キリストの体としての一致~ローマ12:4-8

人に与えられた「個性」というものは素晴らしいものであると共に「多様性」というものの許容範囲が人によって認識が異なる側面があります。つまりどこまで個性が受け入れられるかということは文化や習慣、環境において変わるということです。しかし個性だからと言って犯罪行為を認めてしまえば多様性、個性を需要しなければならないという押しつけになり弱い立場の人たちは自分を守ることすら出来なくなります。そしてその立場も分野が変わると逆転します。同じスポーツ選手だからといってなんでも出来るわけではなく、野球のプロと水泳のプロは要求されるものが違いますし、同じ陸上というくくりの中ですら短距離選手と長距離選手に必要なトレーニングも求められる資質、つけるべき筋肉のタイプまで違うのです。見た目は似ていたりカテゴリーが近くてもそれぞれが違うのです。ではなにを持ってわたしたちはひとつとなることが出来るでしょうか?人が考えるのでは自分を基準としてしまうからです。神様は聖書を通して私たちがお互いの文化、習慣などの違いをおいてひとつになることについて記しています。旧約における律法というものも新約においてイエス様がまとめられました。それはユダヤ文化がいいとか違うとかではなく、すべての人が神様の愛を知り、キリストの贖いのゆえに救いを受け取るためです。違いを乗り越えるほどの愛がそこにあるのです。そしてイエス様ご自身は天の栄光を全て捨てて人として、しかも弱い赤ちゃんとして来てくださいました。与えられたキリストにある救いの恵みを今日も感謝し、明日も共に歩みましょう。 [Read more...]

心の一新によって~ローマ12:2-3

聖書の中にはいろんなキーワードが出て来ます。その中に「悔い改め」ということばがあります。自分の行いや心を神様の前に改めるというステップですがその前に神、罪、救いという柱の部分を知ることから真の悔い改めに繋がっていきます。また「心の一新」ということが悔い改めから進んでいくうえでとても大切です。同じ考え方をしていていると同じ失敗や罪からなかなか離れることが出来ないこともあるからです。私たちは過去から学ぶべきですが捕われてはいけません。何がよいことで神様に受け入れられることかを知り、心の一新すること、与えられた信仰の量りに応じて慎み深い考え方をすることをパウロはローマ人への手紙の中で教えています。ここで大切になるのが謙遜かつ大胆な者へと整えられていくということです。なぜなら神様の前に謙り従うということは自分にしか出来ないというある意味独りよがりな考えから守られると共に神様は自分を用いてなんでもすることが出来るというダイナミックなバランスを保つことが神様の前にフラットな状態だからです。悔い改めと心の一新も悲観的。消極的な考えと楽観的、積極的な考えがあるように見えますがどちらにしても自分中心な考えの軸を神様中心の軸に移していくことが重要です。主の前に整えられた者とされていきましょう。 [Read more...]

神様に献げる礼拝とは~ローマ12:1

「礼拝」ということばを聞いてどういうイメージを持つでしょうか?ある方は恭しいイメージを持たれるかも知れません。またある方は荘厳な儀式というようなイメージを持つかも知れません。聖書には私たち自身を神に受け入れられるきよい生きた供え物として献げることが霊的な礼拝であると記されています。それは礼拝の時だけかたちを合わせるというものではなく、日々の生活の中で神のきよさをが現されていくように道徳的な純粋さ、霊的に健康であること、また悪から離れることなどがあります。そのためには時として世間的な生き方や慣習から離れて神様との深い関係を求めていくことが重要です。神様の愛の深さ、そしてきよさを知ること、また私たちの罪、そして罪を赦すために払われた尊い代価を知る必要があります。救いの必要性を知ると共に救いに関わる諸々の意味や価値を知ることで私たちは喜んで心から主に自らを献げる心を持って生活し、礼拝することが出来るようになっていきます。つまり礼拝とは共に集まって賛美し、祈り、みことばに耳を傾け、共に交わるという一定の時間的空間的なもの以上にそこに繋がる日々の歩みと神様との心の繋がりから溢れてくるものが大切なのです。そして主のことばに従って共に集まる時にそこに主の臨在と天にある喜びと平安が満ちあふれるのです。さらに主に心を向けて、主の思いに従い歩む者とされていきましょう。 [Read more...]