く見える部分があるというのが正しい引用でしょう。しかもすべてが弱くなっているのではなく、ある特定のところについてということが多いです。そのような部分的なところの弱さであっても指摘されると受け入れることが出来なかったりする場合もあります。しかし最終的に神様がしもべを立たせてくださり受け入れて下さったのはイエス様ご自身であることを覚えるならば私たちは問題を目の前に突きつけられたような状態からもっと神様の視点に近い位置から見直すことが出来るようになります。主にあってお互いを受け入れあうということは賜物や表面的なもの以上に互いの存在を理解しあうということから始まります。主にあって受け入れ合い、そして互いに主にあって建て上げられていく者とされていきましょう。 [Read more...]