カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

支配者に従う

また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。
テトス3:2

テトスへの手紙は、テモテへの手紙と同じく、パウロから後輩の伝道者であるテトスに宛てられた手紙です。内容もテモテへの手紙のように、教会を建てあげていくための注意点等が多いのが特徴です。テトスという人物についてですが、使徒の働きには登場しません。しかしパウロと共に宣教旅行をして、どうやらパウロがクレテの教会にテトスを残してきたようです(テトス1:5)。それがいつのことで、どのくらいパウロと一緒にいたのかは定かではありませんが、パウロはテトスのことを「同じ進行による真実のわが子テトス(1:4)」と呼んでいますので、テモテとパウロのように、相当親しい関係であったことでしょう。

テトス3章は「あなたは彼らに注意を与えて(1節)」と始まっています。2章の後半は教会に集う奴隷の身分の者たちに対する勧めでした。当時は奴隷という身分がまだ一般的な時代でした。とは言え、出エジプトでのイスラエル人のような厳しい待遇の奴隷と言うよりは、執事や召使いのような裕福な家の家事をするような人たちであったと考えられます。しかしその待遇は、主人によってずいぶん違ったであろうことは確かです。パウロはテトスの手紙の中で、奴隷の身分にある者もちゃんと主人に従うように勧めています。これは他の手紙(エペソ6章参照)にも見られることです。そして3章に入って同じように奴隷だけでなく、全ての人は上に立つ権威を持つ人に対して従順であるように勧めています。たとえ支配者たちが横暴であったとしても、争いをすることが神様の御心ではありません。すべての人と平和を保ち、優しい態度で接することが神様の御心です。

とはいえ、横暴な主人、支配者に仕えること、従う事は容易ではありません。パウロは3節で私たちも以前はどうであったかを思い出すように勧めています。私たちも以前は、愚かで、府従順で、迷っていた者でした。今、主人や支配者に対して憎しみを抱くかもしれませんが、私たちも以前は憎まれるような存在でした。しかしイエス様が私たちのところへ来られ、神様の愛と慈しみをあらわしてくだいました。それによって私たちは救われたのです。私たちは以前の罪の奴隷の状態、憎しみの連鎖の中から、神様の愛によって救われました。神様の愛と赦しが、私たちに憎しみの連鎖を終わらせてくださったのです。赦すことは難しいことですが、それによって平和が訪れます。イエス様がわが身を犠牲にすることで私たちの間に平和をもたらしてくださいました。

私たちはそのイエス様の霊、神様の霊、聖霊を受けています。私たちがしっかりと聖霊に目を向ける時、神様は私たちに神様の愛と優しさを注いでくださいます。そしてパウロが勧めているように「だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者」となることができます。以前は憎み、憎まれるという世界にいて、それが当たり前だと思っていました。しかし赦されるという経験を通して、憎しみだけの世界ではなく、平和の世界の希望が与えられたのです。私たちはこの希望をもって、生活したいと思います。自分が権威ある者にちゃんと仕えることを通して、神様の愛と赦しの世界の素晴らしさを示すことができれば幸いです。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 3, 4月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • ペンテコステ礼拝のために
  • 伝道者の健康のために
  • 甲斐師CGNTV撮影のために
  • 守谷教会のために
カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様は常に信頼できるお方

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。
IIテモテ2:19

IIテモテはIテモテと同じく、使徒パウロから、自分の弟子である伝道者テモテに宛てて書かれた手紙です。IテモテとIIテモテは共にパウロの晩年に書かれたと見られていますが、IIテモテはパウロがより自分の死が近づいたことを感じているような口調が感じられます。パウロが自分の考えを漏らすことなくテモテに言い残そうとしているように感じます。

パウロは2章後半で「俗悪なむだ話を避けなさい。(16節)」と言っています。パウロはIコリントの手紙の中でも、この世の知恵について語っています。世の中で賢いと言われているような知識の中にも、神様の前で本当に価値のある知識と、そうではない知識があります。パウロは神様の前で価値のない知識を求めることを止めるようにテモテに勧めています。そのような知識は聞いている人を神様に近づけることはできないばかりか、滅ぼしてしまう事になりかねないということをパウロは語っています。キリスト教会は、パウロの時代から常に様々な迫害や問題にさらされてきました。この当時、どのような問題があったか具体的には分かりませんが、パウロはそれらの経験からテモテに教えています。

