投稿者「mayumi」のアーカイブ

2020年11月29日 主日礼拝メッセージ

「神の計画と約束の実現」創世記18章1~5節、21章1~7節 金田ゆり牧師

 マタイの福音書の主イエスの系図は、アブラハムから始まっています。イエス誕生に至る系図ができるために、そのさらに二千年前、大きなドラマがありました。それがアブラハムとサラの物語です。神はアブラハムに、あなたの子孫は星のごとく増えると、ご計画と約束を告げておられました。その計画はどのように実現していったのでしょうか。

  • 御言葉を携えて現れる主

18章の時点で、アブラハムには女奴隷ハガルによるイシュマエルが生まれていました。しかし、神は17章で「妻サラがあなたに男の子を産む」と告げられます。そして18章を迎えるのです。なんと主ご自身がアブラハムに現れて下さったのです。それは、来年の今頃、妻サラに男の子が生まれている、という明確な御言葉を携えて彼に告げるためでした。神は、あなたにも間違いなくご計画を立てておられます。あなたが祈っていること、抱えている問題に対しても、御言葉を通して計画を告げられ、御言葉を携えてあなたにも表れて下さるのです。

② 御言葉の実現を想像できないサラ、憐みの主

サラは主の御言葉を天幕の入り口で聞いていました。しかし、もう子を産める年齢ではなかった為、心の内で笑ってしまいました。主のご計画と約束の実現を想像できなかったのです。私たちも同じようなことがあります。主はあなたに、幾度となく御言葉を聞かせて下さってきました。しかし、本当にそうなるだろうかと想像できないことがあります。しかし、神は憐みの主です。「主にとって不可能なことがあるだろうか」ともう一度サラを励ましてくださいました。今、あなたにも同じ言葉で問いかけて下さっています。

  • あなたのための実現、壮大な計画のための実現

そしてついに、21章を迎えます。神様の計画、御言葉の約束が実現しました。サラが男の子を産んだのです。1節に注目しましょう。主は告げたとおりに、サラのために!行われたというのです。神は長年のサラの苦しみをご存じでした。子を産むことができず長く苦しみ、この年寄りに何の楽しみがあるだろうと、何の喜びも期待もなかったサラ。痛み苦しんできた彼女のために、神は御言葉を実現されたのでした。主なる神とはそのようなお方なのです。あなたの悩み苦しみすべて知っておられ、あなたのために御言葉を実現されるのです。それだけにとどまりません。救い主誕生という壮大な計画にアブラハムとサラの人生が関わっていたように、あなたのために立てられている計画は、あなたで完結しません。あなたの人生は、壮大な神のご計画の一部を担っているのです。神はあなたの幸いのために、そしてご自身のご計画のために、あなたに御言葉を与え、実現されるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ドラセナ、ユリ、グロリオサです。

 

2020年11月22日 主日礼拝メッセージ

「恵み深き神への賛歌」 詩篇15篇1~13節 金田洋介牧師

本日は、収穫感謝礼拝です。神の恵みを心に覚え、感謝をもって礼拝をささげたいと思います。詩篇の65篇、ダビデ王の讃歌です。
Ⅰ.礼拝の民としてくださった神への感謝  1~4節
ダビデは礼拝されるべきお方である神は、私たちの祈りを聞かれるお方であり、私たちの背きの罪を赦されるお方だと歌います(2-3節)。ダビデは、神に近付くことを許され、神と共に生き、神を礼拝する者とされた感謝を忘れません。

今年ほど礼拝できる幸いを感じる年はなかったと思います。新型コロナのために、会堂での礼拝を数か月間自粛しました。しかし、ネットを用いて自宅でも旅先でも、病室に居ながらも、毎週欠かさず礼拝できたことを神に感謝しましょう。

Ⅱ.被造物において認められる神の御力を畏れ、信頼する 5~8節
私たちが礼拝する神は、すべての創造者、世界の創り主です。人が認めようが認めまいがこれが事実です。この世界を見るならば、神がすべての被造物の秩序を保っておられることに気付くはずです。神はその御力をもって、私たちを守って下さるのです。神の御力を畏れ、そして心から信頼しようではありませんか。

