説教題:『見分ける責任』

聖書箇所:マタイの福音書7章15−20節

1. キリスト者における義務と責任の全う

社会生活において自由や権利を享受する人には、他者の権利を守るための義務と責任が伴います。これは信仰生活においても同様であり、キリスト者は律法から解放されているからといって、無責任で自己中心的な生き方をして良いわけではありません。むしろイエス様への信仰に基づき、率先して義務を果たす誠実さが求められます。
この姿勢は教会という共同体においても不可欠です。誰かが一人で重荷を背負い、他の者が無関心であれば教会は崩壊しかねません。私たちは「隣人を自分自身のように愛しなさい」という愛の掟を与えられており、自発的に責任を担い、互いに支え合うことで真に律法を全うする生き方を主から求められているのです。

2. 偽預言者とそれを見分ける信徒の責任

マタイの福音書7章15節で、主は「偽預言者たちに用心しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、内側は貪欲な狼です」と警告しておられます。羊は自己防衛の武器を持たず、羊飼いの導きなしには生きられない弱い存在です。偽預言者や悪い指導者は、その外見こそ敬虔な信仰者のように装いますが、その本質は神の御心を伝えることではなく、羊の群れを食い物にして私腹を肥やすことにあります。
これは旧約聖書のエゼキエル書34章に登場する悪い牧者たちとも重なります。彼らは羊を養う責任を放棄し、民が喜ぶような耳心地の良い言葉や、偽りの平安ばかりを語って民を惑わし、最終的に国をバビロン捕囚という崩壊の憂き目に遭わせました。
しかし、ここで私たちが直視すべきは、このような無責任な指導者の暴挙を許してしまった「民の側の責任」です。当時の民は、真の預言者が語る厳しい警告に耳を塞ぎ、自分たちが聞きたい言葉、自分たちを全肯定してくれる甘い言葉ばかりを求め、すすんで偽預言者に同調し続けました。指導者の誤りを見極めることをせず、盲目的に従った聴衆の側にも、神の前に大きな過失と無責任さがあったのです。

3. 「実」による見極めと聖書の吟味

では、私たちはどのようにしてその偽りを見破ればよいのでしょうか。イエス様は、人はその「実」によって見分けられると教えられました。これは外見的な成果や能力だけで判断するという意味ではありません。茨からぶどうが採れないように、人間の内面にある信仰の本質は、日々のふとした言葉遣い、例えば他者への高慢な態度や、社会的な義務の軽視といった形で、必ず外側の「実」として現れてきます。
かつてある人が、コロナウイルスの流行を「自然界の反発である」と語っていました。私たちは、それがどれほど権威のある立場に立つ指導者の発言であっても正しく見分け、それが聖書の世界観と合致していないならば、違和感を覚えなければなりません。聴衆が受け身のまま盲目的に教えを受け入れるなら、教会全体が誤った方向へ進む原因となり、その過失の責任は聴衆の側にも帰せられます。
使徒の働き17章に登場するベレアのユダヤ人たちは、語られたメッセージを単に習慣として聞き流すような無責任な聴衆ではありませんでした。彼らは非常に素直な心で熱心にみことばを受け入れつつも、それが「はたしてそのとおりかどうか」、自ら毎日聖書を開いて徹底的に調べ、吟味したのです。
私たち一人ひとりにも、自らの魂と教会全体の霊性を健全に保つために、正しい教えと誤った教えを見分ける責任があります。安易に自分を慰めてくれる言葉ばかりを追い求める姿勢を改め、真の羊飼いであるイエス様の御声に真摯に聞き従う弟子としての歩みが求められているのです。