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祈祷会メッセージとお祈りの課題

キリストにあって一つの体、互いに従う

キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。(エペソ5:21)

エペソ人への手紙は、「一つに」や、「互いに」という言葉が多く出てきます。クリスチャンは神様と一つとされたものであること、互いに助け合う事などが教えられています。使徒の働きによるとエペソには女神アルテミスの神殿がありました。相当大きな立派な神殿であったようです。そして町の人たちも「エペソの町は女神アルテミスの町だ。」と熱心に信じていました。エペソの教会は、そのようなアルテミス信仰の強い町にたてられていた教会でした。使徒の働き19章には、クリスチャンとエペソの町の人のいざこざが書かれています。

エペソ5章では、クリスチャンであるならば、クリスチャンらしく生活するように心がけなさいと言っています。そうすることが、他の宗教の人々の間で生活するときに、クリスチャンとしての光を放つことになるからです。真の神様によって救われ、何が良いことで、何が悪いことか判断できるようになりました。以前は罪の奴隷でしたが、今は光の子どもとされたのです。ですからクリスチャンとして光の子どもらしく歩みなさいと勧めています。

その中で、「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」という言葉が出てきます。この言葉は続く、妻たちへの教え、夫たちへの教え、子どもたちへの教え、奴隷たち、主人たちへの教えへと導く鍵の言葉です。キリストを中心として生きること、キリストのみを主人として生きるのがクリスチャンです。「クリスチャン=キリスト者」とはそういう意味の言葉です。キリストは私たちの主ですが、多くの人に仕える生き方をされました。今日の私たちのためにも十字架の贖いのわざを成し遂げてくださいました。私たちの主がそのような生き方をされたのですから、しもべである私たちもキリストと同じように互いに従いあう生き方をしましょうというのがエペソ人への手紙の教えです。互いに従いあうということは、互いに愛し合うということです。愛をもって誠実に接し合うという事です。5:28は夫たちへの教えの中の一節ですが、このように書かれています。「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」キリストに倣って夫は妻に従うのですが、それは夫が妻を、自分の体のように愛するという事です。究極の意味で、夫と妻は一つだからです。ですから夫が妻に従うというのは、主人としもべの関係になったというよりは、一つとされたから、お互いに愛し合うのが自然で、お互いに別々になるのはおかしいでしょうということになります。キリストはクリスチャンに対して、教会に対して、そのように愛されたということが書かれています。キリストは教会と結婚して一つとなりました。ですからもはや自分のからだとなった教会を、キリストは心から愛してくださっています。私たち教会にいる兄弟姉妹が互いに従う、互いに愛し合うということは、キリストにあって一つとされているからです。

互いに従いなさいということについて教えられていましたが、今一度私たちは何と一つとされているかしっかりととらえさせて頂きましょう。私たちはキリストと、そしてキリストを通して兄弟姉妹と一つとされています。聖書のほかの箇所では、もし私たちが他の何か、偶像に心奪われるなら、その偶像と一つとなってしまいますよと教えています。しっかりと私たちはキリストと一つとされていることを捉えさせて頂きたいと思います。

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ご恩寵のうちに

まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。(詩篇30:5)

詩篇30篇は、喜びの歌のようです。ただ喜んでいるというよりは、一度は苦しみにあったけれども、回復された喜びを歌っているように見えます。この詩篇の表題には「家をささげる歌」とあります。家を建てた時に、この家を感謝し聖別するために歌った歌かもしれません。この表題については年月が経ってからつけられたのではないか?という説もあるようです。いずれにしても、家を建てた記念に、それまでの工程を振り返り、人生を振り返り、山あり谷ありであったけれども、こうして喜びの時を迎えたという内容の歌を歌いたくなる気持ちはよく分かります。この詩篇は、あるふとした時に、自分のたどってきた道を思い返し、守られたことの感謝の喜びを歌っている詩篇です。

