投稿者「mika」のアーカイブ

2023年4月23日 主日礼拝メッセージ

「愛と赦しの傷跡(しるし)」  ヨハネの福音書20:24-29  金田洋介牧師

本日の箇所にはイエス様の十一弟子の中でただ一人、イエス様が復活された日に不在だったために、イエス様に会うことができなかったトマスの事が記されています。トマスは、仲間たちの証言を信じることができなかったばかりか、イエス様の「手や脇腹の傷に触れて確認するまで、決して信じない」と言うのです。弟子となって日が浅い人が言った言葉としてなら理解できますが、十二弟子の一人としてイエス様と行動と共にし、命がけで従っていたトマスがここまで言うことには、彼なりの理由があってのことだと思うのです。

ある説教家は「人を疑わせ、信じなくさせる原因となるのは、人生に中に起こって来る様々な経験だ」と語っています。トマスはイエス様を心から愛し、信頼し、望みを置いてきました。しかし、望みを置いたお方の最後は、悲惨な十字架の死でした。僅か三日前の出来事です。ですから、トマスがイエス様の復活の事実を信じるために、「傷痕に触れ、自分の指で確認しなければ…」と言ったのは、彼がイエス様の十字架の苦しみと死を目の当たりにし、味わった絶望を考えれば当然の話だと思うのです。…八日後、トマスの心を表すかのような堅く閉じられた家の扉を、イエス様はいとも簡単に入って来られ「平安があなたがたにあるように」と言われると、トマスに傷痕を示し、触れて確認するよう言いました。そして 最後に「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。この言葉がトマスの心に入 った瞬間、彼は信じる者に変えられ、「私の主、私の神よ。」と告白したのです。

トマスが見て、触れたイエス様の傷跡は、愛と赦しの傷跡(しるし)です。この傷跡は主が トマスを愛しておられるというしるし。この傷跡は主がトマスの罪を背負われたという罪の赦しのしるしなのです。それは、あなたのための傷跡(しるし)でもあります。イエス様があなたを愛しているという傷跡(しるし)であり、あなたの罪は全て赦されているという傷跡(しるし)なのです。しかし、現実、イエス様の傷跡が見えなくなるほどに、私たちの人生には 色々なことが起こってきます。苦難や悩みの毎日に神様への疑いの思いが湧いてくることがあります。次々と試練に遭い、なかなか好転していかない現実に、信仰が揺さぶられることがあります。心も体も霊も疲れ果て、賛美が、感謝が、喜びが、笑顔が消えていくことがあります。しかし、イエス様は私たちの心を閉じられた心に入ってこられ、そして言われます。「信じない者ではなく、信じる者なりなさい。」と。イエス様の言葉に心を向けましょう。イエス様の傷跡を見て触れるのです。実際に見て、触れるということではなく、イエス様が自分に何をして下さったのかを御言葉から思い巡らすのです。イエス様の傷跡はあなたへの愛と赦しのしるしです。イエス様は、そこまであなたを愛し、あなたの罪を赦して下さった程のお方です。イエス様の言葉と最善の導きと守りを信じて歩んで参りましょう。

今日のお花は、アルストロメリア、カキツバタ、テッポウユリ、カーネーションです。

2023年4月16日 主日礼拝メッセージ

「主よ共に宿りませ~エマオへの道で~」 ルカの福音書 24:13-32 金田牧師

二人の弟子がエマオへの途上で復活されたイエスと出会いました。イエスとのやりとりと、彼らの変化に注目しましょう。

イエス様に打ち明けた弟子たち 13~24節

イエス様は彼らが道すがら論じ合っていた事についてクレオパらに尋ねました。これは顔を曇らせていた二人の心の奥底に触れるためです。二人の間にイエス様が加わったことで交わりが生まれ、二人は自分たち気持ちも交え、夢中になってイエス様に語り出します(19- 24)。イエス様は、人生の途上にあるあなたにも近寄り、あなたの心の奥底にある思いを聴いて下さるお方です。イエス様はあなたに語り掛けておられます。「わたしに話してごらん」と。あなたの心の内を祈りを通してイエス様に聴いていただきましょう。

イエス様の御言葉を聴く弟子たち 25~27 節

彼らの話を静かに聴かれたイエス様は、ご自身について聖書に書いてあることを彼らに説き明かされました。この時、弟子たちは共におられる方がイエス様であることが分かりませんでしたが、御言葉を聴くことによって彼らの心は燃やされていったのです(32 節)。これはとても大切なポイントです。イエス様に聴いていただいたら、今度は私たちがイエス様の御言葉を聴くのです。暗い話題ばかり聞こえてくる今こそ、主の御前に静まり、御言葉を慕い求めるのです。御言葉にはあなたの魂を救う力があるのですから!

