投稿者「mika」のアーカイブ

2023年11月19日 主日礼拝メッセージ

「信仰を持って触れた ただ一人の人」   マルコの福音書 5:25-34   金田洋介牧師

本日のマルコの5章に出て来る女性は、12年もの長い間病気を患い、苦しんでいました。彼女は治療の為に多くの医者にかかりましたが良くなるどころか悪くなる一方でした。そんな中、彼女はイエス様の噂を聞き、最後の望みを持って行動を起こします。彼女は群衆にまぎれ込み、イエス様に近付いて着物に触れました。それは「イエス様の着物にでも触れれば自分の病は癒される」と確信していたからです。すると、「すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じ」(29節)ました。彼女の病は瞬く間に根源から癒されたのです。イエス様は自分の内から力が出たことに気付き、触った人を捜し出されました。彼女は隠し通すことができないと悟り、自分の身に起こった事を正直に告白しました(33 節)。するとイエス様は「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい。」(34 節)と、彼女の祝福を祈られたのです。彼女の信仰による行動に注目します。

一つ目は、イエス様に近付いたということです。おそらくイエス様の取り囲んでいた群衆の中で一番躊躇していたと思います。当時、彼女のような病を患っている人は、律法において汚れているとされていました。しかし彼女は、自分の身の程を認めながらも、「イエス様しかいない」と信じて近付いたのです。イエス様、神様に遠慮することはありません。彼女は癒されただけでなく、イエス様から祝福の言葉までいただきました。あなたもありのままの姿でいい。イエス様に近付き救いを求めよう。

二つ目は、イエス様に触れたということです。彼女が触った時だけ、イエス様から力が出て行きました。イエス様の周りには彼女だけでなく、多くの群衆がいたのに、誰もがイエス様に触れていたはずなのに、イエス様の内から力を引き出すことができたのはこの女性だけでした。それは、心の奥底から、本気でイエス様を求めていたからです。信仰を持ってイエス様に触れた、ただ一人の人はこの女性だけだったのです。「イエス様に触れる」とは、「どれだけ真剣にイエス様を求めているかどうか」ということです。

最後に三つ目は、イエス様に告白したということです。彼女は、自分の身に起こったことをイエス様に正直に告白しました。それは同時に、イエス様の素晴らしさと共に、イエス様を信じる信仰による行動がいかに素晴らしい結果をもたすことが人々に証しされたということです。これは、「イエス様に(神様に)栄光をお返しする」という言葉にも変えることができます。「全ては私の力によるのではありません。イエス様(神様)、あなたがなさってくださったのです」と告白する(感謝する)のです。そして、イエス様(神様)がしてくださった素晴らしい御業を人々に証しする。イエス様と共に喜び、その喜びを他の人たちと分ちあうことは、とても大切なことなのです。真剣に救い主イエス様を信じ求めた先に待っている結末は、素晴らしい神様の御業に与る体験、神様への感謝と、他者との喜びの分かち合いです。信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

