説教要旨」カテゴリーアーカイブ

2021年10月3日 主日礼拝メッセージ

「ヤコブの格闘~私はあなたを去らせません~」創世記32章21~32節 

 

①ヤコブの帰郷

故郷から離れて20年の歳月が流れました。伯父のラバンの元に無一文でやって来たヤコブも、今や4人の妻、11人の息子たちを持ち、多くの家畜を持つようになりました。ある時、神様はカナンの地においてヤコブを祝福するとの約束を実現するため、故郷に帰るよう命じます(31章3節)。ところがヤコブには大きな悩みがありました。それは兄エサウとの確執です。20年経った今も、この問題は解決されていなかったのです。

②ヤコブの恐れ

ヤコブは自分だけでなく、家族までも殺されてしまうのでは?と恐れていました。さらにエサウが400人も連れて来ていることを知ります(6~8節)。ヤコブは宿営を2つに分けて被害を最小限に抑えようと試み、そして、神様の助けを祈ります。しかし、それでも不安が解消されないヤコブは、エサウへの贈り物を大量に用意して兄をなだめる作戦を立てます。

③ヤコブの格闘

いよいよ、兄との再会の時が迫ってきました。ヤコブは家族と所有物を先に行かせ、自分一人で残って静まります。するとその夜、ヤコブは神様と一晩中、格闘します。格闘の末、神様はヤコブに「あなたの勝ちだ」と言われました。これは、私たちが考える勝ち負けとは意味が違います。そして、この格闘は、「神様に祈る」ということが、どういうことなのか、私たちに教えているのです。

④神様との人格的交わり

神様はヤコブに「あなたは神と、人と戦って、勝った」と言われましたが、何が彼にとっての勝利なのでしょうか。ヤコブは神様が去ろうとした時、「私を祝福してください。」と求めました。これは神様の祝福の回復を求めているのです。ヤコブの自己中心な生き方が兄との諍いを生み、神様のご計画をも妨げる結果となったことを、彼は神様との格闘を通して気付かされたのでした。ヤコブはこの格闘(神様との人格的な交わり)を経て変えられました。つまり、自分の事しか考えず、ただ恐れているだけの弱さを乗り越えたのです。ここでの勝利とは、神様と格闘を通して、ヤコブが自己中心の自分、罪深い自分に勝利したということなのです。

彼の姿から、神様との人格的な祈りの型を見ることができます。私たちは、祈りを通して神様と人格的な交わりができるのです。それは単に願いを求め、その結果だけを重要視するような浅い交わりではありません。神様と私たちが祈りで人格的な交わり(格闘)をすることによって、本当の自分が取り扱われ、整えられて行くのです。祈りの結果も大切ですが、そこに至るまでのプロセスが大切なのです。ヤコブと格闘された神様は、あなたと人格的な交わり(格闘)をしたいと願っておられます。神様に心を開き、ありのままの自分をぶつけてみませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。今週のお花は、クジャクソウ、アルストロメリア、ユリ、トルコキキョウです。

2021年9月26日 主日礼拝メッセージ

「天と地をつなぐ梯子」創世記28章10~22節 金田洋介師 

 