イエス様の側にとどまる弟子たち 28~32 節

説教後の応答の賛美である、新聖歌 336「日暮れてやみはせまり」は、このエマオ途上の出来事を想起させます。歌詞の「主よ、共に宿りませ」は、心燃やされた弟子たちが必死にイエス様を引き留めた言葉です。この後、彼らはイエス様と共に食卓に着き、イエス様からパンを受け取った瞬間に目が開かれ、自分たちと共にいた人物が復活されたイエス様である ことが分かります。イエス様との交わり、イエス様の御言葉に心を開くなら、彼らのように 心燃やされ、「主よ共に宿りませ」とイエス様から離れたくないと願う者に変えられ、さらに、イエス様ご自身を明確に捉えることができるのです。
「主よ、共にやどりませ」とは、「今だけ一緒にいて」という意味ではなく、「ずっと一緒に住む」という意味です。エマオの途上にあった弟子たちに寄り添われたイエスは、あなたの人生にも寄り添って下さるお方です。「主よ、共にやどりませ。ずっと私と共にいて下さい」とイエス様に心から求めようではありませんか。まず、あなたの心の奥底にある声をイエスに聴いていただくところから始めてみましょう。

今日のお花は、アルストロメリア、カキツバタ、テッポウユリ、カーネーションです。

2023年4月9日 主日礼拝メッセージ

「よみがえられたキリスト」ルカの福音書 24:1-12 金田洋介牧師

イースターおめでとうございます。復活されたイエス様の御名を賛美します。世界中で祝われるイエスの復活は、私たち一人一人に関わる大切な出来事です。イエス様が十字架の上で死なれてから三日目の朝、女弟子たちは香油を持って、イエス様の亡骸が納められた墓へとやってきました。この墓は、イエス様の弟子であり、議員でもあったアリマタヤのヨセフが所有する墓でした。墓の所有者と身分が明確であるということは、イエス様の死と葬りは疑いようのない事実であるということ意味します。イエス様は確 かに死んで葬られたのです。ところが、墓の入り口を塞いでいた大岩が除けられ、中のあるはずのイエス様の身体が無くなっていたのです。女たちが途方にくれていると、突然、神の御使いが現れて言いました。「あなたがたは、どうして生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、主がお話しになったことを思い出しなさい。(5~6節)」。女たちは恐れ戸惑いつつも、かつてイエス様が語られた言葉を思いだし、イエス様がよみがえられたことを信じました。そして、仲間たちの許へ帰り、いっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告…(9 節)し ました。ところが、十一弟子や他の仲間たちは信じることができませんでした。これが、ルカが記したイースターの朝に起きた出来事です。

ここで注目すべきは、女弟子たちがイエス様の言葉を思い出し、イエス様の復活を信じた信仰です。そして、その信仰は彼女たちに喜びと希望をもたらしました。彼女たちの心を覆 っていた悲しみは喜びに、絶望は希望に変えられたのです。後にも先にも、主イエス様の御言葉を信じることが大切であることを聖書は私たちに教えています。私たちはこの目で復活されたイエス様を見ることはできませんが、聖書の御言葉を通してイエス様のご人格に触 れ、イエス様のお姿を見、イエス様の御言葉を聞くことができます。イエス様は言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」 と。イエス様を信じる者には罪の赦し、罪の裁きである永遠の滅びからの救い、そして永遠の命が与えられると約束して下さいました。それこそが、よみがえられたイエス様を信じる 者に与えられる喜びと希望なのです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にき て下さった」と言う言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。(Iテモテ 1:15)
私たちの罪と死の問題を解決して下さったお方は、私たちの日常に起こるあらゆる問題、悩みをも解決して下さいます。どうか、信じない者にならないで信じる者となりましょう。

