聖書箇所:マタイの福音書5章6-12節

説教題:『平和をつくる者の幸い』

本日はマタイの福音書5章6節から12節より、「真の幸い」の後半部分を共に味わってまいりましょう。前回学びましたように、イエス様が語られる「幸い」は、この世的な成功や満足とは全く異なり、天の御国の価値観に基づくものです。では、御国の民として召された私たちは、何を追い求め、どのように生きるべきなのでしょうか。

第四の幸いは「義に飢え渇く者」です。この「義」への渇望には二つの側面があります。第一に、罪ある自分自身が神の前に正しいと認められたいという、魂の切実な叫びです。第二に、不正がはびこるこの世界に、神の公正さが実現することを願う情熱です。 かつてダビデは、祭司たちを虐殺したドエグやサウルの悪を前に、詩篇52篇で「お前は善よりも悪を愛している。しかし私は神の家に生い茂るオリーブの木。世々限りなく神の恵みに拠り頼む」と歌いました。彼は悪が横行する中でも、主の恵みと義を求め続けたのです。イエス様は、このように義を慕い求める者は「満ち足りる」と約束されました。原語の「コルタゾー」は「完全に満たされる」ことを意味します。私たちはキリストの十字架の御業によって義と認められ、やがて御国においてその願いが完全に満たされるのです。「まず神の国と神の義を求めなさい(マタイ6:33)」という約束は、私たちにとって確かな希望です。

第五の幸いは「あわれみ深い者」です。御国の民があわれみ深くあるべき理由は、私たちがすでに神から計り知れないあわれみを受けているからです。マタイ18章のたとえ話にあるように、王(神)は家来の天文学的な借金を帳消しにしました。これを現代の価値に換算すると、労働者の賃金約16万4271年分という、一生かかっても返せない額です。私たちはこれほど大きな罪の負債を、キリストの代価によって赦されたのです。この圧倒的な恵みを知る者だけが、他者の小さな負債を赦し、あわれみ深く生きることができます。そして、そのような者こそが、御国においてさらに豊かなあわれみを受けるのです。

第六の幸いは「心のきよい者」です。「心(カルディア)」とは人格の中心、「きよい(カタロス)」とは混じりけのない状態を指します。二心なく、純粋な動機で神を求め続ける者は、「神を見る」という人間にとって最高の祝福にあずかります。

第七の幸いは「平和をつくる者」です。これは単に争いを好まない「平和な人」ではなく、積極的に和解をもたらす「平和の作り手(Peacemaker)」です。平和を作るためには、義への渇望、あわれみ、心のきよさが不可欠です。争いの中に割って入り、和解をもたらす姿は、まさに平和の神の性質そのものです。ゆえに、彼らは「神の子ども」と呼ばれる名誉を受けるのです。

最後に、第八の幸いは「義のために迫害される者」です。ヨハネ15章やⅡテモテ3章にある通り、御国の価値観に生きる者は、世の価値観と衝突し、摩擦や迫害を避けることができません。しかしイエス様は「喜びなさい。大いに喜びなさい」と仰せられます。なぜなら、目に見える苦難は一時的なものであり、天における報いは永遠だからです。パウロも「一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光をもたらす(Ⅱコリント4:17)」と語りました。

私たちは日々、選択を迫られています。一時の安楽や世の賞賛を求めるのか、それとも、迫害があろうとも永遠に続く「真の幸い」を求めるのか。 私たちの生涯は一度きりです。主イエスは、ご自身を信頼する者を決して裏切られません。どうか目先の損得ではなく、永遠の御国に目を留め、主が「幸い」と言われる道を、喜びをもって歩み続けてまいりましょう。お祈りいたします。