今週から再び創世記に戻ります。アブラハムからイサクへと受け継がれた神の祝福は、ヤコブへと引き継がれます。2週に渡ってヤコブにスポットを当てます。

Ⅰ.ヤコブの状況~人生のどん底にいたヤコブ~

まずヤコブのこの時の状況を確認しましょう。彼はまさに人生のどん底にいました。何故そのような状況に追いやられたのでしょうか。2つの理由があります。1つ目は、兄エサウの長子の権利を巧妙に奪い取ったことです(25:29-33)。彼は双子で、エサウという兄がいました。ある日、ヤコブが煮物を作っていると、丁度、エサウが狩りから帰って来ました。彼がヤコブの煮物を欲しがると、ヤコブは煮物と引き換えにエサウの長子の権利(父の遺産の2倍を受ける権利)を求めます。エサウは空腹のあまり、その権利を簡単に譲ってしまいました。2つ目は、父イサクをだまして兄エサウが受けるはずの祝福をヤコブが奪い取ったという事件です(27:1~)。これは父イサクと母リベカも絡む、イサク一家に起こった痛みの多い出来事でした。一度ならず二度も押しのけられたエサウは、ヤコブを殺害することを心に決めます。そんな兄の心を知ったヤコブは、叔父ラバンのもとに逃げることになりました。財産どころか何一つ持たす、独りぼっちのヤコブ。彼は野宿をし、石を枕にして寝ました。自分で招いたこととはいえ惨めな姿です。

Ⅱ.ヤコブの見た夢~天と地をつなぐ梯子~ 28:12-15

その夜、ヤコブは不思議な夢を見ました。それは、梯子が地から天に向かって立っていて、神の使い達がその梯子を伝って上り下りしているという夢です。さらに驚いたことに、神様ご自身が下りて来られ、落ち込むヤコブに近付き、アブラハム、イサクと同じ祝福の言葉を与えて下さったのです(13-15)。今ヤコブが置かれている状況は、彼自身が招いた結果です。神様の時と方法を待ちきれず、自分勝手な考えで行動したことによって窮地に追いやられました。まさに自業自得です。ところが神様は、彼を見捨てるどころか、神様ご自身が約束されたことを全うするというのです。夢から覚めたヤコブは、アブラハム、イサクの神様を、自分の神様として礼拝しました。神様を畏れ敬う者に変わったのです。

天と地をつなぐ梯子を下りて、ヤコブに現れて下さった神様は、人間イエスとなって私たちのところに来て下さいました。そればかりか、さらに深い黄泉にまで降り、私たちの罪を贖って下さったのです。神様のおられる天と、私たちのいる地は、このイエス様によってつながれています。私たちはいつでも神様に近付くことができ、神様の方からも近付いて下さいます。この身に余る恵みに感謝しつつ、日常生活の中で神様の御力を体験させていただきましょう。「私のために地上に降り、黄泉にまで降られた神様、私の日常生活の中にご自身を現わし、素晴らしいことを行って下さい。」と積極的に祈るのです。必ず、神様はご自身を現わして下さいます。信じ求めてこの一週間を過ごしましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、カーネーション、リンドウ、トルコキキョウ、紫陽花です。

2021年9月19日 敬老祝福礼拝式メッセージ

日々新たにされる幸い~外なる人は衰えても~」Ⅱコリント4章16~18節 

 

「落胆させられるようなことがあっても落胆しない。たとえ、外なる人が衰えても、内なる人が日々新たにされる」と告白するパウロに注目しましょう。

①落胆させられるようなことに直面してきたパウロ

パウロは伝道者生涯の中で、あらゆる肉体的苦痛、精神的苦痛を経験してきました。また、生来の弱さや持病もあったと思います。彼は自分自身も含め、私たち人間の身体を「土の器」、「外なる人」と呼び、脆く壊れやすい肉体、老いや衰え、弱さや脆さを表現しています。これは彼が経験した迫害や挫折が背景にあります。私たちも老いや健康に不安を覚えることがありますし、悩みや弱さを経験します。しかしパウロは、イエスを信じ、聖霊様と共に生きる私たちは「落胆しない」と言っています。

②衰え、弱っても落胆しない理由

パウロは、私たち土の器の中に「宝」が入っていると言います。宝とはイエス・キリストの豊かな福音(恵み、素晴らしく、驚くべきこと)。この豊かな福音(恵み)は、私たちの内に罪の赦し、永遠の命、神の愛、御霊の実となってもたらされたのです。これは「神からの測り知れない力」によるもので、私たち自身の力ではありません。肉体的、精神的な苦痛を味わい、そして外なる人(肉体)も老いて弱さを実感したパウロでしたが、イエスによってもたらされた、この数々の恵みと神ご自身の力によって、その伝道者生涯を力強く全うしたのです。

