聖書箇所:マタイの福音書5:1−5

説教題:『本当の幸い』

私たちは皆、幸せを求めて生きています。素晴らしい結果や名誉、あるいは健康で豊かな家庭生活など、求める具体的な形は違っても、「幸せを求める」という点では共通しています。しかし、神の御子イエス・キリストが私たちに教えられた幸いは、私たちが抱く一般的な幸せのイメージとは大きくかけ離れていました。
マタイの福音書4章で、イエス様がガリラヤ全土で御国の福音を宣べ伝え、病を癒された結果、非常に多くの群衆が押し寄せてきました。イエス様は、この群衆に教え始められた最初が、この「幸い」についての教え、すなわち山上の垂訓です。
イエス様は、この教えを「幸いなものたち(マカリオイ)」という言葉で始められました。この「マカリオイ」は、一時的な喜びではなく、この世が与えられない深い霊的な祝福と永遠の価値を持つ満足を意味しています。これから語られる幸いは、永遠の天の御国という視点から理解されるべきものです。
本日は、その最初の三つの幸いに焦点を当て、神様が示された「本当の幸い」について、詳細に見ていきましょう。

第一の幸い:「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)

ここで使われている「貧しい者」(プトーコス)というギリシャ語は、自分の力ではどうすることもできない極度の貧困、他者の施しに完全に依存しなければならない状態を指します。それに「霊において」(トー・プニューマティ)という言葉が加わることで、この貧しさが物質的ではなく、霊的な貧困であることを示しています。
「心の貧しい者」とは、自分の善行や努力、道徳的な立派さによっては、決して神様の御前に立つことができない、自分が霊的に破産していることを心の底から自覚している人です。自分の罪の深さと、神様が求められる聖さのギャップを理解し、「私には主に受け入れられる豊かさは何もありません。神様の憐れみがなければ滅びてしまうのです」と、ただ神の恵みを求めるへりくだった魂の状態です。
これは、ルカの福音書18章で「神様、罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人の姿に通じます。彼は、自分の霊的貧困を認め、ただ神様の恵み・憐れみに頼りました。反対に、自分の功績を誇ったパリサイ人は、その功績によって義と認められることはありませんでした。なぜなら、主が求められる聖さの基準は、人の行いで満たせるほど甘いものではなく、また、自分の豊かさに頼る高慢な心では、神の救いを受け入れられないからです。
心の貧しさとは、自己卑下ではなく、神の御前に真実の自分を認める謙遜な態度です。この、自分の無力さを知る謙遜な依存心こそが、天の御国に入るための唯一の資格であり、一番はじめに述べられている本当の幸い、天の御国への入り口なのです。

第二の幸い:「悲しむ者は、幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:4)

「悲しむ」(ペンスーンテス)とは、単なる日常的な不運による悲しみではなく、魂の奥底からの深い嘆き、悲嘆を意味します。一見、幸いとは矛盾するこの悲しみが、なぜ幸いなのでしょうか。聖書的な文脈では、この嘆きは主に二つの対象に向けられます。
第一に、それは自己の罪に対する悲しみ、すなわち真の悔い改めを伴う悲しみです。神様の聖なる律法から外れてしまった自分の罪深さに対する、心からの痛みと嘆きです。罪が発覚した不利益を後悔するのではなく、罪そのもので神様を悲しませてしまったこと、そのご栄光を汚したこと自体を、心から嘆き悲しむのです。詩篇51篇17節のダビデの祈りのように、「砕かれた心」をもって悔い改めることです。
第二に、それは、この世の罪と不正に対する悲しみです。神様の御心がこの地上で完全に実現していないこと、不正や暴力が満ちている現実を見て、心を痛めることです。
このような悲しむ者たちには、「その人たちは慰められるから」という約束が与えられています。これは神様ご自身が、悲しむ者たち一人一人を慰めてくださるという約束です。罪を赦してくださるという確信、御霊による平安が、私たちの魂を慰めます。そして究極的には、この慰めは、キリストの再臨と新しい天と地が実現する時、すべての涙がぬぐい去られ、すべての悲しみが喜びに変わる日に完成します。この御国の希望があるゆえに、悲しむものは幸いなのです。

第三の幸い:「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(マタイ5:5)

「柔和な者」(プラエイス)とは、気弱な人や優柔不断な人ではありません。ギリシャ語の本来の意味は、力、特に怒りや権力をコントロールする能力を指します。それは、力を持っているにもかかわらず、それを抑制し、神様に対して謙遜に従順である姿勢のことです。力強いが、主人の言いつけに従う従順な馬の性質が例として用いられます。
この柔和さの模範は、全宇宙を創造された神の御子でありながら、その力を抑制し、父なる神の御心に完全に、従順に従われたイエス様ご自身です。柔和な人は、自分の権利や主張を握りしめません。不当な扱いを受けても復讐せず、神様の主権と正義を信頼し、すべてを忍耐をもって耐え忍びます。これは、神様を信頼するがゆえに自らの力を抑制できる、本当に強い人の生き方なのです。
この柔和な者に対して約束されているのは、「地を受け継ぐ」という壮大な約束です。これは、詩篇37篇11節にも記されており、単なるパレスチナの土地ではなく、神の民が享受する天の御国全体、究極的には新しい天と新しい地という永遠の相続財産を意味しています。世の中では力ある者が土地を手に入れますが、天の御国では、力を誇示せず神に信頼する柔和な者が、神の恵みによって永遠の相続財産を受け継ぐのです。

まとめ

これら三つの幸いに共通しているのは、永遠の天の御国の市民となるための内面的な準備であるということです。霊的な貧しさを認め、罪を深く悲しみ、神様に対して柔和に、従順になること。これらは、世の中の価値観とは対極にあるように見えます。しかし、すでに到来した天の御国を意識したとき、これらの内面的な準備こそが、本当の幸いに不可欠なものであることがわかります。
イエス様ご自身も、「心の貧しい者」となり、「悲しみ」を負い、「柔和に」父なる神に従順に歩まれました。そして、最も幸いなるお方となられました。
私たちは、今、神様の目に「幸いな者」と映っているでしょうか。この世の幸いではなく、天の御国に生かされる者の「本当の幸い」を自分のものとすることができるように、私たちも、自分の弱さ・貧しさを認めて神様にへりくだり、自分自身に頼ることを捨てて、柔和に、従順に歩んでいくものでありたいと願います。