説教題:狭い門から入りなさい
聖書箇所:マタイの福音書7章12−14節
導入「にじりぐち」
茶道には、大人が身をかがめなければ入れない「にじりぐち」という狭い入り口があります。千利休が考案したこの構造は、世俗の身分や権力、武器を茶室という平和な空間に持ち込ませないためのものでした。どんなに地位の高い大名であっても、誇りを捨ててへりくだり、一人の人間としてフラットにならなければその先の交わりには入れません。この狭い入り口は、その空間にふさわしいかどうかを試すテストの役割を果たしていたと言えます。
いのちに至る狭い門
本日の聖書箇所であるマタイによる福音書7章13節から14節において、イエス様は「狭い門から入りなさい」と命じられています。滅びに至る門は大きく道も広いですが、永遠のいのち、すなわち神の国へと至る門は狭く、道も細いため、それを見出す者はわずかです。茶室に入る者が自らの誇りや武器を手放したように、神の御国に入るためにも、私たちは御心に従って狭い門をくぐり抜けるへりくだりと選択が求められています。
人間的な能力や競争との違い
ここで誤解してはならないのは、イエス様の言われる狭い門とは、地上における難関試験のような人間的な能力や努力の競争ではないということです。私たちは無意識に、厳しい修行や善行によって到達する境地のように捉えがちですが、神様は成果の多寡を問題にされていません。なぜなら、人間の才能や環境といった「タラント」は、マタイによる福音書25章に示されている通り、神様がそれぞれの主権によって配分されたものだからです。したがって、他者との比較や相対的な評価によって門の合否が決まるわけではありません。
神様が求められる「忠実さ」
神様が私たちに求めておられるのは、与えられた能力の量ではなく、委ねられたものに対して「忠実であったか」という点です。マタイによる福音書25章23節では、5タラントを預かった者にも2タラントの者にも、同じように「よくやった。良い忠実なしもべだ」との御言葉がかけられています。また、マルコによる福音書12章41節から44節に登場する貧しいやもめは、わずか二レプタという微々たる金額を献金しました。大金を捧げて誇る富む者たちの中で、イエス様は彼女を「だれよりも多くを投げ入れた」と称賛されました。神様が見られるのは、他者との比較ではなく、主との一対一の関係において、自分にできる最大限の愛と信頼をもって忠実に仕えているかどうかなのです。
律法と預言者の真髄と隣人愛
マタイによる福音書7章12節には、「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたも同じように人にしなさい。これが律法と預言者です」とあります。当時、宗教的エリートを自認していたパリサイ人たちは、形式的な断食や献金を人に見せつけ、他者と比較して自らを誇る偽善に陥っていました。彼らは自らを狭い門を通るにふさわしい者と考えていましたが、その実、神の御心からは遠く離れていました。
ユダヤ教のタルムードには、ラビ・ヒレルが「あなた自身が嫌うことは、あなたの隣人に対して行うな。これこそが律法のすべてだ」と語った逸話があります。しかしイエス様の教えは、この消極的な禁止にとどまらず、「自分がしてほしいことを相手に積極的に行う」という、より高い次元の隣人愛へと高められています。これこそがマタイによる福音書22章37節から40節で語られる「神を愛し、隣人を自分自身のように愛する」という、聖書全体の教えの核心です。
結論:狭い道を歩む祝福
自分の欲求だけを満たす自己中心的な生き方は、誰もが通る広い道です。対して、いのちへと至る狭い道とは、神様の御言葉に聞き従い、委ねられている賜物に応じて忠実に奉仕し、心と思いを尽くして神と隣人を愛する歩みです。うわべだけの宗教や他者との比較を離れ、主への愛と忠実さをもってこの狭い門を選び取る人生にこそ、真の命と神の国の祝福があります。この真の命の道を歩めるよう、共に祈り求めましょう。