このコロナ禍のイタリアで、無神論者である二人の医師が神に出会いました。新型コロナ感染拡大による医療崩壊で、精神的にも肉体的にも限界を超えた時、ある患者が聖書を読んで聞かせているのを彼らは聞きました。その人は牧師でした。人々が次々と死にゆく中、限界をとうに超えたその医者達は、その牧師が優しく語りかけ、手を握り、聖書を読み聞かせる姿に、彼ら自身も神に憐れみを求める必要に気付いたのです。無神論者だった彼らが、今では数分の時間を見つけては神に祈ります。暗黒の中で、全ての創造者なる神と出会ったのでした。
Ⅲ.良きものを恵んで下さる神への賛美と感謝 9~13節
豊かな収穫、良きものを与えて下さる神を賛美しています。良い者にも悪い者にも等しく雨を振らせてくださる神。更には、見えるところ、見えないところさえ満たして下さるお方です。人には神でしか満たすことの出来ない渇きがあります。その全てを神は豊かに満たして下さるのです。神は、恵み豊かなお方です。

知恵も平和も、平安も癒しも、具体的な何かを、あなたの渇きを神に申し上げるのです。ひとり子イエスを犠牲にしてまであなたを愛して下さったお方は、あなたに最善を成し、豊かに満たし、喜びの賛美をささげる者に変えて下さるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、アルストロメリア、ユキヤナギ、グラジオラスです。

 

2020年11月15日 主日礼拝メッセージ

「力強い神の御前に跪きなさい」エステル記8章1~14節 金田洋介牧師

 8章は、ハマンが企てたユダヤ人殲滅の法令に対抗するため、モルデカイがユダヤ人に自衛を許す新しい法令を発布した場面が記されています。大逆転の結末を迎えたエステル記。ここに至るまでには、神の鮮やかな伏線があったのです。

Ⅰ.エステルを通して張られた神の伏線(5章)

エステルは法律違反を承知の上で王宮の内庭へとやってきました。違反者は死刑になる可能性もある中で、彼女は王の好意に与り、ユダヤ人救出のチャンスを得ます。ところが、彼女はユダヤ人救出を願わず、ハマンと共に酒宴に招いたのです。この後、一回目の酒宴の席でも願いを告げるチャンスがありながらも彼女は告げず、王たちを再度酒宴へと招いたのです。彼女の本意は著されていませんが、この判断と行動に神が介入されます。

Ⅱ.モルデカイを通して張られた神の伏線(6章)

エステルの態度が気になったのか、「その夜、王は眠ることができなかった」(1節)ので、日々の記録を聞くことにしました。すると、かつて王を暗殺者の手から救ったモルデカイが、未だ褒美を受けていない事を知りました。するとその時、モルデカイ抹殺の許可を求めて王宮にやってきたハマンに、王はモルデカイの功績を讃える備えを命じたのです。王の不眠、モルデカイの手柄の記録、丁度居合わせたハマン、彼らの意思と行動に神が介入されているのです。

そして、全てが一つに繋がる神の時がやってきました。面目丸潰れのハマンは気を取り直し、王妃エステルが主催する酒宴へと臨みます。宴の席で王がエステルの願いを尋ねると、彼女は自分がユダヤ人であり、自分も同族も滅ぼされようとしていること、そしてハマンが首謀者であることを告げたのです。王を激怒させたハマンは、モルデカイを吊るすために自ら立てさせた柱に、彼自身が吊るされるという無残な結末を迎えたのです。

私たちは、私たちの全ての意思と、行動の背後に神が関わっておられることを信じ、神を畏れ、神の御前に跪くものでありたいのです。神はあなたを通して、ご自身の力強い御手を動かし、あなたの想像を遥かに超える、神の御業を見せてくださるでしょう。「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、モンステラ、トルコキキョウ、バラ、ヒペリカムです。

 

