説教題:『キリスト者のこころ』
聖書箇所:マタイの福音書7章1−5節
1. 「さばいてはなりません」という戒めと神の権威
マタイの福音書7章1〜5節で、イエス様は「さばいてはなりません」と命じておられます。ここで禁止されているのは、自らを棚に上げて裁判官の席に着き、他者を一方的に断罪する冷酷な態度です。他人の非難は容易ですが、本来、裁く権威を持つのは神お一人だけです。それにもかかわらず他者を裁くことは、自分を神様の座に据える「偶像崇拝の罪」に等しい行為です。
さらに、私たちが他者を測る厳格な「秤(基準)」は、そのまま自分自身が神から裁かれる際の基準となります。私たちは本来、神様の聖い基準の前では破滅を免れない罪人であり、ただ「キリストの十字架の恵み」によって生かされています。この圧倒的な恵みを忘れ、隣人に不寛容になり、絶対的な裁きの剣を振りかざす危うさを、イエスは厳しく戒めておられるのです。
2. 教会に委ねられた「霊的判断」の責任
一方で、この教えは、あらゆる不義に目を瞑り容認するような「偽りの平和」を意味しません。聖書は、教会には神の真理を守り群れを清く保つために、罪や偽りを見分ける責任があると教えています。
もし「一切さばいてはならない」がすべての判断の禁止を意味するなら、イエス様が示された教会規律の手続き(マタイ18章)や、パウロが命じた不品行な者の除名(Ⅰコリント5章)と矛盾します。地上にある教会には天の御国につながる大きな権能(鍵)が委ねられており、偽預言者などの害悪から群れを守るための客観的で厳格な「霊的判断」は不可欠なのです。
3. 自己吟味と愛に基づくバランスの実践
したがって私たちには、「勝手に裁判官となって他者をさばかないこと」と「教会の清さを守るために霊的判断をすること」の両方を守るバランスが求められます。
そのために重要なのが、他者の目にある「ちり(小さな欠点)」を指摘する前に、まず自分の目にある「梁(大きな問題)」を取り除くという自己吟味です。自分のことを棚に上げて相手を断罪すれば、その厳しい基準は自分に帰ってきます。しかし、まず自らの霊性を整えて梁を取り除くなら、霊的な目が開かれ、相手の問題にも適切に対応できるようになります。この注意は相手を攻撃するためではなく、主を愛し、その御体である教会を共に建てあげるための愛の配慮です。
結論
私たちは神様ではないため、人を断罪してはなりません。しかし、教会を建てあげる一員として、神の清さと交わりを守るために互いを見守る責任があります。自らを深く顧みつつ、愛を持って正しく見分け、共にキリストの教会を建てあげていくことが大切です。