日曜日の礼拝で創世記を開きました。私たち人間は知りたいという欲求が強い存在です。知識を追い求める存在です。しかし知識それ自体は、正しくもなく、悪くもない存在です。持っている知識を正しく用いるのか、悪いことに用いるのかは、結局のところ、知識を用いる人間の倫理が問われます。たとえ人をだますことができるくらいの知識を持っていたとしても、だまそうと思わないのは、それが人を滅ぼしてしまう間違った行為であるという倫理観を持っているからです。それは神様の前に正しいことではないと分かっているからです。人は知識があるから倫理のある人なのではなく、正しい倫理観を持っているから正しく知識を用いることができるのです。

パウロは「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」と言っています。彼とは神様のことです。私たち人間は真実でなくても、神様は常に真実です。この真実と訳されているギリシャ語の言葉は「信用できる」という意味も持っています。私たち人間は信用できない存在かもしれないが、神様は常に信用できるお方であるとパウロは言っているのです。神様は聖なる方であり、人間とは違います。人間の倫理観は未発達で、未成熟で信用できないことも多いでしょう。しかし神様は人間とは違い、常に信用できる、信頼できるお方です。すべての善いことは神様から出ているからです。時に神様は「なぜ、そうなるのか?」という物事の仕組みを明かしてはくれません。苦しみの理由、悲しみの理由を明かしてはくれません。同様に幸せの理由、楽しみの理由も神様は明かしていないことも多いですが、私たちが気にならないのは、うれしいから、楽しいから気にしていないだけです。神様が大事にしておられるのは知識ではないのです。信用すること、信頼することの方が大事なのです。パウロはテモテに勧めています。人は信頼できる存在ではないかもしれないけれど、神様は常に信頼できるお方です。私たちも神様を信じて一歩一歩を歩んでいきたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 3, 4月に初めて来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖餐礼拝、役員会のために
  • 6/2甲斐師CGNTV撮影のために
  • 南平教会のために
カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

神を愛する、家族を愛する、教会を愛する

自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。――自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう――
Iテモテ3:4-5

Iテモテは使徒パウロが、自分の弟子であるテモテに宛てて書いた手紙です。パウロは第2次宣教旅行中に良い信仰を持ったテモテと出会いました(使徒16:1-2)。パウロは、テモテに一緒に福音宣教のために来てほしいと頼み、テモテもこれを受け入れ、共に行動するようになります。パウロはテモテを弟子として訓練し、テモテは立派な伝道者となっていきました。パウロはこの手紙の中で、愛する弟子であり、同じ伝道者であるテモテに、教会を建てあげていく上での大切なことを教えています。第一義的には牧師テモテを教えるために書かれた手紙ですが、私たちすべてのクリスチャンにとっても教えられる内容の多い手紙です。

Iテモテ3章では、教会の監督や執事を選ぶ時の注意点が書かれています。私たちの教会では役員と置き換えることもできるでしょうか。非難される所のない、慎み深く、品位があり…と、いろいろ書かれています。これらの勧めは、監督になるための条件として読むというよりは、監督に選ばれた時の心得として読むのが良いかもしれません。というのは、この手紙に書かれている内容を完全にクリアしていると言える人は、おそらく教会にはいないからです。誰でも弱さがあります。結婚式を思い返すと、配偶者を愛するかという問いに応答する時、私たちは「はい。聖霊の助けによって、私は妻を(あるいは夫を)愛します。」と応えます。人間の弱さを認めた上で、聖霊の助けによって愛する努力をするのです。教会の監督になる人も、人間的な能力によって選ばれるのではなく、神の召しによって選ばれ、神の力によって務めを果たしていくのです。

パウロは監督になる人について「自分の家庭をよく治め(4節)」と書いています。執事についても「子どもと家庭をよく治める人(12節)」と書いています。それは5節にあるように「自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう」という理由からです。教会とは、父なる神様と長兄なるイエス・キリストがおられて、神様の子どもである私たちが集う所です。いわば神の家族です。人数はとても多いですが、教会も家族なのです。ですから私たちは互いに兄弟、姉妹と呼び合います。教会の監督、執事、役員になるという事は、ある意味で家族の世話をするようなものです。ですからパウロが言うように、自分の家族を治めることを知らない、つまり自分の家族を愛せない人が、教会というもっと大きな家族を愛することは難しいのです。使徒ヨハネも次のようなことを言っています。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています(Iヨハネ4:20-21)。」聖書によれば、神を愛すること、家族を愛すること、教会を愛することは、みな繋がっているのです。