今日のお花はアルストロメリア、スカシユリ、マトリカリア、アレカヤシ、アスターです。

2023年4月2日 主日礼拝メッセージ

我ための苦しみ、我ためのとりなし        ルカの福音書 23:32-38 金田師

受難週は私たち一人一人の罪の為に十字架へと向かわれたイエス様の受難を深く覚える大切な時です。本日は十字架の上で発せられたイエス様の言葉の一つに注目しましょう。

I.自分が何をしているのかが分かっていない者たち

イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34 節)と祈られました。これは、イエスを十字架へと追いやった祭司や律法学者たち。態度を一変させたユダヤ人たち。必要以上にイエス様を痛めつけ、罵った兵士たち。イエス様を銀貨30枚で売り渡したユダやイエス様を置いて逃げ去ってしまった他の使徒たち。そして、罪を犯していながら「自分で何をしているの分かっていな い」私たちに対する祈りの言葉、神様へのとりなしの言葉でもあるのです。

II.我ための苦しみ、我ためのとりなし

十字架刑というものは、ひどい苦痛をできる限り長時間、味わわせるために考えられた刑罰です。十字架に付けられた犯罪人は、長時間苦しみ抜いて死に至ります。この時すでにイエス様の体は打ち傷によってボロボロです。体力的にも限界にきている中、十字架の上のイ エス様に向かい「自分を救ってみろ」と罵る者たちがいました。この言葉はイエス様にとっ て大きな誘惑でした。何故なら、神様の御子であるイエス様にとって、それは容易にできることだからでした。しかし、イエス様がそうしなかったのは、御子イエス様を通して全人類 の罪を贖うという神様の救いのご計画を全うするためだったのです。また、イエス様は一切恨み言や反論をしませんでした。イエス様の口から出てきた言葉は、彼ら(私たち)に対する愛と憐れみ、そしてとりなしの言葉でした。身体も心も引き裂かれ、痛めつけられながらも、最後まで彼ら(私たち)を愛し、赦し、憐れんで下さったのです。
我ための苦しみ、我ためのとりなし(罪の身代わりの十字架)であるのに、何にも分かっていない彼らのために、痛み苦しみを全く和らげることなく、神様の激しい怒りを(本来私たちが受ける神様の怒りと裁きを)受けて下さったのです。「彼らは」=「わたし」である ことをしっかりと心に留めたいのです。
受難週を過ごしていくにあたり、イエス様の苦しみを思い巡らし、自分の罪深さと向き合う時としましょう。ただし、それは自分の罪を責めて、打ち叩いて、後悔したり、自分を裁 いたりするためではありません。イエス様がどれほど憐み深く、どれほど私を愛しておられ るのかを知るため、確認するためです。イエス様はあなたの罪の身代わりとして苦しまれ、あなたの罪が赦されるためにとりなし、そして十字架の上であなたの身代わりとして神様に裁かれたことによって、あなたは救われたのです。我ために苦しみ、我ためにとりなされた イエス様に心から感謝して一週間を過ごそうではありませんか!

今日のお花はバラ、ユリ、ブルーベリー、カーネーション、アストロメリア、銀葉コデマリです。

2023年3月26日 主日礼拝メッセージ

「子どもたちを神の御前に!子どものように神の御前へ!」マルコの福音書 10:13-16

I. 子どもたちを神の御前に

律法の教師に祝福を祈ってもらうという当時の習慣から、人々が子どもたちを連れてイエス様のもとに集まって来ました。ところが、イエス様の弟子たちは彼らを叱り、止めさせたのです。忙しいイエス様を気遣ったのか、それとも単に子どもたちが騒ぐのを嫌ったのか、真意は分かりません。しかし、彼らの態度や反応から、当時の子どもたちが軽んじられていたことが分かります。すると、イエス様は弟子たちの対応に憤り、「子どもたちを来させなさい。神の国はこのような者たちのものである」と言って、子どもたちを引き寄せ、手を置いて祝福されました。イエス様がここで言われた神の国とは、この世の社会的立場や価値観に捉われない世界。まさに、誰にでも等しく与えられる祝福を求めてイエス様の許に集まっ て来たこの光景を指しているのです。私たちは子どもたちを神様の御前に連れて来るということを大切にしたいのです。子どもたちが安心して教会に来ることができる環境を整え、子どもたちを教会に送って下さるように神様に祈り求めるのです。彼らが神様の豊かな祝福に与る為に、神様の御言葉に養われて成長していく為に、そして、神様を心から礼拝する者となる為に、積極的に神様の御前に導こうではありませんか。