今日のお花は、アレカヤシ、オリエンタルユリ、ストック、トルコキキョウ、カーネーションです。

2023年11月12日 主日礼拝メッセージ

「岩の上の生涯」  マタイの福音書 7章 24-29節   金田ゆり牧師

イエスの山上の説教の結論部分です。イエスは、山上で様々な教えを語られ、結論として二人の人物のたとえ話をされました。

1. 岩の上に自分の家を建てた人 24~25節

ある人が自分の家を建てることにしました。この人物は、岩の上に家を建てたのです。イエスは岩の上に家を建てた人を「わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者」と言われます。御言葉を聞いて行う。あなたが聞いて教えられた御言葉を行おうと真剣に向き合っているのか、イエスは見ておられるのです。イエスは、そのような人を賢い人だと言われました。賢いという言葉は、ギリシャ語では忠実という意味があります。イエスの御言葉を聞いて行う者は、忠実な者だというのです。イエスの評価基準は、何か大きなことを成し遂げることではなく、イエスの御言葉に忠実であったか、なのです。御言葉に向き合う時、簡単には行うことができない、従えない自分とぶつかり時間がかかることがあるでしょう。しかし、それが岩の上に家を建てるということなのです。硬い岩に穴が開くのは時間が掛かりますが、イエスご自身が家が建つように助けてくださいます。岩の上の家は、雨、洪水、風の三重の災難が襲っても決して倒れません。御言葉を行う生涯を歩むとき、あなたは不思議な神の守りと力を体験します。来るべき最後の審判の時も、あなたは裁きを免れ、永遠の御国に入るのです。

2. 砂の上に自分の家を建てた人 26~27節

イエスは、御言葉を聞いても行わない人は、砂の上に自分の家を建てる愚かな人と言われます。砂の上に家を建てる人などいない、と思いますが、それほど御言葉を聞いても行わないというのは愚かだと言われるのです。砂の上に家を建てるのは本当に簡単で忍耐もいりません。しかし、三重の災難が襲ったとき、跡形もなく破壊されてしまうのです。神の裁きの前に出た時も、裁きに耐えることはできないのです。

3. 嵐はどちらにも来る この二人には共通点があります。

一つ目は、二人とも家を建てようとしたこと。幸せで有意義な生涯を建て上げようとしたのです。二つ目は、どちらもイエスの御言葉を聞いていたということです。三つ目は、嵐はどちらにもやってくる、ということです。嵐が来たときに、すべてがわかるのです。岩の上の生涯が、いかに神の愛と守りに満ちたものであるか。砂の上の生涯が、いかに脆く、不安な生涯であるか…嵐が来たときに明らかになります。イエスがあなたに行ってほしい、向き合ってほしい御言葉があるのではないでしょうか。それは、あなたの生涯が何ものにも揺るがされない、岩の上の生涯となるため。神の愛と守りの生涯に入るため、永遠の神の御国に入るためなのです。

今日のお花は、ドラセナ(インディア)、ユリ(グレースフル)、トルコキキョウ(シャンパン)、アルストロメリアです。

2023年11月5日 主日礼拝メッセージ

「仮庵のリバイバル」   ネヘミヤ記 8 章 1-18 節 金田ゆり牧師

BC445、エルサレムに帰還したネヘミヤは、帰還民と共にたった52日で城壁を再建します。最後、民が再建すべく向き合ったのは、信仰の再建でした。彼らは一人の人のように集まり、学者であり祭司であるエズラに、聖書を読んで聞かせてくれるよう願ったのです。

1. 御言葉の前に起立する民 2~8 節

成人の男女、聞いてわかる子どもに至るまでが、夜明けから真昼まで御言葉の朗読を聞きました。民はみな、起立していました。本来、神の言葉を聞くとはこういうものです。私たちは礼拝にて、そして日々のデボーションにおいても、真剣に神の言葉の前に立つのです。イスラエルの民は長く御言葉から離れ、理解することができなくなっていました。レビ人が解き明かし、初めて彼らは御言葉を理解します。真剣に御言葉に向き合ったからです。

2. 民の涙と神の愛 9~12 節

御言葉を理解した民は、みな泣いていました。なんと自分たちは御言葉からかけ離れ、神の前に罪深い歩みであったことか。神の民として、やっと御言葉を理解できた。彼らは御言葉の前に泣き崩れたのです。御言葉に心照らされて、御言葉が自分のものになった経験はありますか。神の言葉には、あなたの人生を変える力があります。神の力を体験する人生に変わります。泣き悲しむ民を見た指導者たちは、この日は主にとって聖なる日だ。悲しんではいけない。泣いてはいけない。もう、泣かなくていいんだ。心から喜び祝おう、と声を掛けます。主がこんなに素晴らしいお方であると、主を喜ぶことはあなたがたの力だから!と勧めます。神の御言葉を理解し、自分のものとなり、神を深く知ることができたなら、喜びなさい。悲しんではいけない。神様の思いです。何という愛のお方なのでしょうか。

