投稿者「mayumi」のアーカイブ

2021年6月6日 主日礼拝メッセージ

「神に栄光を、神に感謝を、神が私を」創世記14章14~24節 金田洋介牧師

 

アブラハムを迎えた、サレムの王メルキゼデクに注目しましょう。彼を通して、アブラハムは神に目を向け、大切な事に気付かされるのです。
神に栄光を帰する(お返しする)
 メルキゼデクは、「いと高き神に誉れあれ」と神をほめたたえています(20節)。アブラハムに勝利を与えて下さったのは神だからです。アブラハムの僕たちは、訓練されていたとはいえ、素人集団。不思議な知恵と作戦を与えられたのは、神の介入によるものです。知恵も、勇気も、敵を打ち破ることができたのも、すべて神の力だと、アブラハムは改めて気付いたのです。皆さんは、神に栄光をお返ししていますか。運が良かった、私の努力だ、で終わっていませんか。私の全ては神に握られていると、神に感謝して栄光をお返ししましょう。
神に感謝をささげる
 「十分の一をささげる」という言葉が、聖書で初めて出てくるのがこの場面です。①にも繋がることですが、全ては神の導きと助けによるものだと、アブラハムが確信していたからこそ、ささげたのです。神はこれまでも、そしてこれからも、信頼できる間違いのないお方だと確信したのです。私達も、神への精一杯の感謝と、守り養い続けてくださる神への信頼を、捧げものをもって現したいものです。
神が私を祝福して下さる
 「わたしはあなたを祝福する」と、神は祝福の計画を用意してアブラハムを導かれました。約束された神が、責任をもって果たして下さるのです。彼はロト救出の出来事、メルキゼデクの祝福の言葉を通して、神が私を祝福して下さると確信しました。だからこそ、ソドムの王の申し出を拒否したのです(23節)。ソドムの王の言葉は、この世を象徴するかのようです。この世は、神から引き離すもの、神を覆い隠し見えなくするもので溢れています。あなたを祝福して下さるのは神なのです。
メルキゼデクが持ってきたパンとブドウ酒は、イエスの姿を思い起こさせます。身体が裂かれ、血を流し、命を犠牲にして私達を救われた、十字架の上のイエスです。イエスの十字架は、私達が罪赦され、神と和解し、神の祝福に与る為です。この世に心を奪われてはいけません。あなたを祝福することができるのは、独り子イエスを犠牲にしてまで救って下さった、まことの神だけです。神に栄光をお返しし、感謝をささげ、神が私を祝福して下さると信じ、確信して歩もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ブルーベリー(枝)、オリエンタルユリ、グロリオーサ、アジサイです。

 

2021年5月30日 主日礼拝メッセージ

「アブラハムの選択~どちらを選んだとしても~」創世記13章8~18節

 

アブラハムとロトは互いに所有物が増えたことにより、互いの生活に影響を及ぼします。ある時、彼らの牧者の間に争いが生じ、親族同士争うことを避けたいアブラハムは、ここで別れて互いの道を歩もうと提案しました。

Ⅰ.アブラハムの選択

アブラハムはロトに「東と西どちらでも好きな方を選びなさい」と選択権を譲りました。アブラハムは「自分で選ばない」という選択をしたのです。ロトは「自分のために」豊かな低地を選びました。その地域には滅ぼされる前のソドムとゴモラがありましたが、とても潤っている良い地でした。ロトは低地に、アブラハムはカナンの地に住みました。アブラハムは何故、自分が損をするような選択をしたのでしょうか。

Ⅱ.アブラハムの変化

アブラハムは自ら退き、平和的な解決に努めました。ここに、以前の彼とは違う変化を見るのです。以前、飢饉のために一時逃れたエジプトでの失敗が(12章)大きな転機となったのでしょう。彼の軽率な判断が原因で、妻のサラを危険に晒し、神のご計画までも妨げる寸前までいったのです。しかし、神の憐みによって助けられたのでした。その後、アブラハムは最初に築いた祭壇の前で主の名を呼び、再スタートを切ったのです。これらの経験から、彼は人が傷つかないように配慮し、平和を望み、自らの選択権も手放すことができるまでに変化したのです。

