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祈祷会メッセージとお祈りの課題

愛されているから愛せる

だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。
ルカ10:20

イエス様は、9章の初めに12人の弟子を選び、悪霊を追い出し、病人をいやす力と権威をあたえて、町々へ遣わしました。イエス様お一人では回り切れない人々を助けるためでした。12人はイエス様から託されて病人をいやし、悪霊を追い出し、イエス様の福音を宣べ伝えました。その結果もあってか、さらに多くの人がイエス様の事を知り、この後5,000人を超える人々がイエス様の許に集まってきます。10章に入るとイエス様はさらに70人の弟子を選び、同じように町や村へ派遣しています。その合間に、イエス様は弟子たちに、どのような心をもって町や村へ入っていくべきか教えています。

イエス様が悪霊を追い出だし、病人をいやすのは、もちろん愛のゆえでした。イエス様はいつも人々のことを愛し、あわれみ、必要な助けを与えて下さいました。ご自分がつかれている時にでも、助けを必要としている人が来ると、かわいそうに思い癒しを与えました。イエス様は10章の終わりで、隣人をあなた自身のように愛することを教えています。自分の事を大切に思うように、他の人、たとえ気に入らない相手であったとしても、大切に思い、愛を行うように勧めています。「良きサマリヤ人」のたとえはとても有名です。助けることも、癒すことも、福音を伝えることも、相手を思う愛を原動力として行わなければいけません。

イエス様は、無事に悪霊を追い出すことができて喜んでいる弟子たちに仰いました。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。」悪霊が服従するのはイエス様の力によるのであって、弟子たちの力によるのではありません。それができたからと言って弟子たちは自分の力を誇ることはできません。また悪霊を追い出す必要があるのは、弟子たちの力をアピールするためではなく、困っている人を助けるためです。隣人を愛するがゆえに悪霊を追い出すのです。ですから自分で悪霊を追い出す機会を準備することもできません。悪霊を追い出す必要に迫られるのは、いつも隣人の都合によるのです。私たちが悪霊を追い出す機会はあまりないと思いますが、隣人を愛する機会は多くあります。そのタイミングは私たちが愛したい時に愛するというよりは、相手のタイミングが大きく関係してきます。イエス様がご自分を犠牲にされて私たちを愛してくださったように、私たちも自分の時間を犠牲にして愛する必要がある時もあります。

隣人を愛するという事はそれだけエネルギーを必要とします。だからこそイエス様はいつも私たちと共におられます。イエス様がいつも無限の愛で私たちを愛してくださっているからこそ、私たちは隣人を愛することができます。イエス様は仰いました。「ただあなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」私たちが何をなしえたか、そういったことで喜びを得ようとすると、私たちの喜びは私たちの能力に制限されます。能力以上に喜ぶことはできませんし、私たちの能力はたかが知れています。イエス様はそんなことで喜ぶよりも、天に名の記されていること、神様が私たちを愛してくださっている事を喜びなさいとおっしゃっています。神様の愛、イエス様の愛は無限です。そしていつでも受け取ることができます。私たちはイエス様に愛されているからこそ、隣人を愛し、隣人のために祈ることができるのです。

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罪の赦しと癒し

しかし王はアラウナに言った。「いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。」そしてダビデは、打ち場と牛とを銀五十シェケルで買った。こうしてダビデは、そこに主のために祭壇を築き、全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげた。主が、この国の祈りに心を動かされたので、神罰はイスラエルに及ばないようになった。
IIサムエル24:24-25

IIサムエルの終わりにはダビデの晩年が記されています。24章は「さて、再び主の怒りが…」と始まり、ダビデが一つの失敗をしていることが記されています。ダビデは人口調査をしてイスラエルの兵士たちの数を数えています。これがどんな罪であったのか、現在ではよく分かりません。人口調査そのものは罪ではないと思えますが、ダビデの動機に大きな誤りがあったものと思われます。I歴代誌21章にも同じ出来事が記されていますが、そこでは、サタンがダビデをそそのかし、人口調査を行わせたとあります。そしてダビデの側近である将軍ヨアブが、人口調査の必要性についてダビデに質問しています。ダビデは側近たちを説き伏せてまで人口調査を行いました。

