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祈祷会メッセージとお祈りの課題

シンプルに祈り、神様に願いを知って頂く

人がもし、主に誓願をし、あるいは、物断ちをしようと誓いをするなら、そのことばを破ってはならない。すべて自分の口から出たとおりのことを実行しなければならない。(民数30:2)

民数記30章には、誓願についての教えが書かれています。誓願についての教えは、基本的には30:2にあるように、誓願を立てるのなら必ずその通りにしなければならないという教えです。民数記30章ではその基本原則に加えて、女性が誓願を立てる場合の教えが書かれています。古代中東では、家族の代表は家長(最年長の男性)であり、家族の責任は全て家長が負っていました。ですから、女性は家長の最終判断無しに誓願を立てられなかったということです。この章は女性の立場の低さを教えているというよりは、家長の責任の重さを教えているととらえて頂ければと思います。

さて、誓願ということについて書かれていますが、誓願とはなんでしょうか?神様は、誓願を立てるなら必ずその通りにしなければならないとかなり厳しい口調で仰っています。誓願というのは、読んで字のごとく、誓うことです。自分の願いがあって、「どうしてもそれをかなえて頂きたいので、聞き届けられるのならこれこれの事をします。」と誓うことです。誓うということは、現代でもそうですが、自分のことを公に主張することですね。聖書の場合は、神様に対して主張します。大きな制約を伴います。誓いが破られるというのは本来あってはならないことです。絶対に破られないからこそ、誓いは成立するわけです。新約聖書にもこう書いてあります。「確かに、人間は自分よりすぐれた者をさして誓います。そして、確証のための誓いというものは、人間のすべての反論をやめさせます(ヘブル6:16)。」そういった重い責任を伴う物ですので、イエス様も軽々しく誓ってはいけないということを新約聖書の中で教えています(マタイ5:33-37)。誓いを立てても必ず守れるという保証は私たちは持てないからです。自分の気持ちが変わってしまうかもしれませんし、周りの状況が変わってしまうかもしれません。だから、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。とイエス様は教えています。

そもそもなぜ人は誓願をしたくなるのでしょうか。誓いとは、自分の正しさを主張することです。誓願を立てるということは、ある意味で自分の正しさを主張して、「これだけ正しい自分だから、願いを聞いてください。」と言うようなものです。自分の正しさ、あるいは自分の願いの正当性を主張して、だから願い通りになって当然ですと主張することです。もし本当にそういう気持ちで神様の前に願うとしたら、それは神様の前にいい態度とは言えないでしょう。神様は神様のみこころにかなうことはなさいますが、みこころでないことはなさいません。その神様の気持ちはちょっと脇に置いて、自分の正しさを主張することは良くないことです。それよりはむしろ、ただ単純に神様に祈り求める事の方がいいと思います。誓願を立てなくても、私たちは神様に願い事を知っていただくことが出来ます。そしてみこころであれば、神様はその願いを聞いてくださいます。まずは誓願を立てる事よりも祈ることの方が大事です。

今日私たちは、誓願を立てようと思うかどうか分かりませんが、神様の前に自分の願いを持っていく時の態度を改めて考えたいと思います。自分の正しさを根拠にして願い求めていないでしょうか?私たちはシンプルにお祈りし、「しかし神様のみこころのとおりになさってください。」と祈りたいと思います。

お祈りの課題

  • 8月の諸集会のために。
    • FMTC、修養会、新機関紙委員会、キッズフェスタ、聖餐礼拝、伝道礼拝、改築感謝会
  • 昭島教会のみなさんのために。8月の予定、体調のために。
  • 南大沢チャペルのために。
  • 阿部師のために。
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

ケアする心

しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」(民数20:12)

民数記は、40年間荒野を彷徨うイスラエルの民の物語です。イスラエルの民がなかなか神様を信じようとしない事と、それに対する神様の公平でかつ厳正な裁きが書かれています。読者も荒野の放浪の旅の辛さをひしひしと感じるような物語が収められています。

民数記20章でもイスラエルの民は、神様を試みました。飲み水が無いと不平を言い始めたのです。それこそ不平を言うのはこれまでも幾度となくあり、「水が無い」と全く同じ状況に置かれたことも何度もありました。そのたびに神様の不思議な助けを目の当たりにした民ですが、同じように神様を信じることが出来ず、不平をもらしています。結果的には以前と同じように神様の不思議な助けにより、何もない岩から水が与えられます。ところが今回の民数記20章の出来事は、モーセとアロンに対する厳しい神様からの宣告がされています。モーセとアロンは約束の地に入れないという宣告でした。