II. 子どものように神の御前へ

次に、イエス様は「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」と言われました。神の国とは、神様が支配しておられる天の御国のことですが、これは単に場所だけを指しているのではありません。神の国は神様の支配を意味し、その支配は私たちにも及びます。つまり、神様を信じる信仰によって、自分中心に生きる人生から、神様を中心に生きる人生(神様の御言葉と御心を土台に据える歩み)にシフトし、全生活に神様の介入を受け入れるということです。この神の国(支配)に入るためには「子どものように」ならなければなりません。では、「子どものようになる」とはどういうことでしょうか。それは、純真無垢(心に汚れたところや、やましいところが全然なくて清らかである)という意味ではありません。自分は弱く、無きに等しい存在であり、功績や誇るべきものがない存在であると認めることです。イエス様のもとに連れて来られた幼子たちは自分では何もすることのできないような子どもたちです。また、私たち大人のように、体裁や、人々の評価に流されず、自らを高くしようとも考えません。ですから、自分の無力さ至らなさを認め、ありのままの姿で(「私には神様が必要です」と心を開いて)神様に近付き、神様に人生の全ての領域に介入していただく(神様を信頼して全てを任せる)のです。そのように神様の支配に与った人(神様と共に生きる者とされた人)が、神の国(天の御国、天国)に入ることができるのです。

今日のお花はユリ、チドリソウ、グラジオラジオラス、アルストロメリアです。

2023年3月19日 主日礼拝メッセージ

「天の主人と共に喜ぶために」マタイ 25:14-30                    金田洋介 牧師

ある人が旅に出る際、3人の僕たちそれぞれの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出ました。すると5タラント預かった僕(しもべ)はすぐに行動に起こして商売をし、5タラント増やしました。2タラント預かった僕も同様に、2タラント増やしました。ところが、1タラント預かった僕は、その1タラントをそのまま土の中に埋めて隠してしまったのです。長い時が経ち、主人が帰って清算することになりました。5タラント、2タラントを増やした僕たちの報告を受けた主人は、二人に同じ言葉を持って褒め、共に喜びました(20〜23節)。一方、1タラントを預かった僕は、「主人が意地悪で厳しい人なので、恐ろしくなってタラントを土に隠していた」と告白し、預かった1タラントをそのまま主人に返します。主人はこの僕の言葉と行動に心を痛め、彼からタラントを取り上げて10タラント持っている者に与え、彼を外へと締め出しました。

この譬えが私たちに語っているいくつかの事に心を開きましょう。旅に出て帰って来た主人とは、十字架の死から復活し天に昇られたイエス様が再臨されることを指し、主人の帰りを待つ僕たちは、私たちを指しています。ですから、僕たちが主人からタラントを預かったように、私たちもこの地上の生涯において、それぞれの能力に応じて託されたタラントがあるということなのです。イエス様が再臨された時、この地上に戻られた時、全てを清算する時が来るのです。その時、天の主人であるイエス様に「良い忠実なしもべよ」と褒められ、イエス様と共に喜びに与るか、それとも、「悪い怠け者のしもべだ」と嘆かれ、外の暗闇に出されてしまうか、私たちは真剣にイエス様の言葉に耳を傾けなければなりません。

では、ここで語られているタラントとはどういう意味なのでしょうか。タラントは神様から与えられた能力であると共に、それらを活かすために与えられた機会(チャンス)であると言えるでしょう。それぞれの与えられた能力と機会を用いる時、天の主人であるイエス様(神様)は喜ばれるということなのです。次に、褒められた僕たちに注目しましょう。主人は彼らの何を喜ばれたのでしょうか。儲けた方法でしょうか。それとも、儲けた金額だったでしょうか。どちらも違います。そもそも、主人がタラントをそれぞれに預けた時、何も命じてはいません。「このように活用しなさい」とか、「増やしなさい」などと、一切言っていません。ですから、どのように用いようが、どのくらい成果をあげるかが重要なのではなく、いかに忠実であったか、という事なのです。僕たちは、タラントを託された主人に精一杯応答し、主人も彼らの忠実な姿勢を喜ばれたのです。神様は、私たちが神様に与えられた能力、賜物、機会(チャンス)にいかに忠実であったか、どのような思いでそれらを用いたかを見ておられるのです。いつか必ず、私たちは主の前に立ち、与えられたタラントを清算する時がきます。天の主人であるイエス様に「良き忠実なしもべよ」と呼ばれ、共に喜ぶことができる日を思い、日々を過ごしましょう。