Ⅲ.アブラハムの決意〜どちらを選んだとしても

彼が選択権を放棄したのは、彼が失敗を通して変化したことの他にもう一つ、神への絶対的な信頼です。アブラハムは、自分が低地と高地のどちらを選んだとしても、共におられる神の祝福は揺るがないと信じ、確信していたのです。あらゆる場面で私たちは、選択を迫られます。人生は選択の連続です。どちらを選ぶか、迷うことがあります。決めたことに対して、「これで良かったのか」と不安になる事もあるでしょう。しかし、アブラハムの姿から学びたいのです。「私たちがどのような道を選んだとしても、神はあなたと共におられ、祝福することができる」と。ですから、損得で考えたり、ただ自分の願いを望むのではなくて、「主よ、あなたが望まれる選択、喜ばれる選択ができるようにしてください」と祈れる者とならせていただきましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、デルフィニュウム、オリエンタルユリ、ひまわり、けいとうです。

 

2021年5月23日 ペンテコステ礼拝式メッセージ

「助け主なる聖霊」使徒の働き2章1~4節、ヨハネの福音書14章16節  金田洋介牧師

 

本日はペンテコステ礼拝です。クリスマス、イースターとともに世界中で喜ばれる記念すべき大切な日です。

Ⅰ.ペンテコステの出来事

弟子たちは、「父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)とのイエスの言葉に従い、父なる神の約束である聖霊を求め、心を合わせて祈り始めました。そして時は五旬節、イエスが昇天されてから十日後のこと、突然激しい風が吹いたような音が天から起こり、彼らが集まっていた家一杯に響き渡りました。すると、炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった瞬間、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに色々の他国の言葉で語りだしたのです。この出来事以降、弟子たちは主イエスの復活の証人として出て行きます。そして、他国の言葉で語りだした現象が象徴しているように、あらゆる言葉でイエスの十字架と復活が伝えられ、今日に至っています。私たちも、次世代に福音を繋いでいく使命があることを覚えましょう。

Ⅱ.聖霊は助け主、真理の御霊

イエスは弟子たちに、聖霊は助け主(ヨハネ14:16)であり、真理の霊(同15:26)であると教えました。聖霊は私たちの信仰を守り、励まし、助けて下さるお方です。そして聖霊の力が働く時、私たちは神の御言葉に目が開かれ、神の御心を知ることができるのです。このような素晴らしい助けと解き明かしを聖霊は与えて下さるのです。信仰の成長のため、健全な信仰を保つために、また、信仰が無くならないために、聖霊が必要なのです。

十字架の死から復活されたイエスが「聖霊を受けよ」と弟子たちに言われたように、今を生きる私たちにも聖霊を求めるように迫っておられます。聖霊を受けること(聖霊のバプテスマ)は、イエスがクリスチャン全員に約束されたものです。ですから、これを教会の一部の人達の話だと思ってはいけません。積極的に求めようではありませんか。聖霊を受ける時、あなたのこれまでの神との関係の在り方、人との関係の在り方、日常生活の在り方が、根本から変えられます。これまで味わったことのない、喜びと感謝、信仰の確信を実感するでしょう。心から聖霊を求め、聖霊の支配(聖霊が全生活に介入されること)に委ねるのです。共に、聖霊の恵みに与りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ヒマワリ、ランです。

2021年5月16日 召天者記念礼拝メッセージ

「主イエスが与える平安」ヨハネの福音書11章25~26節、14章27節  金田洋介牧師

 

本日は召天者記念礼拝です。先に天に召された兄弟姉妹を偲びつつ、イエスによって与えられた平安に注目しましょう。聖書箇所は十字架前夜のイエスの御言葉です。弟子たちはイエスがいなくなることを恐れ、不安の中にありました。弟子たち同様、不安になりがちな私たち。しかし、イエスは「わたしは平安を残します。与えます。」と言われます。