なぜ神様はモーセとアロンにこのように宣告したのか、理由は詳しくは語られていません。ただ一言「あなたがたは私を信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった(20:12)。」と語られています。モーセとアロンは、神様の命令通りの事を行いませんでした。神様は「岩に命じれば(20:8)」と仰っていますが、モーセは岩に命じるのではなく、岩を二度打ちました。なぜモーセが神様の仰る通りにしなかったのか、理由は書かれていません。様々に推測することが出来ると思います。つい過去のやり方と同じやり方をしてしまった。民の度重なる反抗に心が消耗していた。モーセの境遇を考えれば少し共感できるような理由も考えられますが、それが神様の言葉をないがしろにしても良い正当な理由にはなりません。奇跡を行うのは、イスラエルの民を救うのは、モーセではなく、神様だからです。モーセはあたかも自分がイスラエルの民を助けるかのような態度をとってしまいました(10節参照)。それは神様を「聖なる者」としなかったことになります。

もう一つ、ある聖書注解書ではこのような事を述べています。モーセは神様からイスラエルの民に水を飲ませよと命令を受けていました。神様は度重なるイスラエルの反抗に対して忍耐されながら、なおイスラエルの民をしっかりとケアすることを望みました。ただ水が湧けばいいのではなく、イスラエルの民を水をもって養うこと、ケアすることが神様の目的であったわけです。ところが、モーセは心をすり減らしていたこともあってか、民に対する関心が失われていたのかもしれません。モーセの言葉からは「水を出しさえすればよいだろう」という気持ちが感じられます。誰かを助けるということが、最初は心からの愛であっても、次第にただこなせばよいだけのルーチンワークに陥りやすいということを示しています。私も、注解書を読んでいて本当に考えさせられたことです。誰に何をしたかも大切ですが、それ以上にどのような心をもってしたのかも大切です。神様は、モーセが民を率いる指導者として大切な心、民をケアしていく心を失ったと見て、もはやリーダーとしてふさわしくない。「あなたがたは、この集会を、…導き入れることはできない。」と仰いました。神様を信じ、人をケアしていく心を常に持ちたいと思います。

お祈りの課題

  • 駐車場看板工事のために。本日発注。8月に工事。
  • 8月の諸集会のために。(FMTC、修養会、新機関紙委員会、キッズフェスタ、聖餐礼拝、伝道礼拝、改築感謝会)
  • 昭島教会のみなさんのために。
  • 津久井の方々のために。
  • 東京都のリーダーのために。神様の御心にかなった行政のために。
  • 川越教会のために。
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

主に相談する

彼らは主の命令によって宿営し、主の命令によって旅立った。彼らはモーセを通して示された主の命令によって、主の戒めを守った。(民数9:23)