3. 仮庵のリバイバル 13~18 節

大いに喜び祝った次の日、民のリーダーたちはさらに聖書を調べようとエズラのもとに集まりました。彼らは、レビ記23章の仮庵の祭りの箇所を見つけたのです。主がイスラエルをエジプトから救い出されたとき、仮庵でかくまい、養われたことを覚える祭りでした。ネヘミヤもエズラも体験したことのない祭り。彼らは、御言葉の通りに仮庵の祭りを行いました。ヌンの子ヨシュアの時代から1000年、イスラエルが自発的にこの祭りを行ったことはありませんでした。やっと!神の御言葉の通りに行うことができた!全イスラエルが歓声を上げて喜びました。仮庵のリバイバルです。私たちは、御言葉と真剣に向き合う時間が必要です。御言葉に向き合うことなしに私たちが真に神の力を体験することはありません。御言葉が、あなた自身のものとなる経験を。御言葉を行うことができる喜びを。神の力があなたに現れる喜びを。あなたにとっての仮庵のリバイバルを体験してほしい。これが主なる神の願いなのです。

今日のお花は、アレカヤシ、テッポウユリ、かすみ草、バラ(ソラーレ)です。

2023年10月29日 主日礼拝メッセージ

広くて深い神様の愛–神様の推し  ヨナ書 4:1-11  金田洋介牧師

神様はニネベの悔い改めをご覧になり、彼らに対する裁きを思い直されました(3章)。ニネベの人々が神様の裁きを免れたことは幸いなことです。ところが、この結果はヨナを不機嫌にさせたのです(1節)。

ヨナは神様が恵み深く憐れみ深いお方であることを知っていたと告白しています(2節)。 しかし、神様の憐みがイスラエルの敵であり、罪深いニネベに臨んだことが彼の怒りの理由でした。神様は「あなたは当然であるかのように怒るのか(4節)」とヨナに問いますが、彼は黙っていました。ヨナの複雑な気持ちが伺えます。その後、ヨナは神様が何事かをニネベの町に行われるのでないかと期待し、町の様子を眺めていました。すると神様は、ヨナのために唐胡麻を備えて下さいました。彼を厳しい日差しから守るためであり、彼の機嫌を直すためでもありました。神様の優しさを思わされます。ヨナも非常に喜びました。ところが、神様が備えた虫によって唐胡麻は枯れてしまったのです。唐胡麻を惜しんだヨナはまたもや怒りますが、神様はこの怒りに対しても4節と同じ言葉で問われました。しかし、この時のヨナは自分の怒りの正当性を訴えます(9節)。すると神様は、「たった一晩で枯れてしまった。もともとあってないような唐胡麻をあなた(ヨナ)はそんなにも惜しんでいる。であるならば、たとえ善悪の判断がつかないようなニネベの人々であっても、彼らに対する愛と憐みを惜しむことはできない」と、ヨナを諭すように優しく語られたのです(11節)。ヨナ書はこの神様の問いかけで終わっています。

神様の思いを聞いたヨナは、この後どのような応答をしたのか分かりません。でも、ヨナ書を学んできた私たちだからこそ、分かることがあります。それは、神様がヨナに対して、「わたしのニネベに対する思いを知ってほしい。そして、わたしの思いと一つになってほしい。」ということです。このことを前提にヨナ書を見ると全てが繋がると思います。神様は何としてでもニネベを救いたかった。この罪深い人々を罪の闇から救い出したかったということが分かります。神様の愛は、私たちが考える以上に広くて深い愛なのです。

