説教題:『ここに愛がある』
聖書箇所:Ⅰヨハネ 4:9-10(説教者:井垣勇基 伝道師)

導入:本物の気遣いと愛

相手が世話になっていることに気づかないほどさりげなく、手厚い母の愛こそが本物の気遣いです。私たちも、神が惜しみなく注いでくださる変わらない愛を、普段見落としがちではないでしょうか。聖書は「ここに愛がある」と語ります。神の愛の三つの側面から、ご一緒に考えていきましょう。

1.神は私たちの造り主である

聖書は、私たちが生きる上で必要なものを与え続け、愛してくださる聖書の神が、天地万物とあなたを創造した造り主であることを前提としています(創世記 1:1)。宗教の神々が「人間が造った神」であるのに対し、聖書の神は「人間を造った神」です。
愛用のオカリナ職人が、職人としての熱意と目的をもって時間をかけ、納得のいく作品を完成させるように、神はあなたを、ご自身の目的に沿った熱意をもって、意味のある存在として造り上げてくださいました。
「自分はダメな人間だ」「生まれて来なければよかった」と考える時も、あなたを造った神に目を向けましょう。神は、あなたが生まれてきてくれたことを心から喜んでおられ、あなたに必要なすべてを無償で与え、生かしてくださっているのです。ここに、私たちが見落としがちな神の愛があります。

2.私たちは罪人である

聖書が教える「罪」とは、犯罪や悪行に留まりません。ギリシャ語で「ハマルティア」、すなわち「的外れ」という意味です。神という的から離れ、自分の思うままに生きることを聖書は罪と呼びます。
クジラが陸に上がると自らの重みで死んでしまうように、私たち人間も、本来いるべき場所である神との関係から離れると、自らの罪の重みに苦しみ、やがて死に至ります。神から切り離された人間は、きれいな花が根から切り取られたように、すでに「いのちがない」、つまり死んでいる状態なのです。
この「私たちの罪」は、神の怒りを引き起こします。人間は死後、神の前に立ち裁きを受け、罪の問題が処理されなければ、完全に神から切り離された場所である永遠の地獄に行かなければなりません。
しかし、地獄について最も多く語られたのは、イエス・キリストご自身です。それは、その苦しみがあまりにも大きく、何としても私たちをそこに行かせたくないという、神の切実な愛があるからに他なりません。「あなたは罪人であり、神の裁きを受ける」というこの厳粛なメッセージにも、神の愛が込められています。

3.神は私たちを救うために御子を遣わされた

罪人である私たちに永遠のいのちを与え、神の怒りから救い出すために、神は「御子(ひとり子)を遣わされた」のです。御子とは、およそ2000年前に人となってこの世界に来てくださったイエス・キリストのことです。
神が人となられたのは、「あなたが人だから」です。愛は、愛する相手と一体化します。松葉杖の主人を愛する犬が、自分の足を引きずる行動で一体感を示したように、神も私たちと一体となるため、罪のないお方でありながら、私たちのすべての苦しみを味わってくださいました。
イエス・キリストがこの世に来られた究極の目的は、「私たちの罪のために、宥めのささげ物」となるため、すなわち、私たちが受けるべき神の裁きを、身代わりとして十字架で受けるためでした。顔に火傷を負った夫に対し、「私の顔にも同じ傷をつけてほしい」と願った妻の想像を絶する愛が夫の心を溶かしたように、イエス・キリストは、私たちが背負うべき罪と罰をすべてご自身に負わせてくださったのです。
イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活は、神があなたを特別に愛していることの揺るぎない証です。

結論

イエス・キリストを自分の罪からの救い主として信じる時、神はあなたの罪を赦し、永遠のいのちを与え、最終的に天国に入れ、イエスさまとともに生き続けさせてくださいます。
聖書が語るように、「ここに愛があるのです」。人知をはるかに超えた、神の自己犠牲的な愛が、今あなたに注がれています。どうか、イエス・キリストを信じ、この本物の神の愛と、罪からの救いを受け取ってください。