Ⅰ.イエスが残された平安

イエスは「平安を残す」と言われました。多くの意味があると思いますが、その一つをイエスの御言葉と御言葉を体験したという事実から来る平安と考えたい。弟子たちは、イエスと共に歩んだ日々の中で、イエスの御言葉の力を目の当たりにしてきました。弟子たちが、イエスと共に歩み、聴いたこと、見たこと、体験したことは、紛れもない事実です。また、まだ体験していない約束の御言葉もありました。それら一つ一つの体験が、後に彼らに平安をもたらすことになるのです。御言葉の力は今も生きて現れます。私たちは、イエスの御言葉の力を体験してきました。そしてこれかも体験するでしょう。それらが、私たちに平安をもたらすのです。

Ⅱ.イエスが与える平安

「イエスが与える平安」とは、イエスがご自身の命を犠牲にされたことで与えられた平安です。イエスを信じない世界では、平安を得るために、自分で犠牲を払って、自己責任で平安を得ます。しかし、必ずしもそれらが期待通りの結果をもたらす保証はありません。むしろ不完全で、限定的なものにすぎないのです。しかし、イエスを信じる者に与えられる平安は違います。イエスはご自身の命を犠牲にして、あなたの力ではどうにもできない罪と、死と、永遠の滅びから救い、さらには永遠の命をも与えて下さいました。あなたを救うためにご自身を犠牲にされたイエスだからこそ、あなたに平安で満たすことができるのです。否、イエスだけができるのです。

あなたを不安に追いやるものは何ですか。平安が欲しいと思う時はどんな時ですか。あなたにはイエスによって与えられた平安があります。先に召された兄姉は、この平安を握っておられたのです。死は永遠の別れ、終わりではありません。主と共に再会できるのです。この平安に日々満たされて歩むことが出来ますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヤマテラシ、カーネーション、トルコキキョウ、リアトリス、アリアムです。

 

 

 

2021年5月9日 サンクスデー礼拝式

「祝福が伴う神のことば」出エジプト記20 章12節 金田洋介牧師

 

「あなたの父と母を敬え」は十戒の後半、人との関係における教えの最初の教えです。親子関係こそが人と人との関係において土台となるものだという事です。ですから、この言葉は単に親のことだけを指すのではなく、両親をはじめとする他の人々にも及ぶ、大切な言葉なのです。そして、神の言葉に進んで従うならば、必ず祝福があると約束されています。神は私たちに対して多くの祝福の計画を持っておられます。神はその祝福の一つを「父と母を敬う」ことを通して与えようとされているのです。

ところが、現実は簡単ではありません。敬い難い親、子に悪影響を与える親がいます。その一方で、親に激しく反抗する子もいます。神が望まれる麗しい親子関係とは程遠い現実を見聞きします。聖書には子育てに悪戦苦闘する親や、親を悲しませる子の姿を隠さず記しています。もしかしら、イスラエルの民たちの親子関係も似たようなものだったかもしれません。しかし、神は全ての民をエジプトから脱出させ、紅海を渡らせ、荒野では水やマナを与えて養われました。イエスも言っておられます。「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです…」と。神は常に真実を尽くして下さるお方。イエスを犠牲にしてまで救って下さったお方です。あなたも、あなたの親や子どもも、そして、あなたが関わる一人一人も同様に、神の愛、神の憐み、神の救いの対象なのです。

もしかしたら、神とあなたとの間にしか分からない多くの痛みや傷があるかもしれません。しかし神は、あなたの傷口を広げるためにこの言葉を与えられたのではありません。あなたの傷が癒され、和解し、穏やかな心で父や母と言葉を交わすことができるようになるためです。あなたも、あなたの人間関係も、真実な神の愛の中にあるのですから、「あなたの父と母を敬え」との言葉を実行してみませんか。この神の御言葉は祝福が伴う言葉ですから、祝福への招きの言葉でもあるのです。共に神の祝福に与ろうではありませんか。「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」この神の御言葉が、あなたにとってかけがえのない言葉となりますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、グラジオラス、オルレア、ギガンチュームです。

