聖書箇所:マタイの福音書5章17−22節
説教題:『律法学者にまさる義しさ』
1. 導入:一年の節目に主に伺いを立てる
2025年最後の礼拝にあたり、私たちは過去を振り返り、未来に目を向ける大切な時に立っています。神様がこれまでどのように私たちを扱ってくださったか、そしてこれからの歩みに何を期待するのか。ダビデがそうしたように、一度立ち止まって主に伺いを立てる時を持ちましょう。
本日は、マタイの福音書から、イエス様が語られた「律法と預言者の成就」について、特に現代の私たちにとっても重要な「信仰による救いと律法の関係」を考えます。
2. 形骸化した律法主義への警鐘
当時の律法学者やパリサイ人は、律法を厳格に守ることを誇りとしていました。しかし、彼らの実態は「形式主義」に陥っていました。例えば、安息日に18年間病に苦しんでいた女性をイエス様が癒やされた際、彼らはその奇跡を喜ぶどころか、安息日の規定を破ったとして憤りました。
彼らは、自分の家畜に水を飲ませることは許容しながら、苦しむ隣人の癒やしを拒むという矛盾を抱えていました。ミントやクミンの十分の一を納めるなどの細則には熱心でしたが、律法の中で最も重要な「正義、あわれみ、誠実」をおろそかにしていたのです。彼らは自ら数千もの細則(伝統)を作り出し、それによって「父と母を敬え」という本来の戒めさえも骨抜きにするような「法の抜け穴」を利用していました。これは律法を破壊する行為に他なりません。
3. 「まさる義」とは何か
イエス様は「パリサイ人や律法学者にまさる義がなければ、決して天の御国に入れない」と言われました。これは、彼ら以上に厳格な形式主義を求めているのではありません。イエス様が求められるのは、外面的な行為だけでなく、内面の動機や思いまでもが神の基準に適う「義」です。
「殺してはならない」という律法は、単に肉体的な殺人を禁じるだけでなく、心の中の憎しみや怒り、兄弟を罵る言葉をも裁きの対象とします。世の法廷では行為のみが裁かれますが、天の法廷においては、心の内側の汚れも殺人と同じ罪として扱われるのです。私たちの多くは、神の義の基準を低く見積もり、「自分は大きな罪を犯していないから大丈夫だ」と勘違いしがちです。しかし、神様は心の奥底にあるすべてをご覧になっており、その要求される基準は、人間が自力で到達できるほど低いものではありません。
4. 福音:キリストによる律法の成就
自分たちの行いや形式的な義に頼る者は、すべて「律法の呪い」の下にあります。なぜなら、律法を一点の曇りもなく守り通せる人間は一人もいないからです。だからこそ、イエス様はこの地上に来られました。イエス様は、私たちの身代わりとしてすべての律法を完璧に守り、その上で私たちの罪を背負って十字架で死なれました。
「律法を廃棄するためではなく成就するために来た」というお言葉の通り、イエス様は律法の真の意味を解き明かし、ご自身の生涯をもってそれを完成されました。私たちが天の御国に入るために必要な「まさる義」とは、努力で手に入れるものではなく、イエス・キリストを信じる信仰によって、神から無償で与えられる「転嫁された義」なのです。
結び
私たちは、自分自身の不完全な義や、形ばかりの宗教性に頼ってはいないでしょうか。私たちが救われ、神の前に義とされる唯一の道は、キリストの十字架と復活を信じる信仰にあります。この2025年の終わりに、改めてこの福音の核心を握りしめ、主の恵みに感謝しつつ、新しい歩みへと踏み出していきましょう。