本日の説教題の副題に「~神様の推し~」と付けました。「神様の推し」とありますが、今日伝えたいことは、神様に「推しはない」ということ(気に入った人だけを特別扱いしないということ)です。何故なら、神様は「偏り見ることがない神様」だからです。神様は、どんな人でも滅びることを願われない神様であり、その人が救われるためなら、どんな犠牲も「惜しまない」神様なのです。どうか、この世にあってのニネベ(神様の前に罪深い国々、人々)と、あなたにとってニネベのような存在(関わりたくない人、嫌な思いをさせられた人、それこそ、極端な例えですが、あなたが救われてほしくないと思うような存在)が、罪を悔い改めて救われることをあなた自身の願いとなるよう、神様に祈り求めようではありませんか。ヨナの心を変えて下さった、愛なる神様に期待しましょう。

今日のお花は、フーセントウワタ、ユリ(ゼルミラ)、バラ(ブリランテ)、ピンポン菊です。

2023年10月22日 主日礼拝メッセージ

「あなたの健康を願われる神様」   箴言3:7-8   金田洋介牧師

本日は特別ゲストに日野秀彦兄をお迎えし、お証をしていただきました。本日のメッセージのテーマは「健康」です。皆さんも、日頃から健康について考え、気を配られておられると思いますが、実は世界共通の「健康の定義」というものがあることをご存知でしょうか。世界保健機関(WHO)は「WHO憲章」の前文の中で、健康の定義をこのように提言しています。『健康とは、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない。』。さらに、審議には至りませんでしたが、1998年に以下の定義が提案されました。『健康とは身体的・精神的・霊的・社会的に完全に良好な動的状態であり、単に病気あるいは虚弱でないことではない』。特に霊的(スピリチュアル)をどう捉えるかですが、目に見えないけれども拠り所(生きがい)となるもの。あるいは、人生の意味や価値、土台、指針となるものによって、力に溢れ充実している状態ということでしょう。ですから、健康には単に目に見えることばかりではなく、霊的なこと、つまり目に見えないことも大切だということなのです。

今日皆さんに聖書の言葉を通してお伝えしたいことは、神様は「あなたに健康(さいわい)であってほしい」と願っておられるということです。本日の箴言3章7~8節には、健康(さいわい)を得るための秘訣が記されています。その秘訣とは、(1)自分の能力(力、知恵、経験、社会的地位など)を誇らず、神様を畏れ(私たち人間を創造された神様の存在を認める)、(2)神様の御言葉(教え)を聞いて日々を歩むことです。神様の御言葉に従って歩むならば悪から離れた道を生きるようになります。箴言3章7節の「悪」とは「罪」のことです。罪は私たちの心も体も蝕んで行く恐ろしいものです。当事者だけでなく、周囲の人々を巻き込みます。そして、死へと至らせる力があると聖書は教えています。だからこそ神様は、私たちが健康であるために(幸いであるために) 「悪を離れなさい」と語っておられるのです。

聖書はあなたがどのように生きると幸いを得ることができるかを教えています。それは事実です。本日のゲストである日野兄弟の体験談がその根拠の一つと言えるでしょう。 日野兄弟は神様の言葉が大切であることに気付き、神様の御言葉に聴き従うようになり、 結果、神様が願われる「健康(さいわい)」を得られました。日野さんと同様に、神様は あなたの健康(さいわい)も約束されています。神様は、あなたの心身の健康のみならず、幸いな人生を祝福する力があります。この神様にあって、あなたの健康(さいわい) を心からお祈りいたします。

今日のお花は、テッポウユリ、アスパラガス、マリーゴールド、バラです。

2023年10月15日 主日礼拝メッセージ

「ニネベの悔い改め -主の憐みを求めて-」   ヨナ書3:1-10 金田洋介牧師

魚の腹から吐き出されたヨナは、神から再び召命を受けます(2節)。以前は神の御顔 を避けたヨナでしたが、「【主】のことばのとおりに、立ってニネベに」向かいます(3 節)。