2020年11月8日 主日礼拝メッセージ

「まことの謙遜と信仰」マタイの福音書15章21~28節 金田ゆり牧師

 イエスがツロとシドンの地方に行かれた時のこと。カナン人の女性が「主よ、ダビデの子よ」とイエス様に向かって叫びました。悪霊につかれている娘を癒していただくためです。何度も何度もイエスに叫び続ける女性。あなたには、祈り叫んでいる課題があるでしょうか。それは時に苦しく、本当に聞かれるだろうかと、叫び続けることが難しく感じることはありませんか。

  • 沈黙され、拒絶されるイエス

叫び続ける女性に対して、イエスは沈黙されました。弟子たちもそのお姿に困惑して声をかけますが、「わたしは、イスラエルの家の失なわれた羊たち以外のところには、遣わされていない」。女性の願いを拒否されたのです。しかし、このお言葉は、異邦人、カナン人の彼女の心を照らすお言葉でした。主の忌み嫌う罪を犯し続けるカナン人。彼女も例外ではありません。彼女の心は光があてられ心探られたでしょう。イエスは意味のない沈黙、拒否はされません。心に光を当て、探られるのです。

  • イエスを礼拝した女性

イエスの言葉に心刺された女性は、イエスの前にひれ伏しました。これは礼拝を意味しています。過去の罪と決別し、イエスだけを礼拝したのでした。そして「主よ、わたしをお助けください」と叫んだのでした。イエスが聞いて下さらないならもう望みがない。一切の希望をイエスだけに託して彼女は叫んだのです。

  • まことの謙遜と信仰

やっとイエスは彼女に口を開かれました。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは良くないことです」。子どもであるイスラエルと、ペットの小犬である彼女。これは彼女が本当に過去を悔い改め、イエスだけを礼拝しすがっているのか、その反応を引き出すお言葉です。彼女は「主よ、そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます」。私は聞いていただく資格はない者です、と彼女は遜りました。しかし、こんな私でも恵みのおこぼれはいただけるのではないでしょうか!と彼女は大胆な信仰でイエスにすがりました。イエスは「あなたの信仰は立派です」と力強いお言葉で彼女の娘を癒されました。本来、祈る資格も聞かれる資格もない私たちです。どんな時も身を低くし遜り、答えを得るまで祈り続ける。まことの謙遜と信仰をイエスは喜ばれるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヤマテラシ、トルコキキョウ、ゆり、オンシジュームです。

 

 

 

 

2020年11月1日 主日礼拝メッセージ

「キリストこそ私たちの平和」エペソ人への手紙 2章14~22節 金田洋介牧師

 本日の聖書箇所から、イエスこそ神との和解と平和、そして、人との和解と平和を私たちにもたらして下さったお方であることを覚えたいのです。

Ⅰ.神に近い者となる~神との和解と平和~ 

エペソ教会に集う人々のかつての姿は、まさに「この世にあって望みもなく、神もない者たち(12節)」でした。事実、彼らは異邦人であり、偶像崇拝者でした。神の民に加えられない彼らは、アブラハムに約束された神の祝福からも除外された者であり、神の民とは全く無関係な者、いわば「孤児」のような存在でした。これはエペソの人々に限らず、今日の私たちを指しています。しかし、神なく、望みなく、神から遠く離れていた異邦人の私たちが、主イエスの十字架の血によって、神と和解し、平和がもたらされたのです(16節)。

主イエスを信じる者は全て、常に神と親しく交わり、神の民にだけ約束された永遠にわたる祝福に与る者とされたのです。何という恵みでしょうか。

Ⅱ.二つのものを一つに ~人との和解と平和~ 

「二つのものを一つに」(14節)とありますが、これは敵対していたユダヤ人と異邦人を意味します。しかし、主イエスの十字架は「敵意」という壁によって隔てられた両者の間に、和解と平和をもたらしたのです。両者の和解と平和は、「新しい一人の人」(15節)、つまり「新しい神の民」の誕生をもたらしたと、そして、キリストの平和によって結ばれた、この神の民の集まりこそが、教会のあるべき姿であることをパウロは伝えたのです。

