聖書箇所:ネヘミヤ記11章1−2節
説教題:『エルサレムに住む人々』
説教者:堀浩史牧師(バイブルバプテスト北国分キリスト教会牧師)
1. はじめに:エルサレム再興という課題
ネヘミヤたちの指導により城壁は再建され、民はエズラによる律法の朗読を聞いて悔い改め、神との「盟約」を結びました。しかし、城壁という「枠組み」が完成しても、肝心の都の中には人が住んでおらず、街としての機能は失われたままでした。紀元前586年のエルサレム陥落以来、約250年もの間、都は荒廃していたのです。
エルサレムを単なる都市ではなく、神の神殿がある「聖なる都」として再興するためには、そこに住み、礼拝を支える「民」が必要不可欠でした。本日の箇所は、そのエルサレム移住という具体的な行動契約がどのように実行されたかを記しています。
2. 二つの移住者:神の選びと自発的な献身
聖書によれば、エルサレム住人には二種類の人々がいました。
第一に、「くじによって選ばれた人々」です。民の10分の1を都に住まわせるため、くじが引かれました。これは、民全体がエルサレム再興の責任を負うという意思表示であり、所得や収穫の10分の1を神に捧げる「什一献金」の思想と軌を一にするものです。くじに当たった者は、それを「神の主権的な選び」として受け入れ、生活の拠点を移しました。
第二に、「自ら進んでエルサレムに住もうとする人々」です。彼らは義務や強制ではなく、自発的に犠牲を払うことを選びました。当時のエルサレムは、インフラも整わず、敵からの攻撃にもさらされやすい、決して住みよい場所ではありませんでした。それでも彼らが移住を決意したのは、神の都を守り、礼拝と共同体を支えたいという「信仰的献身」によるものです。民がこの人々を祝福した(2節)のは、彼らの姿に神への純粋な愛と献身の模範を見たからに他なりません。
3. 「進んで捧げる」という礼拝の本質
この「自発的な献身」は、聖書全体に流れる重要な主題です。出エジプト記における幕屋建設の際も、民は心から「進んで」捧げ物を持ち寄りました。それは罪を赦された者の感謝の応答でした。
新約聖書においてパウロは、「喜んで与える人を神は愛してくださる」(Ⅱコリント9:7)と述べ、さらに「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい」(ローマ12:1)と命じています。すなわち、神が最も喜ばれるのは、私たちが自らの意志で、自らの生活の場を神に捧げることであり、それこそが真の「礼拝」なのです。
4. 結び:主イエスの受肉と私たちの応答
現在、私たちは待降節(アドヴェント)の中にあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)とある通り、主イエス・キリストこそは、栄光に満ちた天の座を離れ、罪に汚れ、荒廃したこの地上に「自ら進んで」来られたお方です。
主は、私たちが住む不自由で困難な世界に「住むこと」を選んでくださいました。ネヘミヤ記で自ら進んでエルサレムに移住した人々の姿は、はるかに大きな犠牲を払って私たちの元へ降りてこられたキリストの受肉の予影(シャドー)と言えるでしょう。
神様は今も、神の御業のために「私を捧げます」と自ら進んで応答する者を求めておられます。それは、遠い異国の地である必要はありません。あなたの家庭、職場、地域という「今、置かれている場所」において、主の愛に応答し、自らの生活を捧げることです。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコ8:34)。この主の招きに対し、私たちもまた、喜んで自らを捧げる者でありましょう。