③イエスとの交わりによって日々新たにされる幸い

悩みと憂いは尽きず、外なる人は土の器のようにボロボロになって行くかもしれません。しかし、「私たちは決して落胆しません。なぜなら、内なる人は日々新たにされているからだ」とパウロは言います。私たちはイエス様を信じたことによって、新しい命が与えられます。それは、イエス様と共に生きる命(人生、日々)です。つまり、日々イエス様と交わる(祈り、御言葉を聞く)ことによって、私たちの信仰が、命が、日々フレッシュにされるということです。これはイエス様を信じた者の特権です。

私たちの人生を根底から揺るがすような試練はやってきます。肉体的、精神的苦痛、外なる人の衰えを経験します。それこそ、信仰が揺さぶられるような試練かもしれません。しかし、外なる人が衰えても、日々新たにされる幸いが私たちにはあるのです。私たちのうちにある宝が、恵みが、私たちに力をもたらしてくれるのです。この素晴らしい恵みを与えて下さった神様と共に歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヤマテラシ、ユリ、ヒマワリ、菊、アルストロメリアです。

2021年9月12日 主日礼拝メッセージ

イサクの生涯から学ぶ教訓」創世記26章12~22節 金田洋介牧師

 

26章の出来事は、イサクの人となりがよくわかる箇所です。彼が直面する出来事、それに対する彼の行動から、神様が何を教えようとしておられるのか学びましょう。

①イサクが経験した困難と失敗から学ぶ

イサクの時代も、厳しい飢饉がありました。しかし神様は、イサクに今いる地にとどまらせなさいました。今いる地も含めたカナンの地全体を与えると約束されていたからです。苦しくても、わたしの祝福の約束を信じなさいと、飢饉という困難を通してイサクの信仰を訓練されたのです。ところが、イサクはここで失敗をします。自分の命を守るため、妻リベカを妹だと偽ったのです。しかし神様は、どこまでもご自身の言葉と存在を掛けて真実を尽くし、失望せず諦めず、忍耐をもって向き合い続けられます。私たちが困難に直面するとき、私たちの本性、本質が浮き彫りになります。罪深い自らの性質、本質に失望するかもしれません。しかし、主イエス様の流された血が、私たちをきよめてくださいます(Ⅰヨハネ1章7節、イザヤ1章18節)。

②神に祝福されるイサク、民に妬まれるイサクから学ぶこと

失敗をしたイサクでしたが、その地にとどまりなさいという神様のみ言葉に従いました。神様は彼を、大収穫に導かれました。彼は神様のお力を見ました。物質的な祝福よりも、神様が共におられ、みわざを体験できたことが、何にも勝る祝福でした。しかし、豊かになったことで、イサクはその地域のペリシテ人に妬まれました。井戸は塞がれ、せっかくの安住の地を失ってしまうのです。神様を体験しつつも、思いがけない困難に襲われることがあります。しかし、イサクは争うことなく、黙って退きます。彼が父アブラハムから受けた遺産は、神様の約束を信じてみ言葉に立つ信仰でした。神様の約束への信頼が、彼に寛容と忍耐、柔和、目に見えるものではなく、目に見えないお方を信頼する生き方をもたらしたのです。ついに、三つ目に掘った井戸は、平和のうちに所有することができました。

私たちの約束の地は、今、あなたが置かれている全ての場所と言えます。困難や試練に直面した時、何よりもまず、神様の御声を聞きましょう。神様がすべてを知り、約束のみ言葉を下さっていると信じて、どこまでも神様を信頼する者となれますように。イサクの生涯から学んだことが、あなたの生涯にも活かされ、神様を体験できますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、ユリ、リンドウ、カーネーション、ガーベラです。

2021年9月5日 主日礼拝メッセージ

「イサクの結婚~神様の取り計らいを信じて~」創世記24章1~27節

 

