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祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様に信頼する

神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。
詩篇48:3

詩篇にはいくつか、「コラの子たち」という表題が掲げられています。コラの子たちというのは、レビ族のコラ族のことです。出エジプト6:16-21によりますと、ヤコブの12人の息子レビから数えて、レビの子、ケハテの子、イツハルの子、コラとたどることができます。コラのお父さんイツハルにはアムラムという兄弟がいて、アムラムの子がアロン、モーセですから、モーセ、アロンとコラはいとこであったことが分かります。コラはレビの家系にあたるので、祭司の役割を担っていました。しかしコラは民数記16章でモーセ、アロンが民の指導者であることが気に入らずに逆らって立ち、神様から深刻な裁きを受けました。コラ族はその時、多くの者が死にましたが、神様のあわれみにより子孫は残されました。コラの子孫はその後、忠実に祭司としての務めを果たしたようです。そして神殿の中での賛美を任されるようになり、多くの素晴らしい詩篇を残しました。詩篇46篇は、その中でもとくに有名で素晴らしい賛美だと思います。

詩篇48:3で、コラの子たちはこう歌いました。「神は、その宮殿で、ご自身をやぐらとして示された。」4-7節に戦争の描写があるので、ここで言うやぐらというのは、いくさの時に防衛の拠点となる砦や城のことです。やぐらが頑丈であればあるほど、領地は守られます。13-12節では「やぐらを数えよ」、「城壁に心を留めよ」と言っています。やぐらや城壁がその中にある街を守っているのです。城壁ややぐらが強ければ強いほど街は安全です。神様はご自身をやぐらとして示され、その強さを示されました。諸国の王たちは、攻めようと上ってきますが、そのやぐらを見て、恐れるのです。これは打ち破れそうにないと感じ、逃げていくのですます。イスラエルの国はとても小さい国で、アッシリヤやエジプトから見れば、取るに足らないような弱い国です。しかし神様がこの国を守って下さるので、この国は栄えることができます。コラの子たちは自分たちの住む街を外側から眺めながら、神様というやぐら、城壁の力強さを賛美しているのです。

先ほど詩篇46篇もコラの子たちによる詩篇であると触れました。詩篇46篇も神様が力強いやぐら、砦であることを歌っています。そしてその力強い神様に信頼するように歌っている詩篇です。II列王18章には、ユダの王ヒゼキヤの時代に、アッシリヤが大軍で攻めてきて、エルサレムの街を包囲した時のことが記されています。ヒゼキヤは神様に真剣に祈り訴えます。神様は預言者イザヤを遣わして、黙って神様の救いを信じるように告げます。敵に包囲されていて、いつ命を落とすか分からないような状況で、黙ると言うのは難しいことです。たとえ解決する力が無くてもジタバタせずにはいられないと思います。しかしそんな時に神様は、黙って主の救いを見よと仰るときがあります。詩篇46:10でも神様は、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」と仰います。ヒゼキヤが黙って神様に信頼して一夜を過ごすと、その夜の間に神様はアッシリヤの軍隊を壊滅してしまいました。エルサレムは救われたのです。神様の救いを見るには、神様の砦を見て、信頼することが大切です。神様の砦を見て、自分の力で解決すると、神様の救いを見ることはできません。神様の力、救いを見るには、時に黙ることが必要です。一歩一歩、城壁の周りをまわりながら、神様に思いを巡らし、黙って受け取る機会としましょう。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 交換講壇礼拝、宣教礼拝のために
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  • 小金井教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