イエスによって、神との和解と平和、人との和解と平和がもたらされましたが、私たちの家庭の中に、夫婦、親子、兄弟の間に、職場や、地域の中に平和はつくられているでしょうか。神は私たちが仲たがいしたままでいることを望んではおられません。だからこそ神は、イエスの十字架によって、敵意で隔てられた私たちの関係に「和解と平和」を生み出して下さったのです。イエス・キリストの十字架は、私たちの罪の身代わりにとどまりません。人と人を和解させ、神と人とを和解させる、平和の十字架です。実に、キリストこそ私たちの平和です!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、アレカヤシ、トルコキキョウ、ユリ(リップグロス)、オオデマリです。

 

教会での礼拝再開のお知らせ

熊本真愛教会では、新型コロナウィルス感染予防に留意しつつ、教会での礼拝を再開しております。

今後、予告なくインターネット礼拝になることもありますので、お越しの際はお電話にて教会にお問い合わせの上お越しください。

新型コロナウィルスの、一日も早い終息を心よりお祈りいたします。

2020年10月25日 主日礼拝メッセージ

「恵みによって与えられた平安」ヨハネの福音書14章27節 金田洋介牧師

 今日の聖書箇所は十字架前夜のイエスの御言葉です。弟子たちはイエスがいなくなることを恐れ、不安の中にありました。弟子たち同様、これから起ころうとすること、起こってもいないことでもすぐ不安になる私たちです。しかし、イエス様は言われます。「わたしはあなたがたに平安を残します」と。

①イエスが残して下さる平安

これは、イエスの御言葉の体験に基づく平安です。福音書を見るならば、イエスの御言葉が確実で真実だとハッキリわかります。イエスの御言葉と御業に失敗は何一つ無く、力ある真実な御言葉でした。イエスは、「天地が滅びても、わたしの言葉は決して滅びることはありません」と言われました。イエスの御言葉は、間違いなく私たちの人生の中に生きて働き、真実であることを現されます。「イエスはこれまでも守ってくださった。御言葉が真実であることを体験させて下さった。そしてこれからも守って下さる!」と、私たちを確信へと導き、揺るがない平安を私たちに与えて下さるのです。

②イエスの与える平安

イエスを信じることによって与えられる平安です。これは単に、安心安全を与えて下さるということではありません。イエスは、私たちの力ではどうすることもできない、罪と死の問題から私たちを解放してくださいました。この問題さえ解決された方が、最後まで私たちの人生を導き、永遠に責任を持って下さるということです。さらにイエスは、その平安を「世が与えるようには与えません」と言われました。つまり、世の中の様に条件付きではなく、何ができなくても、どんな状況でも、与えて下さる平安。すなわち、一方的な恵みによって与えられる平安なのです!それがイエスの与える平安です。

私たちの人生には、様々なことが起こります。しかし、イエスご自身が平安を与えてくださいます。どんな楽しいことをしても、それは過ぎ去るものであって、本当の平安をもたらしません。何にも奪われない、失われない真の平安を、イエスご自身から受けようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ハイビスカス、カーネーション、スカシユリ、菊です。

 

2020年10月18日 主日礼拝メッセージ

「イエスが望んだ者たち」マルコの福音書 3章13~15節 金田洋介牧師

 イエスが多くの弟子たちの中から十二人の使徒を選び立てられた場面が描かれています。イエスは夜を徹して祈り、十二人を選ばれた(ルカ)とあります。それほどまでして選んだ使徒ですから、信仰深く、人格も品性も整った、素晴らしい人物像を想像しますが、実際は一癖も二癖もある個性豊かな人達ばかりでした。元取税人マタイ、過激な一派に属していたシモン、気性の激しい性格から雷の子(ボアネルゲ)と呼ばれたヤコブとヨハネ、盗人(預かっていた財布の中身をごまかしていた)イスカリオテのユダと様々です。しかし、彼らこそがイエスが望んだ者たち(口語訳:イエスの御心にかなった者たち)だったのです。イエスがこの十二弟子を選ばれた目的が記されています(v14b-15)。