副題の「取り計らい」とは「物事が上手くいくように取り扱うこと」です。イサクとリベカの結婚の背後に、神様の取り計らいを信じた人々の信仰があったのです。

Ⅰ.神様の取り計らいを信じて~僕を遣わすアブラハム~

アブラハムはイサクの結婚相手を探すために僕を遣わすにあたり、二つの条件を課しました。それは、アブラハムの親族であることと、イサクのいるカナンの地に移り住むということでした。これはイサクをはじめ、彼の子も孫もみな、真の神様を礼拝し続けるため、神様の約束の地を受け継いで行くためです。アブラハムは、自分を導き出された神様の取り計らいがあることを僕に告げ、彼を遣わしました。

Ⅱ.神様の取り計らいを信じて~祈り求める僕~

僕は無事に目的の土地へと到着しました。しかし、広い土地、大勢の中から、アブラハムの親族を探し出し、その中からイサクの妻となる女性を見つけ、尚且つ、カナンの地に移住してくれる人でなければなりません。すると僕は、神様の取り計らいを祈り求めます(12節)。それは自分の任務達成の為ではなく、神様のご計画の実現(アブラハム、イサクの子孫が増え広がること)と、アブラハムが神の恵みに与る為に求めたのです。そして、イサクの妻として相応しい、思いやりと献身的な愛を持つ女性を見極めることができるように具体的に祈り求めると(14節)、神様はリベカを導かれました。なんと、彼女はアブラハムの兄弟の孫にあたる親族でした。それを知った僕は、直ちに神様を礼拝し、取り計らって下さった神様をほめたたえたのです。

Ⅲ.神様の取り計らいを信じて~神様の導きを信じ受け入れる家族、従うリベカ~

 僕からその一部始終を聞いたリベカの兄ラバンと父ベトエルは、全てが神様のご計画と導きであると信じ受け入れ、リベカの結婚を承諾しました(50-51節)。一方、リベカも神様の御心に従うことを決断し、別れを惜しむ家族を離れ、イサクの許へと旅立ちました(58節)。

神様の良き取り計らいと信仰者たちの姿を見ました。偶然に物事が好転したのではなく、神様の取り計らいを信じる信仰のチャレンジを乗り越えたことによって、神様の御業を体験したのです。クリスチャン生涯は、神様の取り計らいを信じて歩み続けるチャレンジの連続です。時には、とんとん拍子で道が開かれることもあるでしょう。その一方で、物事がうまく進んで行かず忍耐を試されることや、試練によって傷つき倒れること、神様の御心が分からず苦しむこともあると思います。けれども、最後には「主はこの私を導いて下さいました」と感謝する未来が待っています。「信じるなら神の栄光を見る。(ヨハネ11章40節)」のです!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、リンドウ、ケイトウ、オミナエシ、パンパスグラスです。

 

2021年8月29日 主日礼拝メッセージ

「あなたのためのしるし」出エジプト記3章1~12節 金田ゆり牧師

 

ミディアンの地に移り住み、羊飼いになり40年。神様が出エジプトのご計画を実行される為に、最後に残されていた最大の備えは、80歳になったモーセの召命でした。

  • 日常に現れてくださる神に応答する 1~4節

モーセは、いつものように羊の群れを連れ、水と草を求めて神の山ホレブまで来ました。いつもの日常が過ぎようとしていた時、神様は燃える柴の中から、モーセにご自身を現わされました。神様は、ご自身を現わされるときは私たちにわかるように現われてくださいます。それは、「モーセ、モーセ」と親しく二度読んでくださったように、あなたの名を呼ばれている時なのです。あなたは、「はい、ここにおります」と神様に返事をしたことがありますか。日常の中で、神様に気づき、名前を呼ばれていることに気づき、ここにおりますと返事をすることは、あなたがご計画の中で用いられる一歩なのです。