教会に礼拝に行く

こうして、私は神の祭壇、私の最も喜びとする神のみもとに行き、立琴に合わせて、あなたをほめたたえましょう。神よ。私の神よ。
詩篇43:4

詩篇43篇はもともと、詩篇42篇とつながっていたと言われています。詩篇42:5, 11と詩篇43:5は同じ言葉になっています。この詩篇の作者は神様に強く訴えています。この詩篇の作者が誰であるのかはっきりとは書かれていませんが、42篇を見ますと「コラの子」と書かれています。コラの子については次回触れますが、宮で賛美をする奉仕をしていた人たちです。43:2などを見ますと、作者はどうやら敵によって追われて放浪していたようです。ダビデは多くの詩篇を残していますが、彼は生涯の中で放浪することの多い人でした。サウルに追われ、ペリシテとの戦争のために各地を巡り、息子アブシャロムに追われ、本当にたくさん放浪しました。ダビデはイスラエルの二代目の王で、賛美の賜物があり、神の宮で力いっぱい賛美することがとても似合うイメージの人でしたが、もしかしたらエルサレムにいることの方が少なかったかもしれません。詩篇42, 43篇は、そんな放浪の身にある人が、神の宮での礼拝、神を賛美することを求めている、そんな詩篇です。彼は今、敵に虐げられて放浪しています。もちろん、いのちの危機や、虐げられていることも苦しみですが、この詩篇の作者にとっては神の宮で賛美できないことも大きな苦しみでした。彼は神様がいつかもう一度、自分を「あなたの聖なる山、あなたのお住まい」に連れ帰って下さって、そこで力いっぱい神様を賛美できることを望んでいます。

個人的な事を言いますと、私は今、教会の建物の中に住んで生活していて、礼拝に来る方々をお迎えする立場にいます。「教会に礼拝に行く」という当たり前の行為をしていません。ですからこの詩篇の作者が歌っているこの気持ちは、ある意味ですごく新鮮で、大事にしたい気持ちです。多くの方は「教会に礼拝に行く」ために、外出の準備をし、「礼拝に行く」という気持ちの整理をつけて家を出て、教会に来ます。そのように時間をかけてでも教会にいくのは、神様を礼拝する喜びがあるからだと思います。「教会に来る」時間は、心を神様に向けていく上でも多少はあった方がいいのかもしれません。私は「教会に行く」ための時間はゼロですが、そのように楽しみに来てくださる方々のためにも、礼拝の準備を整えるという時間を通して、しっかりと心を神様に向けていかなければいけないなと思います。

このように「教会に礼拝に行く」とは、ある意味で日常生活から距離を置く行為でもあるとも言えます。しかし全く切り離されたものでもありません。「教会に礼拝に行く」行為は、日常生活の延長線上にあります。日常生活が神様から離れすぎると、礼拝に行く意味を失ってしまいます。神様に特別感謝することが無くなるからです。あるいは詩篇の作者のように物理的な理由で教会に行けなくなるかもしれません。私たちは礼拝に行けば神様を意識しますが、私たちの日常生活にも神様は働いてくださっています。神様が日常生活に働いてくださっていることを意識しているので、私たちは感謝が生まれ礼拝に行きます。あるいは詩篇の作者のように礼拝に行くことが妨げられている時に、神様にこの日常生活にあなたの光とまことを送って礼拝に行けるようにしてくださいと願います。そして神様からの助けが送られた時には、本当に心から感謝して力いっぱい賛美をするのです。私たちは今、毎週のように礼拝に行ける日常に感謝したいと思います。またやむを得ず礼拝に集えない方々のためにも祈りたいと思います。

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  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 2, 3月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 教会総会、交換講壇礼拝のために
  • みずほ台教会のために
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神様の赦しと癒しを求める

主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。
詩篇38:9

この詩篇は、全体的に悔い改めをする人の詩篇という印象を受けます。前半で自分の苦しみの状態を歌っていますが、「私の罪(3)」、「私の咎(4)」、「私の愚かしさ(5)」とあるように、それらの苦しみが自分の罪深さの故であることを認めています。自分の罪を認めることを認罪と言います。当然のことながら、悔い改めは認罪が無くては始まりません。認罪とは自分の罪を自覚することであり、少しも責任転嫁しない姿勢です。他の誰か、あるいは環境、あるいは自分の性格のせいにしたりせず、自分の意志の問題であること、責任であることを認める時に悔い改めは始まります。

この詩篇の作者は、自分の罪の重さに耐えきれず、78節にあるように完全に打ち砕かれて、絶望しています。罪とはそのように恐ろしいものです。人を打ち砕いてしまうものです。それは他人を傷つけ、自分をも傷つけてしまうものです。そして罪の力に人間は抗うことができません。だから私たちは罪の現実に向き合うと絶望してしまいます。しかしこの詩篇の作者は、罪には絶望しても、神様には絶望しませんでした。それは神様は罪を許さない裁きの神様であると同時に、罪を赦し、癒す神様でもあるからです。