人生山あり、谷あり。それはだれもがそう思うのではないでしょうか?まだ人生経験の乏しい子どもでさえ、いつもうれしい日ばかりではないということはよく分かっています。いつもうれしければどんなに幸いだろうかとも思いながらも、人生には辛い時もあります。そんな辛い時、苦しい時に、私たちをしっかりと支えてくださるお方がいるという事は素晴らしいことです。この詩篇の作者は、苦しい時にしっかりと自分を立たせてくださった神様に感謝をしています。7節にこう書かれています。「主よ。あなたはご恩寵のうちに、私の山を強く立たせてくださいました。あなたが御顔を隠され、私はおじ惑っていましたが。」神様、あなたはご恩寵のうちに私を立たせてくださいました。とあります。「恩寵」という難しい言葉が出てきました。恩寵とは恵み、慈しみのことだと思いますが、ヘブル語には、ヘーン、ヘセドゥといった恵みという意味の言葉があります。しかしここで使われているのは、ラツォンという別の言葉です。この言葉は「受け入れる」という意味があるそうです。つまり神様の特別な顧みによる恵みのことを指しているようです。恩寵という言葉も何となく、特別に囲って受け入れているイメージだと思います。人生は、時には辛いこともあったけれども、神様からおしかりを受けるようなこともあったけれども、そのようなときにも、神様の御手が私を囲って守ってくださっていたのだという事を思い返し、感謝をささげている様子がうかがえます。

親は子どもを愛しているからこそ、時には厳しく接します。子どもがその事に気づくのは、ずっと後になって大人になってからです。大人になって振り返った時、親の愛、恩寵を知ります。私たちと神様の歩みも、山あり谷ありを走っている最中にはなかなか気づかないかもしれません。しかしふと何かの時、家を建てた記念のようなときに、立ち止まって振り返ると、神様の恩寵に気づくのではないでしょうか。そして神様の恩寵の内側で生きることこそ、私たちの幸いであると気づきます。その恩寵の中には、まだ山も谷もあるかもしれませんが、神様の恩寵の外側で生きるよりは幸いであると感じます。神様の恩寵のうちでは、夕暮れに涙が宿っても、喜びのうちに朝明けを迎えることができると経験から分かっているからです。信じることができるからです。今日も神様の恩寵のうちに歩ませていただきましょう。

お祈りの課題

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あなたの小道を教えてください

主よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。(詩篇25:4-5)

詩篇25篇には、道という表現がよく出てきます。神様の道、主の道を教えてくださいということが主題となっている詩篇のようです。クリスチャンも、ユダヤ人も、自分たちの宗教のことをよく「この道」と表現してきました。それはユダヤ教、キリスト教というのが、一過性のものではなくて、人生に渡って継続していくものであるということを示しています。救いを受けたからそれで終わりなのではなく、そこからがスタートで、自分の人生、この地上生涯と、永遠に続く天国での生活にまで続くものであるということを示しています。キリスト教やユダヤ教でなくても、私たちは自分の人生のことを「道」と表現します。どの道を歩んで生きているのか、自分は人生をかけてどこへ向かっているのか、それが私たち人間が心の奥深い部分で求めていることなのかもしれません。

詩篇25篇では、神様に向かって「主よ。あなたの道を教えてください。」と祈っています。これは「神様、あなたは人生をどう歩んでいるの?ふ~ん。そんな道を歩んでいるんだ。じゃあね。」ということではありません。単なる好奇心から神様に「道を教えてください。」ときいているのではありません。自分がその道を歩みたいので、「教えてください。」と頼んでいるのです。5節にあるように、「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。」ときいています。なぜなら、この詩篇を作った作者は神様の事を、「あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。」と慕っているからです。私たちはみな、自分の人生の道を歩んでいます。その道は誰か他の人が用意してくれて歩んでいる道ではありません。誰かが前に通った道でもありません。自分だけの道です。自分の道が他の人と違うのは当たり前で、交換することもできないのです。まさに私たちは常に前人未踏の道を歩んでいます。このような道なき道を歩んでいるのですから、私たちは当然先行き不安になります。だれかに導いてほしい。ガイドしてほしい。と思います。この詩篇の作者は、神様にガイドしてほしいとお願いしているのです。神様以外にこの責任重大なことに関して頼れる方はいないということです。