民数記になりました。民数記の初めの方は、レビ記や出エジプト記と重なる部分があります。民数記9章は、最初に幕屋が完成して、過越のいけにえを捧げる時、出エジプトの40章と重なります。この日は喜ぶべき日でした。エジプトを脱出してから1年が経過したことになります。過越は出エジプトを記念して行う祭りですが、エジプトを脱出してから1年で幕屋が完成して、幕屋の完成を祝うとともに、1年前の神様の御業を覚えるときともなりました。私たちは、レビ記を読んできてなんとなく神様の戒めは厳しい物ばかりで、とても窮屈なように見えます。しかし過越に限らず、イスラエルの多くの記念行事は、喜びの日でした。そんな喜びの過越の日ですが、たまたまその日は死体に触れていて過越に参加できない人たちもいました。民数記9章の初めにはそのような人たちがモーセに訴えています。「私たちはどうして参加できないのでしょう。」すると神様は「次の月の14日に過越を祝いなさい。」
神様は、どうしようもない事情というのをよくご存じです。そのような人たちに何が何でも汚れてはいけないんだと叱るようなことはなさいません。神様は、むしろ過越を共に祝いたいわけです。ですから、どうしようもない事情を抱える人たちと相談したいと思っていることがこの出来事から伺えます。おそらくこの人々は安心して、次の月に過越を祝ったことでしょう。みんなとはタイミングがずれましたが、エジプトから助け出された事を感謝して、過越の食事をしたことと思います。
民数記9:23には、イスラエルの人々がいつも神様の命令によって宿営し、旅立っていたことが記されています。宿営の時間がどんなに短くても、イスラエルの人々は宿営し、1年のように長く宿営するような時でも、しっかりとその期間を宿営しました。また旅立ちが昼間であっても、夜であっても、神様のタイミングで旅立ったことが記されています。このことからイスラエルの人々が本当に神様に忠実であった事が伺えます。この民数記9~10章からは、とても平和なイスラエルの人々の旅の様子が伺えます。
このような時にも神様は、イスラエル人々といろいろな事を相談しながら旅を続けたと思います。おそらくイレギュラーな事や、唐突な事もあったと思います。そんな時は、モーセは9:8のように神様に相談をしたでしょう。そんな時、神様はちゃんを解決策を与えて下さったと思います。このように神様と相談することを繰り返して、神様との信頼関係を育んでいったことと思います。ピリピ4:6-7に「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とあります。これは何でも神様に相談しなさい。ということです。そうすれば神様は喜んであなたの悩みを聞き、相談に乗ってくださいます。そして神様しか与える事の出来ない平安を与えてくださいます。民数記9-10章にある平和な空気は、イスラエルの人々がいつも神様に信頼し、相談し、神様からの平安を受けていたからあるのではないでしょうか?

お祈りの課題

  • 昭島教会に集う方々の健康と、夏の予定等が守られるように
  • 甲斐先生のために
  • 8月の集会(FMTC、修養会、キッズフェスタ、聖餐礼拝、伝道礼拝、改築感謝会)のために
  • 守谷教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

罪を代わりに負って下さったイエス様

(マルコ15:6-15)

「それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。(マルコ15:15)」

イエス様の十字架の場面になりました。イエス様は、何の罪も無いお方でしたが、私たちの罪の代わりに十字架にかかって死んでくださいました。そのためにこそ神であった方が、人となって地上に来られたからです。イエス様に何の罪も認められないことは、イエス様の裁判を行ったピラトが良く知っていました。ピラトは十分に取り調べた上で、この人には罪が見つからないと証言しています(ヨハネ19:4, 6参照)。ところがユダヤ人たちは、「イエスを十字架につけろ」と叫び続けました。ピラトはこのままではユダヤ人たちが暴動を起こしかねないと見て、仕方なく、イエス様を十字架につけることを認めました。十字架は歴史上最も厳しい死刑方法と言われます。しかし法に則った死刑である以上、罪状書きが必要です。この人は何で死刑になったのか?イエス様は何の罪も無かったので、罪状書きに何と書けばいいでしょう?ピラトは「ユダヤ人の王」と書きました。

聖書はこのようなやり取りを記録することで、イエス様には何の罪も無かったことをしっかりと伝えています。そしてさらに印象的な出来事としてバラバという人物の事を記録しています。バラバは暴動と人殺しの罪で牢屋に入っていました。このバラバにははっきりとした罪が認められていました。ピラトはユダヤ人の過越しの祭りの時には、牢屋に入っている人々の中から、一人特別に赦免するということをしていました。ピラトは、そのことを持ち出して、バラバとイエスのどちらを釈放しようかと騒いでいるユダヤ人たちに尋ねました。暴動と人殺しがはっきりとしているバラバと、何の罪も無いが今騒がれているイエス様を並べたら、イエス様を十字架につける事の異常さが伝わるのではないかと考えたのかもしれません。普通に考えれば、釈放されればまた暴動を起こしかねないバラバよりも、イエス様を釈放してほしいと願うはずです。ところがユダヤ人たちは「バラバを釈放して、イエスを十字架につけろ」と言います。こうしてはっきりと罪を認められていたバラバは、釈放されました。バラバにはもはや何の罪も無いとされたのです。

バラバにとっては、突然のことでした。本当は死刑になるだけの、自他ともに認める罪を負っていました。しかしイエス様の登場によってバラバは死刑を免れたのです。バラバはこれまで手のつけようがないほどの殺人者だったかもしれませんが、きっとこれから先の人生をどう生きればいいか考えたと思います。イエス様はだまって成り行きを見守り、釈放されるバラバを見送りました。

