パトカーのサイレンを聞くと、人々は異なる反応を示します。「忙しいから関係ない」という態度の人もいますし、「警察が来てくれた。助かった」と感じる人も、「やばい警察だ。見つかった」と思う人もいるでしょう。それぞれの置かれている状況によって、一つの知らせに対し、三つの異なる応答があるのです。これと同じように、マタイ2章1–12節に記される「東方の博士たちと星」の物語もまた、神の御子の誕生という救いのしるしに対して、人々が三つの異なる応答を示すことを描いています。

第一に、ヘロデ王の応答です。彼は「その子を探し出して、自分も拝ませてもらいたい」(2:8)と言いましたが、その心には恐れと敵意しかありませんでした。生まれた王を受け入れることは、自分の王座を手放すことを意味するからです。神の御子の支配に対して心を閉ざす姿は、今日の人間の罪深い姿をも映しています。

第二に、宗教的指導者たちの応答です。祭司長や律法学者は、メシアがベツレヘムに生まれることをよく知っていました(2:5–6)。しかし彼らは動きません。知識を持ちながらも、実際に王を礼拝する行動へとつながらなかったのです。「知っている」ことと「従う」ことの間には大きな隔たりがあることを示しています。

第三に、東方の博士たちの応答です。彼らは遠い国から星に導かれて旅をし、「その子を見いだすと、ひれ伏して礼拝した」(2:11)と記されています。彼らは宝物を開き、黄金、乳香、没薬を献げました。長い道のりと犠牲を払ってでも、真の王に出会うことを最も大切なこととしたのです。

この博士たちの姿を思い起こさせるのが、19世紀初め、ウェールズの少女メアリー・ジョーンズです。彼女は自分の聖書を持つことを切に願い、裸足で26マイル(約40キロ)の道のりを歩き、ようやく聖書を手に入れました。博士たちが遠い旅をして御子に礼拝したように、彼女もまた神のことばを求めて労苦を惜しみませんでした。(この物語から聖書協会が設立されたことはよく知られています。)

では、私たちはどう応答するでしょうか。
― ヘロデのように、心の王座を守ろうとしてキリストを拒んでいないでしょうか。
― 宗教指導者のように、知識はあっても実際の行動に移していないでしょうか。
― それとも博士たち、そしてメアリー・ジョーンズのように、犠牲を払ってでも主を礼拝する者となるでしょうか。

神は御子イエス・キリストを世に与えてくださいました。その福音にどう応答するかが、今も私たち一人ひとりに問われています。

【適用】


博士たちは、遠い旅路と多くの犠牲を払っても、ただ主に出会い礼拝することを第一としました。私たちもまた、自分の宝や時間、人生を握りしめるのではなく、王であるキリストにささげ、日々の生活そのものを礼拝として生きるように招かれています。

「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。 それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」

マタイの福音書2章10-11節

――この御言葉のように、私たちも主にひれ伏し、心からの喜びをもって従っていく者でありたいと思います。