なぜダビデがそこまでして人口調査に拘ったのか、分かりません。ダビデが自分の力を誇りたかったからだと考えることもできます。神様の力によって建てられたはずのイスラエルの国ですが、ダビデは晩年になって自分の人生の意義を見出したかったのでしょう。自分は生きてきた間にこれだけの業績を残したと示したいがために人口調査を行ったとも考えられます。あるいはお金のためにそれをなしたとも考えられます。税の取り立ては人口調査を基に行いますので、不足を感じていたわけではないが、収益を増やすために人口調査を行ったとも考えられます。いずれにしても、ダビデは何か神様に反抗する心があって人口調査したことを、後で認めて悔い改めています。

神様はダビデに対し、3つの中から罰を選ぶようにと言いました。ダビデはそれに対して、「主の手に陥ることにしましょう(24:14)。」と言っています。神様にお委ねしますという事を言っています。自分で選べばきっとまた人間的な、自己中心的な思いから選んでしまう事になる。しかし神様はあわれみ深いお方であるから公正な裁きをしてくださるというダビデの深い信頼が表れています。ダビデはバテ・シェバ事件の時もそうですが、自分の罪を素直に認め、深く神様に信頼する誠実な心を持っています。罪というのは恥を伴いますから、隠したい、ごまかしたい、逃れたいという気持ちにかられます。しかし私たちもダビデのように誠実に自分の罪を告白し、しっかりと神様に委ねたいと思います。神様は必ず私たちを赦し、その罪の結果の痛みさえも益とすることができるお方なのです。

神様はダビデの言葉を聞き、3つの選択肢の中から最も短い期間の罰を選ばれました。結果的には神様もこの災いを思い直し、罰を下しているみ使いに「もう十分だ。あなたの手を引け(24:16)。」と言っています。神様はダビデに、エブス人アラウナの打ち場に祭壇を築くように言いました。アラウナの打ち場と言うのは、ダビデの住んでいた町の目と鼻の先、モリヤの山の上にありました。ここはかつてアブラハムがイサクを捧げようとした場所です。ダビデは自分の罪のゆえにこのような事態になったことをはっきりと認めていましたので、しっかりとお金を払ってこの土地を買い取ります。そしてそこに祭壇を築きました。I歴代誌を読むとこの場所にエルサレム神殿が建てられることになることが分かります。ダビデが自分の罪のゆえに祭壇を築いたその場所は、かつてアブラハムがイサクを捧げようとして、贖いの尊さを示した場所であり、エルサレム神殿が建てられ、人々の贖い、罪からの救いのために毎日儀式がされる場所となっていきました。神様はダビデの生涯の汚点さえも、良い物に変えて用いてくださるお方なのです。

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ダビデの家族の確執と和解

それで、ヨアブは王のところに行き、王に告げたので、王はアブシャロムを呼び寄せた。アブシャロムは王のところに来て、王の前で地にひれ伏して礼をした。王はアブシャロムに口づけした。
IIサムエル14:33

IIサムエル11~12章でダビデが、ウリヤの妻バテ・シェバのことで罪を犯します。神様はダビデに対して、「あなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす(12:11)」と宣告します。そして13章からダビデの家族は大変なことになっていきます。

ダビデには妻やそばめたちが何人もいて、違う母親を持つ息子、娘たちが何人もいました。アムノンは異母兄妹であるタマルに好意を寄せ、あろうことか強引にタマルを辱め、その直後に今度は憎しみに駆られてタマルを捨ててしまいます。ダビデをこのことを聞いて、激しく怒りますが、何の対策も打てないでいます。タマルの実の兄であるアブシャロムは、アムノンに対して殺意を抱き、2年がかりの計画でアムノンを殺害します。ダビデは、タマル、アムノン、アブシャロムの息子娘たちの争いに大きな悲しみに暮れることになります。

14章の最後14:33は一見、ダビデが、アムノン殺害後、逃亡していたアブシャロムと和解しているように見えます。しかしこの後、15章に入ると、アブシャロムはダビデ王朝の転覆を謀り、クーデターをおこします。ダビデの家族に対する苦しみはまだ続くことになるのです。2/26には永井先生が礼拝に来てくださって、敵意について説教をしてくださいました。人と人の間に起こる敵意は、簡単には解消することはできません。人を赦すということがとても難しいことであることがよく分かります。ダビデとアブシャロムのような大きな確執はなかったとしても、私たちは簡単に人に対して敵意を抱きます。本当にごくごく些細なことで敵意を抱き、お互い赦し合うことができずにことを大きくしてしまいます。神様はそれほど大きな敵意をキリストによって取り除いてくださっているのです。