神様の裁きの厳粛さ ~すべてを裁かれる神~

ヨナは「あと四十日すると、ニネベは滅びる(4 節)」と、ニネベの町を叫びまわりました。ニネベの人々からすれば、「ヨナを遣わされたイスラエルの神と自分たちとは無関係だ」と思ったことでしょう。これは今日の日本にも通ずることで、「キリスト教は外国の神で、日本には日本の神がいる」との言葉をよく聞きます。しかし、真の神様の御前にそれらの理屈は通じません。聖書の神様は「人をそれぞれのしわざにしたがって公平にさばかれる」(Iペテロ1:17)ことのできる真の神様なのです。また、聖書は善悪共に裁かれる神様がおられることを知り、認め、信じることが大切であることを教え ています。

ニネベの回心 ~悔い改めの姿を見ておられる神~

神様の御言葉にはたましいを救う力がります(ヤコブ 1:21)と聖書は教えています。 ヨナの言葉を聞いたニネべの人々は、身分の高い低い関係なく、全ての人が罪を悔い改 めたのです。そして、その悔い改めは、行動の伴うものでした。ニネベの人々は悪い道から離れ、暴虐と横暴なふるまいを止めたのです。「神は彼らの行いを、すなわち、彼らが悪の道から立ち返ったのをご覧になった。」(10 節)とありますように、神様はその悔い改めが真実であるかを見ておられました。神様の御前にごまかしは通用しないということです。どうか、私たちの悔い改めが神様に御前に真実で、実際の行動の伴うものでありますように。

ニネベの罪の赦し ~憐み深い神~

ニネベの人々の悔い改めをご覧になられた神様は、「神は彼らに下すと言ったわざわいを思い直し、それを行われなかった。」(10 節)。ニネベの悪が大きいことは神様ご自身が認めるところでした(1章)。真の神様を恐れず、その行いは悪く、横暴に満ちていました。しかし、ニネベの人々は心から悔い改めました。悪しき行いを一切捨て去った のです。その姿を見られた神様は深い憐みをもってニネベを赦して下さったのです。神様は「あわれみと恵みに富み、怒りをおそくし、いくしみと、まこととに豊かな」(詩篇 86:15)お方です。神様は聖書の御言葉を通して、常に私たちに語っておられます。 日々、御言葉に触れ(聴き)、もしも罪が示されたなら、神様の憐みを求めて御前に悔い改めましょう。

今日のお花は、ドラセナ、グロリオサ、バラ(チェリーブリランテ)です。

2023年10月8日 主日礼拝メッセージ

「主の御顔の前で」 ヨナ書1章17 節~2 章1~10節  金田洋介牧師

ヨナが乗った船が大風によって難破しそうになりました。この事態を招いた原因が自分にあることに気付いていたヨナは、海に自分を投げ込ませました。すると大風は止み、海は静かになりました。※前回はここまで。海の底に沈んでいくヨナ。その時、神様は「大きな魚を備えて、ヨナを呑み込ませ…」(1:17)、彼は助けを得ました。しかし、溺れ死ぬことは免れたもののその身は大魚の腹の中です。この後のヨナの行動に注目しましょう。

ヨナの祈り ~主の御顔の前で~

ヨナは魚の腹の中で神様に祈ります。船が難破しそうになっても、全く祈ろうとしなかったヨナでしたが、さすがにこの時ばかりは素直な態度が見られます。2節以降、ヨナの祈りが著されていますが、彼が絶望の底に追いやられ、苦しんでいる事が分かります。襲い掛かる大波、光の届かない海の底、そして命はとりとめたものの、魚の腹の中にいる恐怖と不安。そして、孤独。これはヨナ自身が招いたことですが、彼は「もう一度、私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たい(4節)」と、神様に救いを求めます。

