説教題:『御心にかなう祈り』
聖書箇所:マタイの福音書 6章13節
1. 苦しみの意味と聖書の視点
聖書は、苦しみそれ自体を良いとは言いませんが、その経験を通じて神の御心を知り、信仰が深められるという点において、苦しみを肯定的に捉えています。
「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」
詩篇119篇71節
この御言葉にある通り、苦しみは神の掟を学ぶ機会となり、霊的成長や神との人格的な交わりを深める契機となります。また、自らの弱さを知ることで、他者の痛みに寄り添う慈愛が育まれます。へブル人への手紙では、苦難を「父なる神による愛の訓練」と位置づけています。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に叱られて気落ちしてはならない。主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」
へブル人への手紙 12:5-7
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。
へブル人への手紙 12:11
神は、私たちの将来と必要をすべてご存じです。今、苦しみのただ中にあるとしても、それは将来「義という平安の実」を結ぶための最善の備えであることを信じる信仰が求められています。
2. 「試み」の正体と悪魔の策略
ただ、このように苦しみに意味があるからといっても、自ら積極的にそれを求める必要はありません。イエス様が教えられたのは、むしろ「私たちを試みに合わせないでください」という祈りでした。
ここで語られる「試み(ペイラスモス)」には、「試練」と「誘惑」の両義が含まれます。本質的には「苦しみによって、人を神から離れさせようとすること」を指します。悪魔は、過酷な試練を用いて信仰者を追い詰め、神を呪わせようと狙っているのです。
「敵である悪魔は、吠えたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと探し回っています。」
ペテロの手紙第一 5:8
私たちは、誰もがこの「試み」の危険の中に置かれています。特に、心身の疲労やトラブルが重なる時、「これ以上神を信じられない」という誘惑にさらされます。これは信仰歴の浅い人や、求道中の方に限らず、指導的な立場にある牧師や伝道師であっても例外ではありません。むしろ、彼らこそが悪魔の標的になりやすい現実を、私たちは重く受け止める必要があります。
3. 「私たちの祈り」としての責任
主の祈りは「私の祈り」ではなく「私たちの祈り」です。これは教会全体に与えられた、互いのために祈り合うという責任です。
兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。
ガラテヤ人への手紙 6:1-2
互いの重荷を負い合い、試練から守られるように祈ることこそが、キリストの愛の律法の成就です。イエス様ご自身も、十字架にかかられる直前、信じる者たちのために祈られました。(ヨハネの福音書17章)
私たちも、このイエス様の愛の模範に倣い、お互いのために「私たちを試みにあわせず、悪よりお救い下さい」と、共に祈り合っていくものでありましょう。
