主にあって見る~ローマ16:1-2

人と関わる時第一印象で直感的に感じ取るものやある程度情報を持っているからこそ先入観を持って見る面があったりすると思います。そしてそのふたつが合わさって関わりが出来て実際に交流していく中で出来る信頼関係もあるでしょうし、その逆もあるかも知れません。しかしその前に文化的背景という大きなベースがあります。それは例えば今でも世界の中には男尊女卑とも言える文化を持った地域もあります。また同じことでもどういう人がいうかで影響力が違うことも多いのではないでしょうか?これは年齢、性別、立場、見た目、いろいろな要素で変わってきます。
 人間関係を正していく時に大切なのは神様を通して見るということです。また神様を通して語るということです。私たちはその人の今を見て対応し、それに過去の情報が重なることでより的確に関わろうとします。しかしイエス様はまだ十分に成熟していないペテロに対して信仰を持って彼の将来の姿を示されました。そしてそのことばのようになりました。イエス様のことばによってペテロは一次的に舞い上がってしまったかも知れません。もちろんその場面があったとしたらそれだけ見てタイミングを間違えたかも知れないと思うかも知れません。しかし主にあって見、そして語る時にそれは私たちの考えを遥かに超えた影響をもたらすのです。誰しも認めていない時に可能性を見いだすのは神様を通して見る必要があるからです。またそのことを知るならば誰しも大きな可能性を持っているということを知ることが出来ます。主が愛し、建て上げられる時にそれは力強いキリストの花嫁としての教会となります。

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ちからあるとりなし~ローマ15:30-33

祈りとは神様との対話です。会話の流れの中にはいろんな要素が入ってくるので○○の祈りという風に会話のテーマを区切るよりも全体の中にある要素のひとつ。という捉え方のほうが正しいとは思います。そうした前提を踏まえたうえで祈りの方向性、考え方ということを見る時に感謝の祈り、お願いしていく祈り、神様の御心を求めていく祈りなどがあげられると思います。そして聖書の中に見ることが出来る祈りとして大切なのはとりなしの祈りです。ローマ15章の終盤でパウロは自分のためにちからの限り祈ってほしいと要請しています。これはとりなしの祈りを意味しています。またさらに深いところを見るのであればモーセがイスラエルの民を導いていた時に彼らの罪を覆うために自分の名前がいのちの書から消えてもいいからという勢いで神様の前にとりなしの祈りをしています。これがとりなしの本質的要素です。他人の罪を自分の罪として悔い改める祈りです。イエス・キリストの十字架の贖いは完全なとりなしであり、十字架上で自らを刺した兵隊に対してかけられた言葉もとりなしでした。このとりなしの祈りには大きな力があることをパウロも知っていました。互いにカバーしあう時にその共同体はより強固なものとなっていくからです。互いに指さし合う共同体よりも覆いあう共同体のほうが霊的に見る時には優れています。その中で甘える人が出てしまったらという懸念も出るでしょう。それは霊的に幼い状態であるのかも知れません。家庭でも小さい子どもは甘えるものです。そこから成長し、一人前になっていくように私たちも神様の前に成熟していくことが出来るのです。互いに補い合い、とりなす者として成熟していきましょう。

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祝福の実を実らせる~ローマ15:23-29

思いと行動の一致は本当に大切です。好きだけども会おうともせず、デートにはお金を払わないという人がいるとしてその相手は愛情を感じることが出来るでしょうか?時間の長さや金額の大小の問題ではなく姿勢の問題としてこれを考えるならば私たちの助け合いや愛するということの現れがもっと分かりやすくなります。
パウロはローマ人への手紙の中でエルサレムの貧しいクリスチャンを支えることも異邦人クリスチャンの献金で行いました。これは霊的な祝福がそこを通して世界に広まったことから救われたことの感謝を表す行為であったり、互いに愛しあうことの実践であったりといろんな側面が見られますが大切なのは彼らは祈りと共に具体的な行動も伴うかたちで愛を表していたということです。そしてその祝福の連鎖は霊的にも実際面でも大きな祝福となって広がっていくこととパウロは信じていました。
究極の愛がアガペーの愛、無条件の愛という表現で記されていますがこの愛はイエス・キリストに見られるいのちをも惜しまない愛です。その大きな愛を受けた私たちがその愛まではいかなくても今まで以上に愛に溢れる者とされていくのは自然なことです。イエス様は多くの例え話の中でそのことを教えておられます。犠牲=損という考えではなく、祝福を受けたからこそ祝福を流していく。それがさらに祝福を生み出していくこと受け止めていきましょう。

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