説教題:『神の国と神の義』
聖書箇所:マタイの福音書6章31−34節
1. 人への忠告の易しさと自己吟味の難しさ
哲学者タレスが言うように、他人の欠点を指摘し忠告を与えることは容易であり、時に優越感を抱かせますが、一方で「自分自身を知ること」は非常に困難です。マタイの福音書が命じる「思い煩うな」という教えを他者に語ることは簡単ですが、語る当人(伝道師自身)もまた、将来の生活や健康に対する心配を抱えて生きているという現実があります。私たちは頭で聖書の言葉を理解していても、それを実際に生きる難しさに直面しています。
2. 「異邦人」の生き方とクリスチャンの特権
イエスは、衣食住などの必要なものを貪欲に追い求め、心を引き裂かれて心配するのは、神を知らない「異邦人」の特徴であると言われました。神がいない世界に生きる人々にとっては、目に見える資産だけが安心の拠り所だからです。しかし、キリストによって神を「天の父」と呼ぶ特権を与えられた私たちは、異邦人ではありません。それにもかかわらず、実際には彼らと同じように心配し、地上に執着してしまう姿があります。私たちは、全知全能の父が私たちの必要をすべてご存じであることを思い起こし、生き方全体でその信頼を証ししていく必要があります。
3. 優先順位の逆転:「神の国」と「神の義」
イエス様は心配をやめるだけでなく、心のエネルギーを向ける積極的な目標として「まず神の国と神の義を求めなさい」と命じられました。これは、生活の安定やゆとりを得てから神に目を向けるのではなく、人生の優先順位を完全に逆転させることを意味します。
地上のアスリートやボクサーが、やがて朽ちる勝利の栄冠のために厳しい節制をし、生活のすべてを競技に捧げるように、私たちは天の御国において受ける「朽ちない冠」のために、地上の関心事を後回しにする節制へと招かれています。
*神の国を求める:地理的な天国だけでなく「神の主権的な支配と統治」を意味します。家庭や職場、日々の私生活のすべてにおいて、神が王として君臨されることを願い、従うことです。
*神の義を求める:人に見せる表面的な正しさではなく、隠れたところで見ておられる神の御心に適う、内面からの誠実な歩みのことです。地上の必要はすべて天の父が与えてくださると信じて委ねるからこそ、私たちはこの過酷とも言える優先順位の変更へと一歩を踏み出すことができます。
4. 「今日一日」という区切りで生きる
最後にイエス様は、明日のことまで心配する必要はないと語られます。私たちは過去や未来の重荷をすべて背負い込むと、耐えきれずに沈没してしまいます。船が防水区画を鉄の扉で遮断して浸水を防ぐように、私たちも昨日と明日を鉄の扉で区切り、神様が与えてくださった「今日一日」の区切りの中で生きることが大切です。
私たちは神様を知らない異邦人ではないという原点に立ち返り、天の父への信頼を土台として、永遠に朽ちない栄冠のために、今日という日に神様の支配と正しさを追い求めて歩んでいきましょう。