2021年5月2日 主日礼拝メッセージ

「アブラハムの旅立ち」創世記12 章1~ 9節 金田洋介牧師

 

1節はアブラハムが神に呼び出された重要なシーンです。彼が神の言葉に従い旅立って行く過程から、メッセージをいただきましょう。

Ⅰ.神に呼ばれていたアブラハム

前章(11:31)にアブラハムはウルからカナンの地に向けて出発したとあります。彼はウルにいた時からすでに神に呼ばれていたのですが、ハランの町に留まってしまったのです。しかし、神は再びアブラハムを呼ばれたのです。神はご自身の計画を諦めるようなお方ではありません。それはあなたに対する計画においても同様です。

Ⅱ.神のご計画を知ったアブラハム

ハランで多くを得たアブラハムでしたが、神の祝福の計画は壮大なものでした。その計画は彼のみならず、彼を通して地のすべての人々が祝福されるという驚くべき計画でした(2~3節)。同様に、神は私たち一人一人に祝福の計画を持っておられます。神があなたの為に計画された祝福にあなたが与ることができようにと強く願っておられるのです。

Ⅲ.神の呼びかけに応答したアブラハム

まず、神の呼びかけとは何でしょうか。神が直接語られること、神に心を促される (心に働きかけられる)ことです。神の促しに対しアブラハムは「神の示された地に行く」という応答をしました。あなたは神の促しに気付いていますか?神はあなたの日々の生活の中に臨み、あなたを具体的な行動へと促すことができるのです。素直に応答したいものです。

Ⅳ.共におられる神を体験したアブラハム

アブラハムは旅立って行きましたが、神が示された地で何が待っているのか、神の祝福がどのように実現するのか全く知りません。内心、不安があったと思います。神は、まるでアブラハムを安心させるかのようにご自身を現し、約束の言葉を掛けて下さいました(5~8節)。彼は祭壇を築き、礼拝をささげます。これは、神が自分と共におられること、神の約束は確かなものであると、確信したからでした。この後、彼はさらに神を体験します。

アブラハムが神の呼びかけに、促し(働きかけ)に従ったことによって、彼の人生が変えられ、祝福に与ったことを覚えましょう。そして、あなたも神の呼びかけに応答し、神があなたために計画された祝福に与る者とされようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、トルコキキョウ、カスミソウ、アルストロメリアです。

 

2021年4月25日 主日礼拝メッセージ

「アブラハムの信仰~神の言葉を道しるべに~」ヘブル人への手紙11章 6~12節 

金田洋介牧師

本日からしばらくの間、信仰の人アブラハムの生涯からメッセージを語って参ります。聖書箇所のヘブル11章には、信仰者たちが大勢登場します。特にアブラハムについての記述は、他の人物よりも多く割かれています。その中に、信仰によってアブラハムは神の召しに従い、どこに行くのか知らないで出て行ったとあります(8節)。神の御声を聞くという、素晴らしい体験をアブラハムはしますが、別の言い方をしますと、彼は御声を聞いただけにすぎません。しかし、彼は御声をかけられたお方が信じるに足るお方であると信じて従い、出て行ったのです。そこで本日注目したいことは、アブラハムが神をどのように捉えていたかということです。彼の信仰から3つのポイントを挙げます。

Ⅰ.神は知っておられるお方

神はアブラハムに「わたしの示す地へ行きなさい」と言われました。アブラハムは自分を導こうとされているお方は、闇雲に行かせるようなお方ではなく、目的地を知っておられる、と信頼して出て行きました。同様に、神はあなたの人生、行く先々をしっかりと備えた上で導かれるお方です。丁寧に、そして大切に導かれるのです。なぜなら、あなたは神様に造られた存在であり、高価で尊い存在だからです。

Ⅱ.神は確かな計画を持っておられるお方

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される。自分を導かれたこと自体に神の確かなご計画があると信じたアブラハム。しかし、具体的にどうされるかはすぐには明らかにされず、神と共に歩むことによって体験していきます。神が私たちに立てられている計画は確かで、平安、将来、希望を与える計画です(エレ29:11)