ダビデは誠実でとても良い王様として有名ですが、バテ・シェバの事件だけは赦せないと思う方も多いと思います。それは神様も同じでした。ダビデに対する刑罰がどれほど大きなものであったかを見れば、神様がどれほどバテ・シェバ事件を重要視しておられたか明らかです。しかし神様はその悲惨な事件の中にも救いを用意していてくださいます。12:24には次の王となるソロモンの誕生が描かれています。ソロモンの誕生はここではさらっと描かれていますが、あれほど大きな事件の後に生まれた子どもです。世間でもどれだけ冷たい視線で見られたか分かりません。悪い言い方をすれば、ソロモンは不義の子なのです。しかし聖書には「主はその子を愛されたので、預言者ナタンを遣わして、主のために、その名をエディデヤと名付けさせた。」と書かれています。神様はダビデの家の確執から生まれた、世間からつまはじきにされそうな子を愛され、自ら「主から愛されている」という意味の別名を与えられ、そしてイスラエルの王とされるのです。それは神様が弱い者の味方であり、罪の赦しを宣言し、自らの犠牲によって敵意を取り除く愛を持っておられるお方であることを表しています。そして神様の愛は見えにくいですが、アブシャロムにも注がれています。I列王15章に、ユダの王アビヤムは、アブシャロムの娘を母としていたことが書かれています。ダビデ王家の中にアブシャロムの血筋が残されているのです。ダビデとアブシャロムの和解はこの王家の血筋の中にしっかりと残されることになりました。人間の様々な思いが渦巻く中でもしっかりと神様の敵意を取り除く愛が示されていることに感謝します。

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ダビデの誠実

この私は油そそがれた王であるが、今はまだ力が足りない。ツェルヤの子らであるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。主が、悪を行なう者には、その悪にしたがって報いてくださるように。
IIサムエル3:39

サムエル記第二に入りました。イスラエル初代の王サウルは戦死し、ダビデがイスラエルの王となっていきます。IIサムエルの最初はダビデが王になるまでの間の事を記しています。ダビデは今までずっと、サウルに追われて命を狙われていました。サウルが死んだ今は、非常識な言い方かもしれませんが、敵が倒れたので形勢逆転し、喜びの時を迎えているのかもしれません。3章の最初にありますように、ダビデの家はますます強くなり、サウルの家は日に日に衰えていきました。敵がいなくなったのですから、一気に相手方に攻め入って決着をつけ、ダビデ王朝を確立する時なのかもしれません。しかしIIサムエル1~4章までのダビデは今一つそこまでの気持ちになれていないようです。

ダビデの部下たち、ヨアブや兵士たちが勝利のムードに包まれている中、ダビデはなぜか悲しみ、泣き、怒っていることが多いです。サウル王の死に悲しみ、敵方の将軍アブネルの死のために泣き、サウルの息子であるイシュ・ボシェテを丁重に葬っています。またサウルが死んだのは自分の手柄だとダビデに報告に来た者や、イシュ・ボシェテの下手人を罰し、ダビデの意に背いてアブネルを打ったヨアブを叱責しています。これらのダビデの行動は何を意味しているのでしょうか?一つ考えられるのは政治的な思惑があったからということです。ダビデとサウルは敵対していましたが、もともとは一つの国、一つの家族のような存在でした。ダビデとサウルが争う事で一番被害をこうむっていたのは、イスラエルの国民であったかもしれません。国のトップが2つに割れて争っていたのですから、国の内政は後回しになりますし、内線ですから戦争のダメージは国の中にたまります。早く和解してほしいというのが、イスラエルの人々の一番の願いであったことでしょう。それがダビデがサウルを倒して王となるというのは、結局のところ、クーデターなのです。クーデターで王となり、国を安定させていくには、国民の理解が不可欠です。3:36には国民がダビデを認めている場面が記されています。このためにダビデはあからさまなまでの悲しみを演出したとも考えられます。