世の中の集まりはある意味で、気の合う人、比較的簡単に愛することができる人同士で集まります。愛することが難しい人とは付き合わない方がいいというのが一般的な考えです。ストレスを軽減するという意味では有効だと思います。しかし家族はそういう場所ではありません。本来家族は、愛せないからと言って切り離せる関係ではないのです。教会も同じです。私たちは家族や、教会の人を愛することが難しい時にこそ、神様の愛の深さをより実感できるはずです。神様は、神様を捨てた私たち、神様から見れば愛することがとても難しい存在となってしまった私たちを愛してくださったお方だからです。家庭においても、教会においても、神様の愛、神様の助けなしには、私たちは愛することは難しいかもしれません。神様の愛に感謝し、神様の愛を頂いて、今日も身近にいる家族、そして教会の兄弟姉妹に愛を持って接していきたいと思います。「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです(Iヨハネ4:19)。」

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 3, 4月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 聖餐礼拝、役員会のために
  • 教団聖書塾、教団代議員総会のために
  • 青梅教会のために
カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

神様の公正なさばきを願う

こうして人々は言おう。「まことに、正しい者には報いがある。まことに、さばく神が、地におられる。」
詩篇58:11

詩篇58篇は、不正な権力者に対しての祈りと、神様の公正なさばきを求める祈りが描かれています。不正な権力者は、口先では義を語り、公正であること宣言しているが、心の中では不正を働いていて、国の中には暴虐が満ちていることを何とも思わない、そんな姿が描かれています。この詩篇の表題にはダビデのミクタムとあります。作者はダビデかと思われますが、どのような時に書かれた詩篇かは分かりません。それこそダビデは不正な王の前に逃げ回ることの多かった人です。そのような中で歌われた詩篇であるのかもしれません。

この詩篇は全体的に、暴力的な表現、呪いのような表現が多いのですが、よく見ると作者は争いを求めているのではないことが分かります。作者は神様の公正な裁きを求めているのです。不正な者が倒され、自分が権力者になることを望んでいるのではありません。不正な権力者の一人が倒れて、他の者が権力者になっても、人には弱さがあります。どんな権力者であっても人である以上、暴虐を留めることは難しいのです。しかし神様は公正な方であり、神様が治めれば平和であると作者は信じています。ですから神様の介入を望んでいるのです。不正な権力者が居なくなることよりも、平和が来ることの方が大事です。

7節にはその作者の思いをよく表すような表現があります。「彼が矢を放つときは、それを折れた矢のようにしてください。」折れた矢ではちゃんと飛びません。矢を打たれても、害が及ばないようにしてくださいというのが作者の求めです。矢を打つものが倒れるようにしてくださいと願うのではなく、矢が放たれてもこちらに届かないようにしてくださいと祈っているのです。矢が届かなければ平和だからです。仕返しをしようとも思っていません。現在、日本も隣国からのミサイル発射のニュースに悩まされています。私たちはこのような時になんと祈るでしょうか?この詩篇から考えさせられます。隣国が滅びるように祈るでしょうか?そうではなく、この詩篇の作者はミサイルが届かないように祈るのです。

この詩篇の表題には、『「滅ぼすな」の調べに合わせて。』とあります。「滅ぼすな」というメロディに合わせてという事でしょうが、「滅ぼすな」というメロディがどんなものであるかは分かりません。しかし「滅ぼすな」という題の意味は、もしかしたらダビデがサウルに追われていた時のことが背景にあるのかもしれないと考える学者もいるようです。夜中サウルの陣営はダビデ捜索に疲れて寝静まっていました。そこへダビデとアビシャイはこっそり侵入します。誰にも気づかれずダビデ達はサウルの寝ているところまで行きます。アビシャイは一突きでサウルを殺すことを提案しますが、ダビデはアビシャイを止めます。神様によって選ばれた王を打つことはできないとダビデは言います。このアビシャイを制止した言葉「殺してはならない(Iサムエル26:9)」の言葉が、「滅ぼすな」のメロディになったのではないかという事です。そこには、追われて苦しいけれども、追う者を滅ぼすことを求めているのではなく、追う者も悔い改めて平和になることを望んでいるダビデの思いが表されています。真の平和は、誰でもどんな人とも神様にあって信頼して助け合える世界です。イエス様も「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい(マタイ5:44)」と仰いましたが、私たちもそのような平和を願って祈りたいと思います。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集っておられる方々、ご家族のために
  • 3, 4月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 宣教礼拝、聖餐礼拝のために
  • 教団の代議員総会のために
  • 八王子教会のために
カテゴリー
祈祷会メッセージとお祈りの課題

