「しかし、この人たちは自分が知りもしないことを悪く言い、わきまえのない動物のように、本能で知るような事柄によって滅びるのです。」
ユダの手紙 10
「人間は自然の中もっとも弱い『一茎の葦』にすぎない。しかし、『考える葦』である。これを押しつぶすには宇宙全体は武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくでも人間を殺すのに十分である。しかし、宇宙がこれを押しつぶす時にも、人間は自分を殺すものよりも高貴である。……我々の尊厳は思考にある。……宇宙は空間によって私を包み、一つの点として私を飲むが、私は思考によって宇宙を包む。人間は天使でもなければ、獣でもない。しかし、不幸なことに天使のように行動しようとして、獣のようになるのである。」(『人間としての哲学』ガエタノ・コンブリ,マガジンハウス,pp134~135より抜粋) 上の言葉は、ガエタノ神父が引用したパスカルの言葉です。人間は宇宙上で弱い存在であるけれども、思考することが出来る点で他の被造物よりも尊厳があると語っています。ただ、「獣のように行動してしまう」ということも事実ですね。考えさせられる文章だと思い、紹介させて頂きました。
もしも仮に、人がまったくの偶然によって自然発生し、根本の部分において他の動物と変わらないのだとしたら、自然界の法則(適者生存と自然淘汰)によって弱者を排除しても倫理的に責任を追及できないことになってしまうでしょう。人に自然権・生存権があり、人には他の家畜や動物とは異なる尊厳があるのだと言えるのは、神が人をご自身の似姿(イマゴ・デイ)に創造されたからです。
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。
創世記1章27節
この神のかたちに創造された人には、理性と言葉を用いて思考する力があり、神が創造された被造世界を管理する働きが託されていました。たしかに人は自然界では弱く、一茎の『葦』に過ぎません。しかし、この神の似姿に造られた人には、パスカルも言うように宇宙を包むほどの思考の力と、神のかたちに造られた人としての尊厳があるのです。
しかし、これもまたパスカルの言うように、「人は天使のように行動しようとして、獣のようになる」生き物です。なぜでしょうか。なぜ人は、神の似姿に造られ、賢さと理性とを持ち、自然界を管理する責任が与えられていたにも関わらず、むしろ愚かな獣のようにふるまい、自然を破壊し、互いに争いあってしまうのでしょうか。聖書はその原因を『罪』と呼んでいます。(創世記3章、ローマ人への手紙5章など)
私たちをこの『罪』から救い、罪に対する永遠の刑罰からお救いくださるために、イエス様は十字架につけられ、私たちの罪をすべて背負って十字架上で死んでくださいました。私たちが罪から解放されて清い生活をすることができるのは、イエス様が復活され、私たちに永遠の命を約束してくださったからです。
「わきまえのない動物のように、本能で知るような事柄によって滅びる(ユダ10)」ものではなく、福音によって回復され、キリスト(罪からの救い主)と共に歩んでいくものでありましょう。
さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。
ローマ人への手紙 13章11-14節