  • 主の前に自らを聖別する 5~6節

モーセはこれまで、神様に直接御声を掛けられたことがありませんでした。目の前に神様がおられることに気づかず、御顔を横切って柴を見に来たモーセを、神様は呼び止められました。そして、神様はここで、モーセを神の御用の為に聖別したのです。私たちは、家庭、学校、職場、そしてこの社会に、神の御用の為に遣わされています。私たちは日々、アブラハム、イサク、ヤコブの神の前に聖別される時を持ちたいものです。どんなに忙しい朝も一言、主の前に出て祈り、自らを聖別されて遣わされたい。どこに行くにも、神様に召されたものとして歩ませていただきたいのです。主の御用を全うするために、重要なことです。

  • あなたのためのしるし 7~12節

神様はイスラエルの苦しみを見、叫びを聞かれました。ついに、アブラハムに約束されたカナンの地に、イスラエルを導くと言われました。その為にモーセを召し出されたのですが、モーセにとってはこの召しは重くのしかかるトラウマのようなものでした。40年前の失敗が思い出されていたことでしょう。しかし、モーセが「はい」と言わなければ計画は進みません。神様は、モーセの心をご存じでした。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである」と、最高の最大のお約束を下さったのでした。私たちが神様の召しを全うできるかどうかは、神様が共におられるかどうかが全てです。わたしはあなたとともにいる。このお約束こそ神様のしるしと信じ、神様の御用に用いてくださいと言えたなら、あなたに用意されている神様のご計画が動き出すのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、リンドウ、ユリ、グラジオラスです。

 

2021年8月22日 主日礼拝メッセージ

水面下で進む神の備え」出エジプト記2章11~25節 金田ゆり牧師

 

ファラオの娘の子として育てられたモーセ。40歳の時、同胞イスラエルを顧みて、彼らを救おうとしましたが、うまく事は運びませんでした。出エジプトのご計画の実行されるまでに、彼自身が整えられるという神の備えが完了していなかったのです。

  • 自らの無力を知ったモーセ 11-15節

イスラエルの苦役を見たモーセ。一人のエジプト人が一人のイスラエル人を虐待しているのを見て、そのエジプト人を殺してしまいます。彼は、この時点で、神は自分を通してイスラエルを救うのだと自覚していますが、自分に与えられた地位や知恵を用いて救おうとしました。自分自身が主導でした。しかしその結果、同胞から認められず、ファラオから追われる身になり、異国ミディアンまで逃げることになります。モーセは、初めて自らの無力を知りました。神の前に身を低くし遜る。自らの無力を知ることこそ、神が彼に求められた備えだったのです。

  • 神の民としての自覚を取り戻したモーセ 16ー22節、へブル11:24―25

モーセがミディアンの井戸の傍らに座っていた時、ミディアンの祭司の娘たちが羊の群れのための水を汲んでいました。そこに意地悪な羊飼いたちが来て、彼女たちを追い払いましたが、モーセが彼女たちを助けました。彼女たちの父親はモーセを呼び寄せます。モーセは「心を決めて」ミディアンに住み、結婚しました。神はここで、これまでのモーセの地位を完全に捨てさせました。彼は、この時、神の民イスラエルの自覚を取り戻したのです。この一連の出来事は、モーセにとって惨めで散々なものでした。しかし、彼は不必要なものを捨て去り、神の民としての自覚を取り戻し、神のものとされたのでした。モーセが真に用いられるための、備えでした。

  • 神はご計画を必ず実行される 23―25節

その後モーセは、羊飼いとして40年の歳月を過ごすことになります。40年となると人間的には諦めたくなるものですが、神が水面下で備えさせ、そのまま、ということは決してないのです。備えさせるのは、ご計画あってのことなのですから。アブラハムとの契約から、実に400年が経とうとしていましたが、これほどの年月が経とうとも、神がみ言葉の約束を忘れられることはありませんでした。神は、そのご計画の備えとして、あなたを整えられます。その期間は、必ずしも喜ばしい期間ではないかもしれません。しかし、その時は主の前に遜り、無力を知る時です。不必要なものを取り除かれ全く主のものとされる時です。水面下での神の備えの期間が満ちた時、あなたが用いられる時が必ずやってくるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、バラ、トルコキキョウ、ドラセナです。