恐れのないところを、恐れる

見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らされたからだ。あなたは彼らをはずかしめた。それは神が彼らを捨てられたからだ。
詩篇53:5

詩篇53篇は、詩篇14篇ととても良く似ています。もしかしたらこの詩篇53篇は、詩篇14篇の改訂版なのではないかと考える人もいます。詩篇53:5の表現から、詩篇14篇が元々あり、ヒゼキヤ王の時代、アッシリヤ王セナケリブの大軍から奇跡的に救われたこと(II列王記18-19章)を記念して、この詩篇53篇が書かれたのではないかと考えることができるようです。この説は定かではありませんが、いずれにしても詩篇53:5はとても興味深い表現です。

詩篇53:1に「愚か者」という表現が出てきています。この愚か者とは神はいないと考えている人の事をさしています。この詩篇全体がこの神はいないと語っている愚か者について、神様がご覧になって嘆いている様子を描いています。ヒゼキヤの時代の事を考えるならば、エルサレムを取り囲んだ軍隊は、主などという神には頼るなとエルサレムの民に向かって語り掛けています。この愚か者とは神など存在しないと言っている人々、あるいはいたとしても、大した力を持っていないと神様を侮る人々のことです。彼らは神を恐れていないので、自分勝手に好きなことをします。ですから倫理観も持っていないですし、善を行おうとも思いません。そんな様子をこの詩篇の作者は神様の視点で、神様が地上をご覧になって嘆いておられるかのように描いています。

愚か者は神様を恐れませんが、愚か者が恐れるものが5節に書かれています。「見よ。彼らが恐れのないところで、いかに恐れたかを。」という表現は興味深い表現です。一見よく意味が分かりませんが、その言葉通りのようです。恐れのないところとは、文字どおり恐れのないところ、安全な場所です。愚か者は、本当は安全な場所、恐れる必要のないところで、非常に恐れたのです。キリスト者にとってはこの世には迫害があり、艱難があり恐怖かもしれません。しかしキリスト者はキリストの内に平安を見出しています。キリストも私たちに平安を与えますと約束してくださっています。しかしキリストを信じない人にとっては、キリストが与えるという平安、そもそもキリストが本当に神であるという事自体が恐怖です。神はいないと信じてきたからです。信じる者にとっては平安であるものが、信じない物にとって恐怖であるということがあるのだと思わされます。

しかしこの平安は、私たちも初めから持っていたわけではなく、キリストから頂いたものです。私たちも初めはキリストを知りませんでした。詩篇53:1-3は、詩篇14:1-3とよく似ていますが、ローマ3:10-12で引用されています。詩篇の作者は、この愚か者というのは神を知らないイスラエル以外の人々を想定して書いたかもしれません。しかしローマ書を書いたパウロは、イスラエル人も含めて私たち全員が神様を知らないと言った愚か者として描いています。私たちは誰もが、神様を知らずに自分勝手に生きてきましたが、神様の恵みによって救われました。キリストを信じる者も最初は愚か者だったのです。恵みを頂いた愚か者です。自分の力を誇れるわけではありません。キリストから恵みによって平安を頂いたのです。この平安はだれでも受け取ることができます。平安を頂いていることを感謝して、この平安の内にとどまり続けましょう。

お祈りの課題
  • 昭島教会に集う方々、ご家族のために
  • 3, 4月に新しく来られた方々、久しぶりに来られた方々のために
  • 宣教礼拝のために
  • FMYC、教会運営会議、代議員総会のために
  • 桜ヶ丘教会のために