Ⅲ.神は共におられる(見ておられる)お方

行く道を示し、計画を全うすることができるのは、神がアブラハムと共におられるからです。自分には行く先も、これから起こる出来事が、未来が見えなくても、神には見えていると信じたのでした。アブラハムは神の言葉を道しるべにして、立ち上がって行ったのです。アブラハムと共におられた神は、あなたと共にいて下さいます。

私たちは将来どころか、次の瞬間に何が起こるかも分からない者ですですが、神は知り、確かなご計画を持って導き、世の終わりまでも共にいて下さるお方です。神の御言葉を信じて、信仰の旅路を歩んで参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が
活けられています。
今週のお花は、ギンバサザナミ、ユリ、カーネーションです。

2021年4月18日 主日礼拝メッセージ

「矢を取りなさい~どこまでも主を信じる者に~」Ⅱ列王記13章14~19節

 

神に用いられたエリシャでしたが、彼は病を患い、死が迫っていました。死を目前に控えたエリシャの告別説教とも言える箇所です。
Ⅰ.窮地に追いやられたヨアシュ王  14節
14節を見ると、ヨアシュの悲壮感が伝わってきます。アラムの攻撃に悩まされている上に、頼りにしていた預言者エリシャが死の床に伏しています。人間に頼ってきたヨアシュの憐れで悲痛な叫びです。彼はエリシャを用いられた主なる神を見ず、信頼していなかったのです。このヨアシュの姿から、私たちも窮地に追いやられた時、普段から何を信じて信頼しているのか、あらわになることを思います。どんな時も、私たちの内から、主への信仰と信頼が出てくる様にと願います。

Ⅱ.ヨアシュ王を奮い立たせるエリシャ   15~17節
エリシャはヨアシュに窓から矢を射させます。これは、「神の民イスラエルの王としての使命を果たしなさい」という激励と、「勝利は人によらず、共におられる主が勝利を与えられるのだ」と、どこまでも主のみに信頼すべきことを伝えたのでした。

私たちの助けはどこから来るのでしょうか。もうダメだ…、助けは来ない…と諦めてはいませんか。あなたが拠り所としているものは、あなたを助けてくれるものですか?あなたを救うことが出来るのでしょうか?助けは、天地を造られた主から来るのです。その信仰という主の勝利の矢をあなた自身の手でしっかり握り続けるのです。

.どこまでも主を信じる者に 18~19節

最後にエリシャは、ヨアシュに地面に矢を射るよう命じます。これは、今この時から、主なる神のみを信じて信頼するという決心を、矢を打ち続けることで表明するヨアシュ王の決意表明の機会でした。ところが、彼は3回だけ矢を射て、止めてしまいました。偶像礼拝の罪が神への信仰と信頼を妨げたのです。「どこまでも主を信じる」という信仰、決意、覚悟がなかったのです。どっちつかずの中途半端な信仰、二心を主は喜ばれません。どこまでも主を信じる者になることを願っておられるのです。

主の勝利の矢は、あなたのどのようなピンチにも、助けとなり、力となり、救いとなります。勝利の矢を打ち続けるとは、信じ続けること、信頼し続けること、叫び続けること、求め続けることです。矢を止める時は、叫びが聞かれた時、主の勝利に感謝する時です。あなたが、どこまでも主を信じる者になることができますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グロリオサ、ユリ、トルコキキョウです。

 

2021年4月11日 主日礼拝メッセージ

「エマオの途上~主よ、共に宿りませ~」ルカの福音書 24章13~32節 金田洋介牧師

二人の弟子がエマオへの途上で復活されたイエスと出会いました。イエスとのやりとりと、彼らの変化に注目しましょう。

Ⅰ.聴いて下さるイエス 

イエスは彼らが道すがら論じ合っていた事について尋ねられました。これは顔を曇らせていた二人の心の奥底に触れるためです。おそらく、二人だけで論じ合っていた時は何の答えも出せないまま、モヤモヤしていたのでしょう。しかし、二人の間にイエスが入られたことによって交わりが生まれ、二人は自分たちの気持ちも交えて夢中になってイエスに語り出します(19-24)。イエスは、人生の途上にあるあなたにも近寄り、あなたの心の奥底にある思いを聴いて下さるお方です。