ヨナの変化~主の御顔の前で~

ヨナが神様の御前に悔い改めた時、彼は「主を思い出した(7節)」。主を思い出すとは、神様がどのようなお方であり、また、これまでヨナ自身も語ってきた、神様の御言葉を思い出したということです。確かに、ニネベは神様の御前にも罪深い町です。しかしヨナは、神様が悪人の死を喜ばず、むしろ悪人がその道を離れて生きることを喜ぶ(エゼキエル 33:11)、愛と憐みに満ちたお方であることを悟ったのです。ヨナが神様の命令に従うと決心した時(9 節)、神様は魚に命じて彼を陸へと吐き出させたのです(10節)。

私たちもヨナのように、自分が神様の御前に不従順であると気付いていながら、「あの人こそ悔い改めるべきだ」と裁き、また一方で、罪深い自分に何度も失望し、神様の御顔の前に出るどころか、「こんな自分は赦されないと諦めてしまうこと、あるいは、自分が神様の御前に不従順であることすら気付かないことがあります。どうか、ヨナ書 2 章を学んだ今、神様の御前で自分の普段の姿を思い巡らしませんか。普段の自分の行動、言葉(言動)、心の中にいつも思っていること(いつも心の中から離れない感情や特定の人物)、神様に向って訴えていること、神様に示されている事、神様の御顔を避けていること(向き合わないでいる自分の課題や問題)はありませんか。どうか、それらの事を思い起こしながら、神様の御言葉を思い出しましょう。ヨナは暗闇のどん底で変わりました。たとえ、あなたが魚の腹の中にいるような、暗闇と悪臭が漂うような絶望の底に陥いっていたとしても、必ず神様の御言葉の真実を、御力を体験することができます。なぜなら、ヨナに魚を備え、大波の中、 魚の腹の中でヨナを取扱い、彼の祈りと叫びを聞き、彼の変化を見、決心を聞かれ、魚に命じて彼を吐き出させた神様が、私たちの神様なのですから!

今日のお花は、オリーブ(枝)、かざりトウガラシ、ミヤマリンドウ、トルコキキョウです。

2023年10月1日 主日礼拝メッセージ

「主の御顔を避けて」 ヨナ書1章1~16 節 金田洋介牧師

紀元前8世頃活躍した預言者ヨナ。神様は彼にニネベへの宣教を命じられました。それは、ニネベの人々の罪があまりにも重かったからでした(2節)。ところがヨナは「主の御顔を避けて」(3節)、ニネベに向かわず、タルシシュ行きの船に乗り込みます。ヨナが神様の命令に背いた理由は 4 章で明らかにされますが、いかなる事情があれ、預言者であるヨナが故意に神様の御心に背くとはよほどのことです。ところが神様は、大風を起され(4節)、ヨナを乗せた船は激しい大風に襲われます。恐れた水夫たちは、それぞれ自分が信じる神に助けを求めます。一方ヨナは、船底で熟睡していました。船長はヨナを起こし、彼が信じる神に助けを求めるよう迫りますが、ヨナは祈ろうとはしません。一向におさまらない嵐に 人々は、クジによってこの災いを招いた張本人を探ったところ、ヨナに当りました。観念したヨナは、自分が信じる天地創造の神様の御心に背いたためにこの暴風が臨んだことを告白し、自分を海に投げ込むよう命じたのです。人々がヨナの言葉通りに彼を海へと投げ込むと、大風は止み、海は静まりました。この一連の出来事を経験した人々は、ヨナが信じる天地創造の神様を信じ、礼拝する者になったのです(16 節)。ヨナの不従順が、結果として異教者を真の神礼拝へと導くことになるとは、ヨナ自身思いもしなかったことでしょう。

この 1 章から分かることの一つとして、神様は、罪深いニネベを救いたいと願われたことです。聖書は、「神様は全ての人が救われることを願っておられる」と教えています。ヨナ書のメッセージを私たちが置かれている現実に当てはめるならば、あなたが敵とみなすような存在、関わりたくない存在、それこそ、極端な話、あなたが救われてほしくないと思うような存在、神様を信じ、聖書を読み、祈り、教会生活に励む姿を想像できないような人あっても、神様は救われてほしいと願っておられるということです。