「ゆるす」という言葉には2種類の漢字があります。「許す」と「赦す」です。現在の日本ではあまり使い分けされていないことが多いですが、キリスト教では別の意味を持つ言葉です。「許す」とは「許可する」ことであり、その行いを良しとして認めることです。積極的に行う事を奨励することです。神様は罪の行いを積極的に認めて行わせることは断じてなさいません。ですから神様は罪を「許さない」お方です。「赦す」とは「恩赦を与える」ことであり、過去の過ちを特別に見逃すことです。本来は罪の報いを受けるはずですが、その刑罰を科さない、全て清算したことにするという意味です。神様は私たちに罪があることをお認めになりましたが、特別に「赦す」お方です。それはキリストが私たちの代わりに刑罰を負って下さったからです。ですから神様は罪を「許さない」お方ですが、罪を「赦す」お方です。詩篇の作者は神様に罪の「許し」を願っているのではなく、はっきりと自分

また神様は罪の癒しを与えて下さるお方でもあります。詩篇の後半で世の人々は、罪ある詩篇の作者に対して冷たく接しています。罪ある者から遠く離れて立ち、自分には関係ないと言わんばかりです。またある者はむしろ罠を仕掛け、さらに破滅に導こうとしています。よく「他人の不幸は蜜の味」と言いますが、本当に人間の醜さが表れています。しかし神様はむしろ罪人を探して救おうとされる方です。イエス様はそのために地上に来られました。ヨハネ8章でイエス様は、罪ある女性を助け、罪の赦しを宣言し、「安心して行きなさい」と女性を立ち上がるための言葉をかけて下さいました。神様は罪ある私たちから遠く離れて立つお方ではなく、むしろ悔い改める私たちに近づいて罪の赦しを与え、もう一度立ち上がれるように癒しと力を与えてくださるお方です。詩篇の作者は自分の罪に絶望し、周りの人の対応に苦しめられながらも、神様に対しては絶望せず、むしろ神様を求めています。私たちも自分の罪を認め、そして赦しと癒しの神様を求めていきましょう。

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  • 3月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
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真心から主に求める

見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。
詩篇33:18

詩篇に戻ってきました。詩篇33篇は初めに主を賛美することの勧めがあり、次に主の偉大さが語られています。主はことばによって天地万物を造られたことが語られていて、主のことばには力があることを示しています。また主は人のはかりごとを無効にし、主の御心のみを行う方であることが示されています。主は世界を造られた後、世界に対して無関心ではなく、主の御心によって今も世界を治めていることが分かります。世界で起こる全ての事のなかに、意味のないものはありません。これは私たちの人生においてもそう言えるので、少なからず私たちに慰めを与えます。主は天から全ての人をご覧になっていて、私たち一人ひとりに御心を留めておられるのです。

それゆえにこの詩篇の後半では、主を神として生きることが勧められています。主は人の思いを遠くから読み取られるお方です。主は私たちのはかりごとを全てご存知ですので、人が見るようにはご覧になりません。人間は他の人の心の中まで見ることはできませんから、どうしても外見や印象に左右されます。詐欺被害がいつまでもなくならないのは、心の中が読めないからです。ところが神様は全てを見通されます。どんなに外見をよくしても、力を強くしても、軍隊を集めても、神様の前では無意味です。主の前に立つ者は、主を恐れる心を持つ必要があります。

18節には「見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。」と書かれています。新約聖書の中でもイエス様は仰いました。「だれでも、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。…とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう(マタイ7:8-11)。」神様は真心をもって神様に求める者に恵みを注いでくださいます。恵みというのは、買い物とは違って代金を必要としません。代わりに神様に差し出す物が無かったとしても、願うならば与えられるのです。そしてこの詩篇が指摘しているのは、主は全ての人の思いを読み取られる方なのだから、真心から求めなさいということです。