しかしもう一つ考えられることは、ダビデは兵士たちやヨアブたちとは人生に対して、神様に対して違う見方をもっていたということです。兵士たち、特にヨアブという人物は、自分たちの力で内戦を終わらせるという現実的な見方をしていました。それが将軍の仕事かもしれません。彼らのやり方は、大河ドラマでは定番です。確実に火種を消し、地盤を堅固なものとするやり方です。しかしダビデはそのような見方をしていませんでした。ダビデは長い逃亡生活の末、神様に信頼することを覚えました。自らの力で物事を進めていくのではなく、神様の導きに従う事を学んだのです。サウルが王となったのも神様の御心であり、サウルが王位を退くのも神様の時があり、ダビデが王となるのも神様の時があると確信していたからこそ、ダビデは自分で事を進めようとはしませんでした。そしてイスラエルの人々と共に、同じ国民である、サウル、アブネル、イシュ・ボシェテの喪に服したのだと思います。それは敵味方を問わず神様にあって誠実を尽くすダビデの生き方でした。悪をもって悪に報いるのではなく、神様に信頼し、人に対して誠実で居続けるダビデに見倣いたいと思います。

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主への信頼

どうか、このはしためのそむきの罪をお赦しください。主は必ずご主人さまのために、長く続く家をお建てになるでしょう。ご主人さまは主の戦いを戦っておられるのですから、一生の間、わざわいはあなたに起こりません。
Iサムエル25:28

神様はサウルに代わってダビデを王とすることに決めていました。しかしサウルからしてみれば、ダビデは赤の他人ですので、いざこざが続きます。聖書はこのいざこざを神様からの視点で描いています。神様がサウルから離れたのでサウルは苦しみ、ダビデを呪うようになります。ダビデに対しては、神様はいつも恵みを与え、数々の危機からダビデを守りました。ダビデも神様をいつも慕い求めていました。

今日はIサムエル25-26章が日課になっています。この辺りはダビデがサウルに追われ逃げ回る箇所です。ダビデは誰を信用していいか分からず、あっちこっちと逃げ回らなければなりませんでした。そんな中、ダビデはナバルの妻アビガイルに助けられます。ダビデは以前ナバルとその一族に優しく接していたようです。ダビデはナバルはダビデを助けてくれるのではないかと思い、使者を送り助けを求めます。しかしダビデがイスラエルの王サウルの敵となっていることを知ると、ナバルはダビデに対して恩を仇で返すようになります。しかしその知らせを聞いたナバルの妻アビガイルが、すぐさまダビデに謝罪に行きます。そしてダビデの要請通り、食料を与えダビデを助けました。ダビデはこの賢いアビガイルのもてなしにほっと一息をつくことができたと思います。

このあたりの章を読んでいると、常にダビデの周りには戦争がありました。読んでいると、ダビデは重い甲冑を脱ぐ暇があっただろうかと思います。そして重い甲冑以上に、ダビデの心にかかるストレスはとても大きなものであったことでしょう。ナバルとの戦闘を避けることができた事は、アビガイルの想像以上にダビデにとって安らぎを与えることになりました。

ダビデとアビガイルの会話を読んでいると、主という神様の名前が頻繁に出てきます。ダビデもアビガイルも、主に深く信頼していたことが分かります。この世界にある全ては主によるのだという事を、彼らが固く信じていたことが分かります。ダビデにとってみれば、どこに真実があるのか、誰が味方なのか、この先どうなってしまうのか、様々な不安が付きまとう日々です。人を頼ることはできず、また神様がいらっしゃらなければ、人間的に考えれば明日にでも自分は命を落としているに違いないという日々です。ダビデはどこへいくにも、何をするにも神様に伺いを立てました。すべてを神様に委ね、神様の御思いの通りに進むのでなければ、自分のいのちはありませんでした。アビガイルも同じように主を慕っていました。そしてアビガイルは確かに主がダビデを導いて守っておられることを知ったのでしょう。ダビデに対して、ダビデを持ち上げる言葉とも取れますが、励ましの言葉ともとれる25:28の言葉を述べたのです。

私たちの生活も、ストレスのかかる生活であると思います。それは未来が見えないことからくる不安であるかもしれません。しかしダビデを守って下さっている神様は、私たちも守って下さいます。私たちがダビデのように主に信頼して、主の示しされた道を生きる時、その道は必ず守られた道筋となります。

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  • 次聖日の聖餐礼拝のために
  • 宣教ツアーのために
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