今日のお花は、小手毬、ヤマブキ、ユリ、カーネーション、アルストロメリアです。

2023年3月12日 主日礼拝メッセージ

「ユダとマリア-心を映す行い-」ヨハネ 12:1-8 金田洋介 牧師

舞台のベタニアは福音書ではお馴染みのマルタ、マリア、ラザロの姉弟が住んでいた村で、マタイやマルコの福音書では、シモンという人の家での出来事だと記されています。人々がイエス様の為に食事の席を設けました。マルタはシモンの家で給仕し、弟のラザロは食卓に着いていました。一方、マリアは高価で純粋なナルドの香油をイエス様の足に塗り、自分の髪の毛で拭き始めました。彼女が用いた香油の価値は、当時のおよそ一年分の労働収入に相当する額でした。マリアは高価な香油を自分の為に用いるのではなく、全てイエス様のためにささげたのです。彼女の払った犠牲の大きさが、イエス様に対する愛と感謝の大きさを現わしています。まさに、マリアの心を映したささげものでした。

ところが、このマリアの行いを批判する者がいました。十二弟子の一人、イスカリオテのユダです。彼は「高価なこの香油を売れば、貧しい人たちに施せたのに何ともったいないことをしたのか。」と、マリアの行いを強く批判しました。しかし、彼の言葉は貧しい人に対する親切心からのものではありませんでした。ヨハネはユダの本性は貪りに満ちている人であり、彼が実際に盗人であったことを記しています。ユダはイエス様一行の財布を預かっていたことをいいことに、一部を自分の懐に入れていたのです。もしかしたら、自分が盗んだことによる不足を、香油を売ったお金で補填しようと考えていたのかもしれません。ユダの心にある貪りが、彼の盗みという行動とマリアへの強い批判の言動として現れたのです。

12:7-8イエスは言われた。「そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」
ここでイエス様がこう言われたのは、貧しい人たちを軽んじているのではありません。イエス様は、「いつでもできること」と「決められた時にしかできないこと(その機会を逃したら次がないということ)」を区別して言われたのです。まさに、マリアがイエス様にしたことは、十字架の苦難を目前に控えた今しかできないことであり、最も良い行いだったというです。マリアはイエス様の受難を理解していたのではなく、ただ純粋にイエス様を大切なお客様として迎えたかっただけかもしれません。理由が何であれ、マリアのイエス様に対する愛を動機とする行いが、これから十字架の死を通られるイエス様にとって最善の備えとなったのです。イエス様のためにしたことが単に喜ばれ、覚えられているだけでなく、当人の想像以上のこと、すなわち、神様の栄光の為に用いられるとは何という幸いでしょうか。

私たちにもささげるべき時があります。イエス様への愛が問われる時があります。その時、「いつか…」「そのうちに…」「私でなく他の誰かが…」と言って、躊躇してはいけません。どうか、「今」「この時」をしっかりとらえ、イエス様に喜んでおささげする者とならせていただきたいのです。私たちのために命まで献げて下さった主にお応えしましょう。

今日のお花はカーネーション、ユリ、トルコ桔梗です。

2023年3月5日 主日礼拝メッセージ

「癒された十人の病人」ルカ 17:11-19

イエス様がある村に入られると、十人のツァラアト患者(重い皮膚病人)に出会われまし た。十人は負っている病のために、イエス様に近付くことができません(レビ 13:45- 週報 46)。彼らは遠く離れたところから「イエス様、…わたしたちをあわれんでください」と叫びました。きっと「この機会を逃してなるものか」と、必死に呼び求めたと思われます。彼らの叫びにイエス様はどう答えられたのでしょうか。

14 節。驚いたことに、イエス様は「祭司たちに体を見せなさい」と言われただけでした。イエス様がこう言われたのは、ツァラアトが治癒したかどうか(きよめられたのか)を見 極める役割を祭司が担っていたからでした。律法に則って様々な過程を経、最終的に祭司に「きよい」と宣言された時、ツァラアト患者は元の生活に戻ることができました(レビ 14:1)。ところが、この時点で彼らの病気は治っていません。しかし、十人はイエス様の言 葉に従い、行動に起こします。すると、祭司の許に行く途中で彼らのツァラアトは癒された のです。そして、癒された十人の内の一人が、大声で神様をほめたたえながらイエス様のも とに帰り、ひれ伏して感謝しました。彼はサマリア人でした。

