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神様の備えられた捕囚の道

そこでゲダルヤは彼らとその部下たちに誓って、彼らに言った。「カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる。」
II列王記25:24

列王記も最後の章となりました。南ユダ王国には、ヒゼキヤやヨシヤなど、神様に従って歩んだ王たちもいましたが、多くの王は、神様に従って歩みませんでした。特に列王記の最後ではマナセ王について触れています。マナセ王は北イスラエルで盛んに行われていた異教の神々への信仰を南ユダ王国で始めます。また多くのユダの民の血を流したと聖書に記されています。神様はマナセの行いを見て、南ユダも滅ぼすことを決意されます。

南ユダではヨシヤ王の後、バビロンの侵攻を受けるようになり、バビロンの王によって、南ユダの王が立てられるという事が何度か起きます。いわゆる傀儡政権です。南ユダの最後の王ゼデキヤもバビロンによって指名された王でした。列王記では詳しいことは記されていませんが、エレミヤ37-39章、52章などにはゼデキヤ王がバビロンに反逆してエジプトに助けを求めようとしたことが記されています。これが決定的となりバビロンの王ネブカデネザルはエルサレムを破壊します。

しかし神様は、南ユダを完全に滅ぼしてしまうようなことはしませんでした。ゼデキヤの前の王であるエホヤキンはバビロンに捕らえられましたが、バビロンの王の好意を受けてバビロンで不自由なく生活したことが列王記の終わりに記されています。またバビロンの王は、ユダの人々を捕囚の民としてバビロンに連れ去ったことが記されています。神様はユダの人々を滅ぼしつくすことが目的だったのではなく、エルサレムを離れさせ、異国の地バビロンで神様の民を立て直すことが目的でした。ユダの人々からすれば辛い日々が始まることになるのですが、その辛い経験がユダの人々にもう一度神様に立ち返る機会となったのです。

列王記の最後にはゲダルヤという人物が登場しています。この時、ゲダルヤは預言者エレミヤと共に、エルサレムに残って住んでいました。バビロンの王がゲダルヤを総督として任命したのです。それは一部残されたユダの民からしっかりと税を取り立てるためでした。ゲダルヤはこう言い残しています。「カルデヤ人の家来たちを恐れてはならない。この国に住んで、バビロンの王に仕えなさい。そうすれば、あなたがたはしあわせになる(25:24)。」これこそ神様からのメッセージでした。南ユダの人々の神様に対する反逆は、もはや決定的でした。神様はエルサレムに留まり続けることをお許しになりませんでした。しかし神様はバビロンでの生活を保障されています。苦しい期間ではありますが、バビロンで必ず生き延びることができ、またエルサレムに帰ってくることができることを保障しています。だから今は、バビロンの王に仕えることが神様からのメッセージでした。

Iコリント10:13に「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」とあります。バビロン捕囚という苦しい経験の内にも、神様はちゃんと道を残してくださっていました。私たちの辛い経験の内にも、神様がちゃんと道を備えて下さっていることを期待して祈りたいと思います。

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主は力、主は助け

イスラエルの王ヤロブアムの第二十七年に、ユダの王アマツヤの子アザルヤが王となった。彼は十六歳で王となり、エルサレムで五十二年間、王であった。彼の母の名はエコルヤといい、エルサレムの出であった。彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。ただし、高き所は取り除かなかった。民はなおも、その高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりしていた。主が王を打たれたので、彼は死ぬ日までツァラアトに冒された者となり、隔ての家に住んだ。王の子ヨタムが宮殿を管理し、この国の人々をさばいていた。
II列王記15:1-5

II列王記の中盤まで来ました。北イスラエルの王の入れ替わりはいよいよ激しくなり、国の終焉が近づいています。ゼカリヤ(6か月。15:8)、シャルム(1か月。15:13)、メナヘム(10年。15:16)、ペカフヤ(2年。15:23)、ペカ(20年。15:27)と5人の北イスラエルの王の名前が並びます。この5人はの王様は、南ユダでアザルヤ(ウジヤ)が王だった期間に、入れ替わった王たちです。北イスラエルはペカに続くホセア(15:30、17章~)の時代にアッシリヤによって滅ぼされてしまいます。II列王記17章では、北イスラエルがアッシリヤに滅ぼされてしまう出来事と、どうしてそうなったのか、理由が記されています。考古学的、科学的にみると、アッシリヤは大国で、北イスラエルは小国です。武力的にも経済的にも圧倒的な差がありました。また北イスラエルを含むパレスチナを巡るアッシリヤとエジプトの利権争いの結果、北イスラエルが滅ぼされたとみることができます。しかし聖書が語る理由は、北イスラエルが神様の道に歩まなかったからというごく単純なものでした。聖書はどんな小国であったとしても、神様の力、神様の助けがあれば、大国に脅かされる事は無いことを教えています。なぜなら聖書に言わせれば、大国が世界を治めるのではなく、神様が世界を治めているからです。