この詩篇33篇の始まりの言葉は、一つ前の32篇の終わりの言葉とよく似ています。ですから注解書では33篇は、一つ前の32篇の応答唱のような詩篇ではないかと解説されています。詩篇32篇はどんな詩篇だったかと言うと、ダビデがバテ・シェバ事件を起こし、悔い改めて赦されたことを歌った詩篇と言われています。そう考えますと、「主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方(詩篇33:15)」と言う言葉は、「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした(詩篇32:5)。」等に表されているダビデの罪の告白と通じて、とても意味深いものとなります。神様は人の全ての思いを読み取られます。良い心も悪い心も読み取られます。しかしすべて「心の直ぐな人たち」に神様は心を留めて下さり、赦しを与え、恵みと祝福を与えてくださる方です。私たちは自分の罪や弱さを認めるへりくだった心をもって、神様の日々の祝福と恵みを求めて歩んでいきたいと思います。

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  • 2, 3月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 受難週、イースターのために
  • 宣教地のために
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家を建てるものが捨てた石

イエスは、彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。
ルカ20:17

ルカ1920章には、イエス様の十字架が迫ってきている緊張感が描き出されています。律法学者、パリサイ人、祭司たちとの議論は加熱し、律法学者たちは「イエスを殺そうとねらっていた(ルカ19:47)」ことがあちらこちらに出てきています。1920章ではイエス様の権威について議論が起こっています。イエス様は明らかに神様としての権威、救い主としての権威をもって振舞っておられましたが、律法学者たちはそれが受け入れられませんでした。ルカ20:1-8で、律法学者たちは貶めようとして権威についての質問をしますが、イエス様はいちいちはっきりとはお答えになっていません。逆にイエス様は律法学者、パリサイ人たちの姿勢について疑問を投げかけています。19:12-27のミナのたとえ話、20:9-15のぶどう園の農夫たちのたとえ話は、パリサイ人、律法学者、祭司たちを批判して語られたたとえ話でした。

パリサイ人、律法学者、祭司たちは神様の言葉を人々に伝える重要な役目を持っていました。また神殿での儀式を通じて人々の祈りと捧げ物を神様に届ける役目を持っていました。彼らは神様と人をつなぐ、神様からの特別な召しを受けていたのです。彼らが神様を見失ってしまったら人々は誰も神様の御心を知ることができなくなってしまいます。ミナを管理する、ぶどう園を管理するということは、彼らが自分たちの生活のための収入を得るという目的以上に、神様の愛する民であるイスラエル国民、ひいては世界中の人々に対して誠実に接するという重要な意味合いが込められています。しかし皆を管理する者も、ぶどう園の農夫たちも王の権威や相続財産にばかり目が向いていて、本当の王の愛の姿が目に留まっていません。またイスラエルの国民、世界中の人たちを人ではなく、ミナやぶどうといった物として見ていたのです。

ぶどう園のたとえ話では、彼らは主人から送られたしもべ、つまり神様から遣わされた預言者たちを殺してしまいます。そして最後には主人の一人息子、イエス様を殺してしまうのです。このたとえ話に登場する農夫たちの考え方は理解に苦しみます。だれが見てもこの農夫たちの行いは悪いものとして映ると思います。イスラエルの群衆もそうでした。20:16で民衆は「そんなことがあってはなりません。」と強く否定しています。しかしイエス様は実際にこのようにして十字架に架かったのです。そんなことはあり得ないのではないかという仕方で、十字架に架かって殺されました。

イエス様は続けて言われます。そのようなイエス様の姿は、家を建てる者たちに捨てられた石のようであると言われました。しかしこの石が礎の石となりました。神様の救いを表す石となったのです。この石は確かに人から見れば価値のない石に見えるかもしれませんが、信じる者にとっては揺るぐことのない確信の岩なのです。本来であればパリサイ人、律法学者、祭司たちは、この石の価値にいち早く気づくことができたはずでした。しかし富や権威など他の事に気を取られて、ぶどう園の農夫のような自分たちの愚かな姿に気づいていません。しかし気づいている人たちもたくさんいました。民衆たちそして、19章の最初に記されているザアカイはイエス様に気づいたのです。そしてイエス様を受け入れ、富や権威への執着から目を離し、イエス様に目を向けることができました。私たちも聖書を読む時、他の事に目を向けるのではなく、イエス様に目を向けたいと思います。

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  • 良い年度の締めくくりのために
  • 4/4甲斐師CGNTV撮影のために
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