詩篇25:4ではこの道について「小道」と表現しています。神様が導いてくださる「あなたの小道」です。面白い表現だと思います。どうして小さい道なのでしょう?自分という存在の小ささを認識してというのもそうかもしれません。新約聖書マタイ7:13-14でイエス様は、「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」と言っています。あなたの小道とは、その道が神様のガイドなしでは見つけるのが難しい道であるということを表現しています。詩篇25篇も作者も「あなたの道を教えてください」という言葉とともに、「わたしの罪を赦してください」ということも多く語っています。神様なしで、自分でなんとか歩んでいこうと思ったけれど、失敗も多かった。そこで今度は罪を悔い改めて、ちゃんと神様のガイドのもとに歩んでいきたいという思いが伝わります。私たちも今一度、あわれみによって神様に罪を赦して頂き、神様のガイドを求めたいと思います。

お祈りの課題

  • クリスマスの諸集会のために
  • 新しい方が来会されるように
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  • 川越教会のために
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神様の知恵と力によって

今こそ、私は知る。主は、油をそそがれた者を、お救いになる。主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる。ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。(詩篇20:6-7)

詩篇20篇は「あなた」と呼ばれている人のために祈っている詩篇です。「苦難の日に主があなたにお答えになりますように(1節)。」のように「あなた」のために祈っています。この「あなた」とは誰なのか?「主があなたに…」と言われていますので、「あなた」は神様の事を指してはいないですね。9節になって、「主よ。王をお救いください。」と出てきますので、ああ。王様のために祈っていたのかと分かります。

イスラエルは王国でしたから、王様がイスラエルの国を統治していました。イスラエルの国の政治は王様が行います。良い、賢い王様であればイスラエルの人々は安心して暮らせます。4節で、王様の政治、はかりごとのために祈っています。また戦の時には、王様が軍隊を率いて戦いに出ていきます。王様の勝利は、イスラエルの国が守られてことを意味します。逆に王様が負けると、イスラエルに住んでいる人々みんなが苦しむことになるのです。5節では「神様。王様に勝利を与えてください」と祈っています。

イスラエルの国は、真の神様を信じる国でした。ですから王様のために祈るときにも、ただ王様が強められるようにとか、王様が賢くなるようにとは祈りませんでした。6節で、「主は、油注がれた者を、お救いになる。」と言っています。油注がれた者とは、神様から特別選ばれた人、王様の事を指します。神様が王様をお救いになると祈っているのです。これは王様が強いから国を守ってくれるということではなく、神様が強いから国を守ってくださるということです。神様が強いので、王様に勝利を与えてくださるのです。他の諸外国は、王の力=国の力でしたが、イスラエルでは、神様の力=国の力なのです。イスラエルの国の真の支配者は神様であり、神様が特別に国をまとめる役目として選び、油を注いだのが王様なのです。ですから諸外国では、戦いに勝てば、いくさ車、戦車の性能がよかったとか、馬がいい馬だったとか誇るかもしれません。あるいは王様の采配が良かったというかもしれません。しかしイスラエルは、イスラエルの神様、真の神様を誇るのです。

現代に生きる私たちは、王国で生活していないので、王様のために祈るということはしないかもしれません。単純に私たちの生活をお守りくださいと祈ると思います。その時には、「神様、私の体力を増してください。私の知恵を増してください。」と祈るかもしれません。しかし本当に私たちの生活を支えているのは、私たちの体力や、私たちの知恵ではなく、神様の力です。ですから神様の力を誇りたいと思います。神様が私たちに力と知恵を下さったので守られたという表現も使いますが、注意が必要だなと思います。それは「神様が私たちに力と知恵を与えて下さったので、その私たちの力と知恵で生活を守っている」という意味ではありません。「私たちには力と知恵がないですが、神様が神様の力と知恵をもって助けて下さったので、守られています」という意味です。