北イスラエルが滅びに向かう時代、南ユダではアザルヤ(ウジヤ)が王となりました。アザルヤという名前は「主は助ける」という意味であり、ウジヤは「主は力」という意味だそうです。列王記ではアザルヤという名前が多く用いられていますが、他の書物ではウジヤと書かれていることが多いです。ウジヤの人生の前半は、神様にしっかりと従い、国も安定しました。ウジヤの治世は52年であり、マナセに次いで2番目に長い治世となりました。しかし後半は神様に背いてしまい、神様に打たれてツァラアトを患い、王宮から出て隔離されてすむようになります(15:5)。列王記には詳しい出来事が書かれていませんが、II歴代26章にウジヤの治世の詳細が書かれています。ウジヤはユダの町々を再建し、軍隊を再編します。それは神様がウジヤを助けて、力を与えたからであると聖書ははっきりと語っています(II列王26:7、15参照)。ウジヤは祭司ゼカリヤが存命中は、神様を恐れ、神様を求めていました(II列王26:5)。しかし国が強固になってくると、ウジヤの心は高ぶり、神様の前に不審の罪を犯したことが書かれています。

ウジヤは神殿の聖所に入り、香をたこうとしました。イスラエルの神殿の聖所は、祭司だけが入ることを許されている場所です。王であっても、聖所に入ることはできません。しかしウジヤは祭司の制止も振り払い勝手に香をたこうとしました。なぜウジヤがここまで自分で香をたくことにこだわったのか、詳しいことは分かりません。しかしウジヤが神様を恐れなかったことは確かです。知らなかったのではなく、知っていてなお、神様の教えを踏みにじったのです。ウジヤは神殿の聖所の中で神様に打たれて、ツァラアトに冒されます。ウジヤのツァラアトは死ぬまで治りませんでした。ツァラアトは伝染する病気なので、冒された人は他の人から隔離されます。ウジヤは二度と王宮に戻れませんでした。

このことを通して、神様はイスラエルの国で生きて働いている王は神様ご自身であることを明らかにしておられます。他の国では人間の王が、神々の力を使役して、国を治めました。しかしイスラエルでは神様がまことの王です。人間の王は神様の力を使役することは決してできません。人間の王が、他の国々と同じように、神様との関係を間違えて捉えるとウジヤのような事件が起こります。それがあまりにも長く続いた北イスラエルはとうとうアッシリヤに滅ぼされてしまいました。「神は力です」と私たちも告白しますが、それは「私は神様の力を用いることができます」という意味ではなく、「神様は私を助けてくださいます」という意味です。主は助けてくださることを感謝し、神様との関係を正しくとらえたいと思います。

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目に見えない神様を見る

すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
II列王記6:16-17

列王記には、イスラエルの王たちの記録が残されていますが、I列王記の終わりからエリヤの物語が始まり、II列王記の初めにはエリシャの物語が記されています。イスラエルの歴史、特に北イスラエル王国の王たちは神様に従って歩む者が表れませんでした。北イスラエルは、指導者が真の神様に対する信仰を失ってしまっているので、混乱しますが、エリヤとエリシャはそんな北イスラエル王国で神様を指し示し、神様に仕える預言者たちを育成していきます。ひときわ混乱を極める時代にあって、エリヤとエリシャが他の人々とは全く違うものを見ながら過ごしていたのだという事がよくわかる事件がII列王記6章に記されています。

北イスラエルとアラムが戦争状態にあった時、アラムの軍の動きはイスラエルに筒抜けになっていました。それはイスラエルの王様の指揮が良かったからではなく、神様がエリシャを通して助言を与えたからでした(II列王6:8-10参照)。そこで、アラムの王はまずエリシャを打とうと考えます。アラムの王は大軍を送ってエリシャがいるという町を包囲しました。大軍が迫っているのを見た者たちは恐れますが、エリシャは平然としていました。若い者がエリシャに「どうしましょう。」と問いかけたところ、エリシャは「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と応えます。エリシャと共にいる仲間たちはそんなに多いわけではありません。ましてや兵士たちでもありません。目に見える所では、アラムの大軍を前に絶体絶命の状態にあります。しかしエリシャが神様に祈って、「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈ったところ、若い者の目が開け火の馬と戦車、神様の大軍勢がエリシャたちと共にいるのが見えました。エリシャはこの神様の大きな守りが見えていたので、アラムの軍勢を前にして平然としていたのです。