バラバの姿は私たちにも当てはめることが出来ます。バラバほど私たちははっきりとした罪を認められてはいないかもしれません。しかし私たちは誰からか責められることが無くても、自分の罪を自覚していると思います。そして時にその罪を負いきれないと感じます。イエス様はそんな私たちの罪のために身代わりとなりました。有名な聖書の言葉ですが、ヨハネ3:16-17でこう言っています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」神様は私たちを愛しているがために、私たちを救って下さったのです。私たちは感謝して救いを受け取り、今後の人生を神様と共に歩むことを考えたいと思います。

お祈りの課題

  • 6月に新しく教会に来られた方々のために
  • ウィクリフで活動しておられる阿部師のために
  • 南平教会のために
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祈祷会メッセージとお祈りの課題

いやし主、きよめ主、友なき者の友であるイエス様

*体調不良により、更新が遅れてしまい申し訳ありませんでした。7/6分を掲載します。

(マルコ5:25-34)

この聖書の箇所は、12年間長血を患っていた女がいやされるという場面です。12年間も治らなかった病気、それも多くの医者がさじを投げていた病気が一瞬のうちに癒されました。イエス様の大きな力を感じる場面です。

さて、先週までレビ記を通読していたので、レビ記に長血について書かれていたことを覚えているでしょうか?レビ15章です。レビ15章は漏出があった場合、その者は汚れると教えている箇所です。病気やケガや、いろいろな物が考えられます。中には女性の月のさわりなどもあります。こうした律法があるのは、一つは衛生的な配慮もあると思います。その中に、15:25には、長血についても書かれています。月のさわりでは無いけれど、長い日数、出血がある場合です。これがどういう病気のことを言っているのかは定かではありません。しかし律法で定められているのは、このような症状がある場合は、汚れているとみなされ、隔離することになっています。つまりこの長血の女性は、律法上、12年間も汚れている者となっていて、だれにも近寄ることはできないし、同じ椅子にも座ることが出来ない、衣服に触れたりしたらさあ、大変という状態だったわけです。

このように公には汚れている、本当は誰かに触れると不味い状態だったわけですから、群衆の中に入っていくということはできないんですね。群衆全員に汚れがうつってしまいますから。しかしこの女性はマルコ15:28に書いてあるように、イエス様のお着物にでも触れることが出来れば必ず治ると信じていました。ですから意を決して群衆の中に姿を隠しながら入っていったわけです。そして女性はイエス様の服の裾にそっと触れることが出来ました。すると、たちまち一瞬のうちに癒されました。神様の奇跡です。

イエス様はご自分の内から力が出て行ったのを感じて、周りを捜し始めました。彼女は大変です。群衆がイエス様に押し迫っていた中を入っていったわけですから、もうすでにたくさんの人に触ってしまいました。ここで「実は私は長血でした。」なんて言ったら、「みなさん。汚れました。」と宣言するようなものです。女性は自分の内に起こった神様の力の大きさと、責任の重さから怖くなってしまいました。並行記事のルカ8:47では、女性はもう隠しきれないと思ってイエス様に打ち明けたと書かれています。恐る恐る本当のことを話したのだと思います。そんな彼女にイエス様はとても優しい言葉をかけています。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい(マルコ5:34)。」「大丈夫。何も恐れる必要はない。」とイエス様は語りかけてくださいました。

マルコ5章には、墓場に住んでいた男、ヤイロの娘、長血の女の癒しが書かれています。みなイエス様の力強さを表していますが、同時に、みな律法的には汚れているとされていて、だれも近寄らないような所だったことが伺えます。墓場、たくさんの悪霊、聖書では豚も汚れているとされています。またヤイロの娘は一度は死んでしまい、長血の女は先ほど説明したとおりです。ところがイエス様はそんな誰も行かないような場所へ行き、そこに神様の力を表し、励まし、そしてきよめて下さっているのです。まさにイエス様こそ、友なき者の友であり、癒し主、きよめ主であることを示しています。このようなイエス様に信頼して、今日も祈ってまいりましょう。

お祈りの課題

  • 神様のいやしを必要としている方々のために
  • 教団の夏の集会(8/9-12FMTC、8/14-16修養会、8/20キッズフェスタ)のために
  • 青梅教会のために