この十人の病人には、イエス様の言葉を信じて行動を起こすことができる信仰がありました。進行による行動の結果、彼らは皆癒されたのです。神様の御言葉を信じて行動した先に、神様の御業は起こるのです。私たちも今、祈っている途中であり、御言葉に取り組んでいる途中にあります。どれくらいの時間を経て神様の御業を体験できるかわかりません。時に、疲れて立ちどまってしまっても、止めてしまったとしても、あなたが神様を信じて行動に起こした瞬間から、神様の御業はすでに始まっているのです。そして、ふと気付くのです。すでに祈りが応えられていることに。御言葉の実が結んでいることに。信じて起こした行動が決して無駄でないことを、私たちはこの長い信仰生涯の中で知るのです。

信じ、起こした行動に神様は報いて下さいますが、その時、私たちに求められている応答があります。それは、感謝です。帰って来たサマリア人以外の九人も癒されましたが、神様への感謝を忘れてしまい(怠ったとも解釈できます)、ただサマリア人だけが、イエス様のもとにひれ伏して感謝したのです。サマリア人を嫌っていたユダヤ人はイエス様の言葉をどのような思いで聞いていたでしょうか。…私たちは、神様の御業を体験する事だけで終わってはいけません。全ての栄光を神様に帰し、心から感謝しなければならないのです。

そして、感謝と喜びの賛美を携えて神様の御前に出で、神様を礼拝する者でありたいのです。私たち一人一人を心から愛しておられる神様は、日々、私たちの叫びを聞いておられるだけで なく、最善に応答して下さるお方です。信じて祈り求め、信じて御言葉に従い、感謝と賛美 をもって神様の御前に出る。そんな一週間の歩みとなりますように祈ります。

今日のお花はユリ、トルコ桔梗、梅、霞草です。

2023年2月26日 主日礼拝メッセージ

「もしかすると、この時のため」エステル 記 4:1-17 金田ゆり牧師

エステル記は、ペルシアに残留していたユダヤ人たちの物語です(BC483~)。エステル記 には神、祈り、という言葉が出て来ません。私たちの社会に神と言う言葉が出てこなくても、認めなくても、神は確かに働かれ、ご計画を実現されることを教えているのです。エス テルはユダヤ人であることを隠して王妃となりましたが、ハマンの悪だくみにより、エステ ルの養父モルデカイとユダヤ人が根絶やしになる法令が出されました。
1 泣き叫ぶユダヤ人、王の門まで走るモルデカイ 1~3 節
首都スサは大混乱に陥り、ユダヤ人たちは泣き叫び、灰をかぶり、粗布をまといました。 モルデカイは、自分がハマンに屈しないことでユダヤ人が虐殺されることを知り、絶叫しな がら王の門の前まで走りました。モルデカイは、神の前で、傲慢なハマンには決して屈しな いと心に決めていたに違いありません。悪に屈せず神の前で正しい行いをしたとき、時に危 機が訪れることがあります。ユダヤ人の滅亡はもはや確実と思われましたが、モルデカイは 望みを捨てませんでした。
2 エステルの葛藤 4~11 節
モルデカイとエステルの緊迫したやり取りが伝わってきます。モルデカイは、王に法令撤 回の懇願をするようエステルに命じます。しかし、王に呼び出されないのに王のもとに行く 者は誰でも処刑されるという法令がありました。王が金の笏を伸ばせば許されるのですが、 エステルは葛藤します。普通は諦めるしかない状況です。これはもうだめだ、祈ってもだめ だ、仕方ないんだと思える状況。私たちに諦めさせ、神に向かわせなくする信仰の危機とい うものがあるのです。
3 もしかすると、この時のため 12~17 節
モルデカイは、神を信頼する者として、エステルの養父として、渾身の力を振り絞った信 仰の言葉をぶつけます。神のご計画の実現の為に、立ち上がらなければならない時があるの だと。あなたが王妃になったのは、このような時の為ではないのか!モルデカイは、神の御 心とご計画が行われることを決して諦めないのです。エステルは、モルデカイの信仰を受け 止め、自分も神の御心の為に諦めないと決心し、死を覚悟して王のところに行きます。結 果、王に許され、ハマンの悪だくみは暴かれ、ユダヤ人は平和を取り戻したのでした。神は ご計画の為にあなたを用いられます。私がここにいるのは、神様、この時のためなのです か?そうです。その為です。神のご計画の実現の為に、あなたが必要です。示されることが あったら、神の前で立ち上がってほしいのです。小さなことから大きなことまで、神はあな たを用いられます。あなたは想像以上の神のご計画を見ることになるでしょう!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、野いちご、グロリオサ、カラー、カスミソウです。