この後、エリシャは逆にアラムの軍勢の目が見えなくなるように神様に願います。そして目が見えなくなったアラムの軍勢を案内して、北イスラエルの首都サマリヤの街の真ん中まで連れて行き、そこでアラムの軍勢の目が見えるように神様に祈ります。アラムの軍勢が目が見えるようになるとすでに勝負はついていました。彼らは北イスラエルの軍勢に包囲されていたのです。イスラエルの王はエリシャの進言通り、アラムの軍勢をもてなし、国へ帰らせます。

この箇所はとても興味深い箇所です。エリシャが神様に願って若い者が見えるようになったり、アラムの軍勢が見えなくなったり…と、見える、見えないという事を繰り返しています。それによって何が見えているかよりも、何を見ているかの方が大切なのではないかという事を教えているように思います。エリシャは真の神様への信仰をしっかりと持ち、目には見えない神様を見ていました。だから目に見えているアラムの軍勢に恐れませんでした。冷静になったことで、この状況で争わずに、一滴の地も流さずに解決するように事を運ぶことができました。神様の奇跡を目の当たりにすることができたのです。混乱した時代にあってもエリシャは目に見えない神様の見守りをいつも見ていたので、平和でした。私たちもぜひ神様に目を開いて頂いて、神様の見守りをいつも見ていたいと思います。どんな困難な状況に思えても、ちゃんと神様の見守りがあると見えていたら安心です。ヘブル11:1には「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。私たちも目に見えない神様を見るようにして、この方に希望を置いて祈りたいと思います。

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揺れ動く民に近づいてくださる神様

その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」
I列王記17:24

イスラエルの王ソロモンは晩年、神様から心が離れてしまいました。続くレハブアム王の時代に王様の神様離れは深刻になり、王国も引き裂かれてしまいます。イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国は分裂し二度と一つとなることはありませんでした。列王記は続けてきたイスラエル王国、南ユダ王国の王たちを次々と列挙しています。特に北イスラエル王国は不安定な時代ですべての王が神様に背き、クーデターに次ぐクーデターによって王が交代していきました。北イスラエルの王アハブはそれまでの王よりも最も神様の前に悪を行ったと記されています。彼は神様への祭壇を破壊し、代わりにバアルやアシェラなどの他の神々への信仰を国民に強要しました。そのような時に突然現れたのが預言者エリヤです。

エリヤは神様のことばをアハブに宣言しました。2, 3年の間は雨が降らなくなる。そしてその言葉どおり雨が全く降らなくなり、作物は実らず、北イスラエルは苦しい時代を迎えます。この時代、本当に苦しかったのはイスラエルの民一人ひとりであったと思います。王たちによってもたらされた信仰的な混乱と雨が降らないことによる食料的な混乱が襲ってきているのです。そのような思いはツァレファテの女性(17:12)や、エリヤの言葉に対する国民の沈黙(18:21)からもうかがえます。ツァレファテの女性は、残り少なくなった食べ物を食べて死のうとしていました。何を信じていいかもわからず、食べ物もなくなり、ただ悩みの内に死のうとしています。また「いつまでどっちつかずによろめいているのか」というエリヤの言葉に対してイスラエルの国民は沈黙しました。どっちについても死ぬんだろうという不安と恐怖から、ただ苦しい現実の前に沈黙するしかない国民の様子が描かれています。このような混沌とした時代に、真の神様への信仰を貫いて生きるのはとても勇気のいることです。おそらく人間はそこまで強くはありません。

神様はこのような困難の時代に、とても身近に働き、大きな力を発揮される方です。エリヤも人間ですから食べ物が無くては死んでしまいます。神様はしばらく、ケリテ川のほとりでカラスによってエリヤを養いました。神様は、雨の降らない2, 3年の間、そのまま人知れずにエリヤを養う事も可能でした。しかし神様はエリヤをツァレファテの女性の許へ連れて行きます。このツァレファテの女性はイスラエルの国民の象徴です。まことの神様を信じていたつもりだけれども、神様の前に絶対に正しくはありえない、だから今の苦しい現実は神様からの罰かもしれないと思っている女性です(17:18参照)。アハブ王の宮殿にいる預言者オバデヤも同じような事を言っています(18:9参照)。私たちの信仰はエリヤのように強固なものではないかもしれません。だから苦しい現実があると苦しい現実と信仰との間で揺れ動いてしまいます。しかし神様はそのようなツァレファテの女性と共に歩もうとされます。エリヤを送り、わずかであったかめの中の粉と、つぼの中の油が尽きないという奇跡を起こしてくださいました。さらに一人息子がよみがえるという奇跡も起こしてくださいました。周りの苦しい現実は変わっていません。それは確かに真の神様を捨てたイスラエルの国全体の罪の表れかもしれません。しかしそこから救い出そうとしてくださるのも神様です。ツァレファテの女性は苦しい現実の中で神様の救いを体験しました。この後、聖書はこの女性の事を記してはいませんが、おそらくこの女性は一生涯神様への信仰を貫いたと思います。北イスラエル王国は宗教的には混乱した国ですが、その中でしっかりと神様と共に歩むことができたであろうと思います。