 

2021年8月15日 主日礼拝メッセージ

「試み練られたアブラハム」創世記22章1~18節 金田洋介牧師

ある日、神はアブラハムにイサクを全焼のささげものとして献げなさいと命じます。これは試練であったとありますが(1節)、彼はどのように応答したのでしょうか。

Ⅰ.どこまでも従順な者に
 神に命じられたアブラハムはすぐに出発します。彼の御言葉に対する従順さが伺えます。これまでアブラハムは、自分の弱さと共に神の真実を体験し、神と人格的な交わりを通して学んできました。だからこそ、神のご命令に従えたのでしょう。私たちは、神の御言葉に従えない自分を嫌というほど実感する事があります。しかし、今は従えない自分が居たとしても、試み練られ、多くの経験を経てた先に、アブラハムのような従順な者に変えられて行くのです。

Ⅱ.どこまでも神を信じる者に 

アブラハムはイサクを縛り、祭壇の上に載せました。イサクが抵抗している様子はありません。彼もまた従順でした。そして、アブラハムがイサクを屠ろうとした時、間一髪で御使いが止めました。アブラハムが神を畏れ敬う者として認められたのです。アブラハムは、神が用意して下さった雄羊をイサクの代わりにささげます。そして、彼はその場所を「アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)」と呼びました。
ヘブル書の作者は、「彼は神には死者を甦らせることが出来ると信じていた。」と語っています。神の祝福の約束はイサクなしに成就しません。つまりアブラハムは、約束を与えて下さった神ご自身が、どんな形でも必ず成就して下さると信じたのです。その結果、もう確実に死んだようなイサクを取り戻し、神の祝福の約束を確かなものとして受け取ったのです。他でもなく彼が神の御声に聞き従ったからです。

神は私たちにも試練をお与えになりますが、何のために試み、練られるのかは明確です。私たちが「神の前にどこまでも従順な者、どこまでも神を信じる者」になる為です。その為に多くの試練を通らなければなりませんし、時に「何で?」と思うような事もあるでしょう。しかし、アブラハムを止めてイサクを救われた神は、ひとり子イエスが十字架で裁くことを止めませんでした。ひとり子イエスを議性にしてまで、あなたを愛し、救って下さったほどのお方が、意味なく苦しい試練に合わせるでしょうか。その試練の先に、アドナイ・イルエの神を体験する未来が待っているのです。どこまでも従順で、どこまでも神を信じるキリスト者に整えていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、トルコキキョウ、カーネーション、モンステラです。

2021年8月8日 主日礼拝メッセージ

「あなたの声を聞かれる神」創世記21章1~21節 金田洋介牧師

 

本日の箇所で待望のイサクが誕生します。本当に長い道のりでした。アブラハム夫妻に大きな喜びが訪れましたが、『喜び』と共に『怒り』、そして『哀しみ』もこの箇所には記されています。アブラハム家に起こった『喜』『怒』『哀』を見ましょう。

『喜』イサクの誕生

「神は私に笑いを下さいました。」(6節)イサクの名前の意味は「笑い」です。神はサラにイサクを与えて下さいました。その名のとおり、神は彼女に笑いを下さったのです。サラは心から喜び、笑うことができました。この日に至るまで、どれ程涙を流し、どれ程祈り求めたことでしょう。彼女の涙と祈りに神は報いて下さったのです。そればかりか、イサクを通して神の素晴らしいご計画の一部にサラも関わることができたことも、彼女にとって大きな喜びだったと思います。

『怒』サラの怒りと憂い

アブラハムはイサクの乳離れを祝い宴会を催しました。喜ばしい席でそれは起こりました。イシュマエルがイサクをからかっている場面をサラが目撃したのです。兄弟同士とはいえ、サラは黙っていられず、怒りをアブラハムにぶつけますが、彼女の言葉の中に心配事が伺えます(10節)。それは、将来イシュマエルがイサクを押しのけて長子の権利を主張しないかという恐れでした。アブラハムは苦悩しましたが、神の仰せのとおり(12~13節)、イシュマエルとハガルを家から退けたのです。