今日は、教団の交換祈祷会です。教団の各教会のために祈ります。各教会のこれからクリスマスに向けての歩みを、神様が力と知恵をもって助けて下さるように祈ります。

お祈りの課題

  • 川越教会の新会堂の導きのために
  • 川越教会のクリスマス、新年のために
  • 昭島教会の方々のために
  • 南平教会、教団の各教会のために

*今日は、教団のFM祈祷協力日、交換祈祷会でした。昭島教会には、川越教会の大澤先生が来てくださいました。川越教会、教団の各教会のために覚えてお祈りしましょう。

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心の中の真実を語る

主よ。だれが、あなたの幕屋に宿るのでしょうか。だれが、あなたの聖なる山に住むのでしょうか。正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人。(詩篇15:1-2)

注解書によると、この詩篇は、ユダヤの人々にとって理想の人とはどんな人かということを表す詩篇として、23篇についで愛されている詩篇だそうです。特にタルムードでは、モーセ五書にある律法がこの詩篇の中に要約されているとまで言われているそうです。確かにこの詩篇は、人の生き方について簡潔に奥深く表されています。

1節ではまず、主よ。と呼びかけて、だれがあなたの幕屋に宿るでしょうか?と投げかけています。あなたの幕屋に宿るという言葉は、あまり日本では使われない表現かもしれません。これは神様との交わりのことを指しています。幕屋というのは、ユダヤの人々にとって神様と出会う神殿のことです。その幕屋に宿るということは神様との交わりを持つということです。ダビデも他の詩篇で、「私は一つのことを主に願った。…私のいのちの日の限り、主の家に住むことを(27:4)。」と言っています。これもダビデは神様との永遠の交わりを求めているのです。神様の家というなんだかとても豪華そうな建物を求めているのではなくて、神様ご自身を求めているのです。

15:2で、神様の幕屋に宿るのは、このような人だということを述べています。それは正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人であると述べています。正しく歩むという言葉は、聖書の元々の言語ヘブル語は「全き」とも訳せる言葉を使っています。創世記17:1で神様はアブラハムに「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と言われました。同じ言葉が詩篇15:2で「正しく歩み」と使われています。詩篇には「神様の前に」という言葉はありませんが、神様の前に正しく歩むということを意味しています。

正しく歩む、全き歩みとは、完全無欠であるという事ではありません。神様の前に完全無欠な人間は一人もいないからです。私たちは十字架の神様の赦しのゆえに義とされている者です。正しく行おうと努めるのはもちろん良い事です。しかし間違った時にはしっかりと間違いを認めへりくだる事も大事です。神様の前に正しく歩むとは、神様の前に誠実に歩むという事だと思います。このことは心の中の真実を語る人ともつながると思います。神様に対して、包み隠さず自分の心を打ち明ける事ができるということです。罪は、神様の前から隠れよう、逃げようとする性質があります。しかし誰との関係においてもそうですが、自分の心を隠せば隠すほど、関係はぎくしゃくします。良い関係、良い交わりを保つことはできません。罪が神様との関係を壊す、滅びに至るという原因は、たいていの場合、神様のさばきの故というよりも、神様から隠れようという罪の性質に大きな原因があります。神様はむしろ私たちを救おうと、手を伸べて近づこうとしておられるからです。罪を隠そうという誘惑に負けず、神様の前に告白し、赦しを頂きましょう。そのようにして神様との関係、交わりを保っていきたいと思います。

お祈りの課題

  • 11/13クリスマス飾りつけのために
  • 11/16交換祈祷会のために
  • 11/20の聖餐礼拝、役員会のために
  • クリスマスの諸集会のために
  • 昭島教会のみなさんのために
  • 青梅教会のために