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神様が目を留めて下さる神殿

だれでも、あなたの民イスラエルがおのおの自分の心の悩みを知り、この宮に向かって両手を差し伸べて祈るとき、どのような祈り、願いも、あなたご自身が、あなたの御住まいの所である天で聞いて、赦し、またかなえてください。ひとりひとりに、そのすべての生き方にしたがって報いてください。あなたはその心を知っておられます。あなただけがすべての人の子の心を知っておられるからです。
I列王記8:38-39

列王記第一に入りました。列王記にはその名の通り、イスラエルの代々の王たちの記録が残されています。列王記の初めは、ダビデからソロモンに王位が移っていくところから始まります。ソロモンの治世はイスラエルの国の歴史で最も平和な時であったかもしれません。また間違いなく最も栄えた時でした。6章からソロモンは神殿建設に着手します。神殿の構造は、モーセの時代に造られた会見の天幕と相似形になっていますが、大きさは比較にならないほど大きく、また持ち運びできないものとなりました。神殿が建てられた場所はユダヤの伝承によれば、アブラハムがイサクを捧げようとしたモリヤの山(創世記22章)、ダビデが自分の罪のために買い取ったアラウナ(オルナン)の打ち場(IIサムエル24章、I歴代21章)と同じ場所であると言われています。

神殿が完成した時にソロモンは神様にいけにえを捧げて、祈っています。今でいえば献堂式を行っているのです。この祈りはとても長い祈りですが、とても内容の濃い祈りです。ソロモンはとても大きな神殿を建てましたが、神様はもっと大きなお方なので、このように大きな神殿を建ててもお住まいにはなれないだろうと祈っています(8:27)。完成した大きな神殿を目の前にしながらソロモンの祈りを聞いていた民は、神様の大きさに愕然としたことでしょう。この神殿もとても大きいけれど、神様はもっと大きいのかと視覚的にも味わったことと思います。しかしソロモンは、この神殿に神様が目を留めて下さって、民が神様を覚えて神殿に向かって祈る祈りを聞いてくださるように求めています。この神殿は神様がイスラエルにおられるという象徴であり、神様がイスラエルの民に目を留めて下さっていて、祈りを聞いてくださることの象徴なのです。実際、この神殿はイスラエルの礼拝と祈りの儀式が毎日行われる場所となり、神様の律法、言葉が熱心に語り告げられる場所となります。それらの儀式の中心はあくまで神様です。神様が目を留めてくださっているからこそ、全ての儀式には意味があります。ですからソロモンは神様が常にこの神殿に目を留めていてくださるように祈っています。

またソロモンは、その同じ祈りの中でイスラエルの民の責任についても言及しています。神様の祝福はご利益宗教的な物ではありません。心はともかく、やることやればもらえるというような自動販売機的なものでもありません。神殿に向かって祈る民の心に、果たして本当に神様を第一とする心があるのかどうかという事も大事なことです。神様を信頼していないのに、神様に祈るというのは普通はできないことです。ソロモンは全ての人の心の中をご覧になる神様が、その心に応じて報いてくださるように祈っています。また神様に背いたことのない人はいないという事もソロモンは分かっていて、罪の赦しをも祈り求めています(8:46)。民が心から悔い改め神様に祈る時に、神様が赦して下さるようにと祈っています。

ソロモンの祈りに対する神様からの返答は9章の初めに記されています。神様はソロモンの祈りを聞き入れ、この宮を神様の名を置く場所、神様が昼も夜も目を留めてくださる場所、民の祈りを聞かれる場所としてくださることを約束してくださっています。今日、この神殿は失われていますが、イエス・キリストの御名によって信じる者のうちに神様はこの神殿を建てて住んでくださっています(IIコリント6:16参照)。ですから私たちが心から神様を求め祈る時に、神様は私たちの祈りを聞いてくださいます。感謝していつも神様の言葉に聞き、祈りたいと思います。

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