『哀』ハガルの悲しみ、イシュマエルの叫び

心の準備もする間もなく、ハガルとイシュマエルは追い出されてしまいました。二人は行くあてもなく荒野を彷徨い、パンも水も尽き、空腹と渇きで動けなくなってしまいました。ハガルの心は折れ、絶望と悲しみのあまり声を上げて泣きました(16節)。すると、神の使いが彼女に声をかけます。神がイシュマエルの声を聞かれたというのです。諦めてただ泣くだけの母の為に、イシュマエルは祈っていたのです。神は彼らの命を救い、すでに約束されていたように彼らを祝福されたのでした。

神はあなたの声(祈り)を聞いて下さるお方です。あなたが神に向かってあげる声は、喜びを求める声もあれば、感情のままに訴える声もありますし、哀しみに打ちひしがれた声かもしれません。神があなたの声にどのように応えて下さるか分かりませんが、神の御名を崇める結末が待っていると信じ期待し、求めようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ケイトウ、リンドウ、トルコキキョウ、ユリ、パンパグラスです。

2021年8月1日 主日礼拝メッセージ

「何度も、何度でも~破れを繕う神~」創世記20章1~18節 金田洋介牧師

 

ゲラルへと移住したアブラハムは、真の神を信じないこの地域の人々を恐れ、妻のサラを自分の妹として紹介します。ゲラルの王アビメレクは、サラがアブラハムの妹だと聞き、彼女を王宮へ召し入れました。ところがその夜、神はアビメレクに「今日、召し入れたサラのゆえに、あなたは死ぬ」と告げます。サラがアブラハムの妻だからです。アビメレクは「サラもアブラハムを兄と言っていた」と、身の潔白を神に訴えます。しかし神は、サラをアブラハムのもとに帰さなければ、王も王の関係者もみな死ぬとうのです。アビメレクがアブラハムに問いただすと、サラは異母兄妹で、完全な嘘ではないと弁解します。騙された上に、とばっちりで自分の命を失うところだったアビメレクでしたが、寛容な態度と行動をアブラハムとサラに現します(14-16節)。そして、アブラハムが王の為に祈ると、アビメレクの妻と女奴隷たちの不妊が癒され、また子どもを産むようになりました(17-18節)。

今回のゲラルでの出来事は、かつてエジプトで起こった出来事とよく似ています(12章)。アブラハムはゲラルでも多くの人を巻き込みます。妻のサラも嫌な思いをしたでしょうし、また、神のご計画を妨げるところでした。信仰的にも人間的にも成長したはずのアブラハムは、ゲラルの地で同じ失敗をしてしまったのでした。常に誠実を尽くして下さった神に対し、愚かな過ちを犯したアブラハム。これでは神との関係も終わってしまったのではないかと思ってしまいます。しかし、憐み深い神はゲラルの王との関係、妻サラとの関係、そして神との関係を繕って下さったのです。

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」ローマ4章3節
彼の信仰は素晴らしいですが、彼の行動や判断が全て正しかったわけではありません。行いだけを見るならば、とても正しい人とは言えません。神を信頼せず、人を恐れ、神の方法に逆らい、自分勝手な判断と行動で失敗してきました。しかし、そんな彼を神は何度も助け、導いて下さったのです。アブラハムは失敗も多かったですが、それ以上に神の憐れみを信じ、求め続けたのです。彼は行いによって神の前に義と認められたのではなく、神を信じることによって義と認められたのです。失敗の多いアブラハムを何度も、何度でも赦して下さった神、破れを繕って下さった神は、私たちの神です。ひとり子イエスを十字架に死なせてまで愛し、救って下さいました。失敗の多い私たちですが、神の憐みを信じ、イエスの十字架を仰ぎ続けましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、リンドウ、ユリ、アルストロメリアです。