そして、もう一つ。神様は何としてでもヨナをニネベに遣わしたかったということです。たとえ、ヨナが未熟でも、反抗的でも、逃げ出しても、神様の本意が全て理解できていなくても、神様はヨナと共に救いの計画(プラン)を全うしたいと思われたのです。だからこそ、嵐を引き起こしてまで、彼を引き戻そうとされたのです。宣教は神様と人(あなた)との共同作業なのです。

神様はこの世にあってのニネベ(神様の前に罪深い国々、人々)を、あなたにとってニネベのような存在(関わりたくない人、嫌な思いをさせられた人)を救いたいと思っておられることを、ヨナ書を通して明らかにしておられます。そして、そのご計画の為に「あなた」 を用いたいと願っておられることを明らかにして下さいました。今はまだ、神様の御顔に目を合わせられないかもしれません。分かっていながら、示されていながら、御声を聴いていながら、避けているかもしれません。どうか、あなたがヨナ書の全てのメッセージを聞き終える時、今とは違うあなたに変えられることを信じて期待しようではありませんか。

今日のお花は、ガーベラ、スカシユリ、グラジオラス、ドラセナです。

2023年9月24日 主日礼拝メッセージ

「神が恵みを賜う者」 オバデヤ書1~21節 金田洋介牧師

小預言者からのメッセージ。本日はオバデヤ書です。ヤコブの兄エサウの子孫であるエドムの裁きについて告げられます。

エドムの罪と神様の裁き

ここで指摘されているエドムの罪は高慢です。エドムの町は堅い岩盤によって囲まれていただけでなく、高台にありました。彼らは心の中で「誰も私たちを攻め落とすことはできない」と誇っていたのです(3節)。心に思い計ることもみな、神様は知っておられます(ヘブル 4:13)。たとえ、表向きは謙虚であっても、謙遜なそぶりをしていても、心の中に思う高ぶりを神様は見過ごしにはされません。そして神様は、エドムを高慢にさせる、あらゆる誇り (所有物、同盟国、知恵と知者たち、勇者たち)をことごく奪い去られると告げました(5~9 節)。神様は「神など必要ない」とエドムを高慢にさせていたもの全て打ち砕かれるのです。

エドムの不誠実な行い

次に、エドムの不誠実な行いの数々が 10 節以降で指摘しています。もとは一つの民であったイスラエルが他国に攻め込まれているとき、彼らを侮辱し、火事場泥棒のように略奪し、逃げようとするイスラエルの民を妨害し、捕まえて敵に差し出したのです。神様はエドムに「おまえは、自分がしたように、自分にもされる。おまえの報いは、おまえの頭上に返る。」と告げられると、16 節ではエドム人がイスラエルの滅んでいく様を酒の肴にしていたことも指摘され、エドムは神様の怒りの杯を飲むことになると裁きを宣告されました。
みな互いに謙遜を身に着けなさい。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです(1 ペテロ 5 章 5 節)。神様は高ぶる者を必ず裁かれます。神様は私たちの高ぶりを見抜かれるお方です。「私は大丈夫。むしろ、あの人こそ問題だ。」ではなく、「どうか、他のだれかではなく、私の心と行いこそ、神様、探って下さい」と祈る者でありたいのです。神様が恵みを賜う者(恵みを与える者)とは、へりくだる者(謙遜な者。神様の御声を受け取る者。)だからです。
17 節から最後までは、回復の預言が綴られています。神様の裁きによって滅ぼされたイスラエルは再び領地を所有するようになり(17 節)、エドムは滅ぼし尽くされるのです (18 節)。
神様は高ぶる者、高慢な者を退けられます。しかし、私たちの罪は、イエス様の十字架によって全て赦されます。もし、このオバデヤ書を通して罪が示されたならば、神様の前にへりくだって悔い改めようではありませんか。また、あなたの周囲にいる人に対して何かチャレンジが与えられたならば(とりなしの祈り、励まし、諭し、伝道など)、是非、行動に起こしてみませんか。神様の御声に耳を傾け、実践する一週間を共に過ごしましょう。

