1. 聖なるものと真珠の価値(マタイの福音書7章6節)

前半では、マタイの福音書7章6節に記された「聖なるものを犬に与えてはいけません。また、真珠を豚の前に投げてはいけません。犬や豚はそれらを足で踏みつけ、向き直って、あなたがたをかみ裂くことになります」という御言葉が扱われます。

当時、イスラエルにおいて犬や豚は不浄な生き物であり、本能のままに人を襲う理性のない野獣を指していました。そのような獣にとって真珠は無価値な石ころに過ぎず、与えられても踏みつけにして人に襲いかかります。ここでイエス様が示されているのは、神の国の真理や教えの価値が分からず、それを必要とせずに踏みつけにする人々がいるということです。主は、そのような反発する人々に無理に尊いものを与えて、私たちが傷つけられる必要はないと教えておられます。

このたとえは、マタイの福音書13章45節から46節に登場する「高価な真珠を見つけて持ち物をすべて売り払って買う商人」の姿と対比されます。私たちは、真理を前にして反発する犬や豚のようになるのではなく、天の御国の教えを最優先する商人のようでなければなりません。御言葉に対する反応の違いが、永遠の命に関わる大きな違いを生み出すのです。

2. 天の父なる神の愛と祈りの特権(マタイの福音書7章7-11節)

後半では、マタイの福音書7章7節から11節の「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」という箇所へと進みます。イエス様はここで、地上の親子のイメージを用いて神と私たちとの関係を語られました。

人間の父親は不完全で罪深い存在であっても、子どもがパンを求めれば石ではなくパンを、魚を求めれば蛇ではなく魚を与えます。子どもに良いものを与えたいと願うのが地上の親の姿です。それならば、ましてや完全な愛そのものであり、全知全能であられる天の父なる神が、求める子どもたちに良いものを与えてくださらないはずがありません。

私たちは祈りがすぐに叶わないとき、「自分が愛されていないからではないか」と神様の愛を疑ってしまいがちです。しかし、神様の愛を疑うのは不信仰や無知による誤りであり、私たちは愛を信頼して祈り続けるべきです。ここで使われている「求める、探す、たたく」という言葉は、ギリシャ語の現在時制(現在進行形)の命令法であり、直訳すれば「求め続けよ、探し続けよ、たたき続けよ」という意味になります。祈りは子どもに与えられた特権であり、義務でもあるのです。

3. パウロのトゲと祈りの答え(第二コリント12章8-9節)

祈り続けることの模範として、使徒パウロの経験が挙げられます。パウロは自らの肉体のトゲ(病)を取り除いてくださるよう、三度も主に願いました(第二コリント12章8節)。しかし、病は治りませんでした。

パウロは失望しかねない状況でしたが、諦めずに祈り続けたことで、主から「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」という御声を受け取りました(第二コリント12章9節)。パウロは、自分が願った形ではなく、より勝る神様の恵みと御力を受け取ることで、真の平安と満足を得たのです。

結論

天の父なる神様は、求める者に必ず最善の「良いもの」を与えてくださるお方です。私たちは目先の結果だけで簡単に諦めることなく、天の父の愛を信頼し、これからの歩みにおいて祈り求め続ける信仰者であることが求められています。