Ⅱ.イエスの御言葉を聴く

彼らの話を静かに聞かれたイエスは、ご自身について聖書に書いてあることを彼らに説き明かされました。すると、暗く沈んでいた彼らの心は燃やされていったのです(32節)。これはとても大切なポイントです。イエスに聴いていただいたら、今度は私たちがイエスの御言葉を聴くのです。暗い話題ばかり聞こえてくる今こそ、主の御前に静まり、御言葉を慕い求めるのです。御言葉にはあなたの魂を救う力があります。

Ⅲ.イエスから離れない~主よ、共に宿りませ~

この後歌う、新聖歌336「日暮れてやみはせまり」は、このエマオ途上の出来事を想起させます。歌詞の「主よ、共に宿りませ」は、心燃やされた弟子たちが必死にイエスを引き留めた言葉です。この後、彼らはイエスと共に食卓に着き、イエスからパンを受け取った瞬間に目が開かれ、自分たちと共にいた人物がイエスであることが分かります。イエスとの交わり、イエスの御言葉に心を開くなら、彼らのように心燃やされ、「主よ共に宿りませ」とイエスから離れたくないと願う者に変えられ、さらにはイエスご自身を明確に捉えることができるのです。

エマオの途上にあった弟子たちに寄り添われたイエスは、あなたの人生にも寄り添って下さるお方です。あなたの心の奥底にある声をイエスに聴いていただくところから始めようではありませんか。必ず、素晴らしい結果があなたに訪れることでしょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スノーボール、トルコキキョウ、ユリです。

2021年4月4日 イースター礼拝メッセージ

「永遠の希望と喜び~よみがえられたイエス~」マタイ28章1~10節

イースターおめでとうございます。世界中で祝われるイエスの復活は、私たち一人一人に関わる大切な事実です。

イエスが十字架で死なれてから三日目、女弟子たちは悲しみが拭えないまま、まだ夜が明けきらない中を歩いてイエスの納められた墓へと向かいます。すると、地震が起こりました。それは天から降って来た御使いが、イエスの墓を塞いでいた大きな石を動かしたからでした(2節)。彼女たちは、御使いに墓の中を見るように促され、恐れ戸惑いながら墓の中を覗くと、そこにあるはずのイエスの亡骸がどこにも見当たりません。すると御使いは、イエスが復活された事実を告げ、弟子たちに知らせるよう命じます(6節)。彼女たちは大喜びで走って行きました。女弟子たちが見た、この空の墓から、私たちの信仰は始まったのです。イエスは死から復活された!この事実が私たちの信仰の原点であり、この事実を信じる者がクリスチャンなのです。

彼女たちが弟子たちのもとへと向かう途中、今度はよみがえられたイエスが目の前に現れ、「おはよう」と声を掛けられました(9節)。この挨拶の言葉は、「喜びなさい」という意味を持つ言葉です。彼女たちを覆っていた絶望と暗闇の夜は明けた!喜びなさい!というメッセージなのです。絶望が希望に、悲しみが喜びに変わったのです。さらにイエスは、自分を裏切った弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。取り返しのつかない弟子たちの過ちをイエスは赦して下さったのです。イエスの十字架は、あなたのどんな罪も、どんな過ちも赦して救うのです。

私たちの生きているこの世界も、女弟子たちが経験したような絶望の暗闇が覆っています。未来に希望が持てないと不安に感じる人も多いと思います。しかし、どんなに世の中の状況が悪くなったとしても、イエスの復活がもたらす希望と喜びは決して失われません。たとえ暗闇と絶望が襲ってきたとしても、喜びの朝が、復活がもたらす希望が必ず訪れるのです。死と罪の問題を打ち破り、よみがえられたイエスが、解決出来ない問題は何一つありません。復活の主が、あなたの絶望を希望に、悲しみを喜びに変えて下さるのです!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ベニバナです。