今日のお花は、ホトトギス、ミヤマリンドウ、オリエンタルユリ、トルコキキョウです。

2023年9月17日 主日礼拝メッセージ

「主に従い通した人」ヨシュア 14章6〜15節 金田洋介牧師

カレブという人物の信仰と生涯に注目します。彼の信仰姿勢とその生き様は、私たちにとって、とても良い見本と呼べる人物です。彼の生涯を3つの時代に分けてみましょう。

本日の箇所は彼が85歳の時の出来事です。いよいよ、カナンの地を分配する時が来ました。土地の分配はくじ引きによってなされる決まりでしたが、カレブは神様の約束の故にヘブロンの地を求めました。この神様の約束とは遡ること45年前、カナンの地を探った時の話です。カナンの地の素晴らしさを目の当たりにしたカレブと11人の斥候は、40日間の探索を終えて仲間のもとに帰って来ました。ところが意見が分かれ、民も混乱します。

40歳のカレブ -神様への信頼と信仰に満ちた信仰者の姿-

カレブとヨシュア以外の10人の斥候たちは、カナンの先住民を恐れ、カナンへの侵攻を拒絶しました。絶望のあまりに泣き叫ぶイスラエルの民に向かい「共におられる神を信じて攻め入ろう」とカレブが訴えますが、民の恐れと不満は爆発寸前です。すると、民の不信仰を嘆かれた神様は、「ヨシュアとカレブ以外の成人はみな、荒野で死ぬことになる」と宣告されました。そして、最後まで信じ従い通したカレブには、ヘブロンの地を彼と彼の子孫に与えると約束されたのです(民数記14:24)。大きな困難に直面した時、いかに日頃から神様と共に生き、共に歩んでいるかを問われるのではないでしょうか。とても考えさせられます。

85歳までのカレブ -神様の約束を待ち望み続ける信仰者の姿-

神様の約束をいただいたカレブでしたが、仲間の不信仰の裁きとして40年間、荒野を彷徨うことになってしまいました。しかし、カレブは一言も愚痴らず、呟かず、忍耐をもって 神様の約束を待ち望んだのです。彼の信仰は、40年という長い月日を経過しても全く揺らぎませんでした。信仰によって忍耐し続けたのです。そして、約束通りの恵みに与ることが できました。神様が「共におる」と言われたら必ず共におり、「守る」と言われたら必ず守り、「祝福する」と言われたら必ず祝福して下さるのです。神様の御言葉の約束は決して揺るぎません。信じ、忍耐し続けた先に、神様の御言葉の真実を必ず体験するのです。

85歳からのカレブ -神様の約束を信じ抜く信仰者の姿-

神様の約束の言葉をいただいてから45年が経過しました。しかし、カレブの信仰は全く揺るぎませんでした。何故なら、彼は常に神様を心に据えていたからです。嗣業の地ヘブロンには強い敵が待ち構えていましたが、「共におられる神様の御力によって勝利できる」と、45年前と変わらない信仰によって勝利しました。カレブは神様の約束の地を得ました。それは、彼が最後まで「神様に従い通したからだ」と聖書は教えています。
神様は私たちに祝福を用意しておられます。祝福を得る鍵は神様の御言葉を信じ、従うこと(実行すること)です。カレブの生涯に倣い、今も生きておられる神様を体験させていただきましょう。そして、現代のカレブとして、神様の素晴らしさを大胆に証ししましょう。

今日のお花は、パンパスグラス、オリエンタルユリ、スプレーアスター、ミヤマリンドウです。