①自分の側に置くため。

イエスは弟子たちを側に置き、彼らと生活を共にすることで、彼らを教え、訓練し、他の弟子を導くリーダーとして育てようと思われたのです。

②遣わすため。

1)福音を宣べ伝えるために遣わされました。彼らはイエスによってもたらされた神の国の訪れ(神による愛の支配)を宣べ伝える者として用いられました。

2)悪霊を追い出す権威を持って遣わされました。イエスが悪霊を追いだされたように、弟子たちにもその権威をお与えになりました。

弟子たちはイエスと共に行動することで、イエスの愛に触れ、大いなる御業を見、己の愚かさを知り、大きな失敗と挫折を経験しました。しかし彼らは、ペンテコステに聖霊に満たされ、大胆にイエスの十字架と復活を宣べ伝え、他の弟子たちのリーダーとして用いられ、イエスがなされた奇跡をも行いました。彼らは天に召されるまで、主イエスの使徒(遣わされた者)として、走るべき行程を走り抜いたのです。

今日、私たちはイエスの弟子としてこの世に遣わされています。神の愛を知らない人たちに神の愛を表し、聖書の価値観に生きて証し、悪霊の支配からの解放をとりなし祈り、イエスの弟子としての使命を全うしようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユリ、ドラセナ、ダリアです。

 

 

2020年10月11日 主日礼拝メッセージ

「自分の罪深さを悟ったなら…」ルカの福音書7章35~50節 金田洋介牧師

イエスがパリサイ人シモンの家に食事に招かれ、食卓に着かれた時のことです。一人の女性がシモンの家に入って来ました。イエスがシモンの家に招かれたことを聞きつけてやってきたのです。彼女は泣きながらイエスの足元に近づくと、涙でイエスの足を濡らし、髪の毛で拭いました。そして高価な香油を足に塗ると何度も口づけしたのです。この時代では客を招いたなら、客の足を水で洗い、頭に油を塗るということが当然の礼儀でした。ところがシモンは、挨拶どころか、するべき礼儀をことごとく無視した無礼な態度で、イエスに恥をかかせたのです。また、心の中では、イエスに対する非難と、女性の罪に対する裁きの思いで満ちていました。シモンと女性の態度はとても対照的です。

シモンの心を見抜かれたイエスは、あるたとえ話をされました。ある金貸しが一人に500デナリ、一人に50デナリを貸したが、どちらも帳消しにして許してやったというのです。ここでイエスはシモンに尋ねます。「二人の内どちらが、金貸しを余計に愛するか(感謝するか)」と。シモンは、「多くの額を帳消しにされた方です」と答えます。するとイエスは、「シモンが何一つしてくれなかったことを、この女性はすべてしてくれた」と女性を行動を褒めつつ、「この女性が多く赦されたことは、わたしに示した愛でわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言われました。シモンと女性の行動の差は、罪の自覚の大きさです。自らの罪深さを悟り、心から悔い改めた者は、赦された感謝と喜びを最高の愛と行動で示すのです。私たちもこの女性の信仰に倣う者となりたいのです。

①主の御許に行く。パリサイ人の家に入ることは大変勇気が要りましたが、イエスへの愛を現す為に御許に近付いたのです。私たちにとっては毎週の礼拝を守ることや、祈りや奉仕、献げ物と言えるでしょう。

②惜しみなくささげる。あなたが捧げられる最高の愛を神に捧げましょう。

③感謝し、愛し続ける。どれほど愛しても、イエスの愛と犠牲には到底及びません。しかし、払いきれない罪の負債が贖われ、赦された者として、イエスに心からの愛と感謝を現し続けようではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、グロリオーサ、ドラセナ、アルストロメリアです。

 

2020年10月4日 主日礼拝メッセージ

「今一度、安息日について考えよう」マルコの福音書 2章23~28節 金田洋介牧師

 私たちキリスト者にとって、一番身近で大切な日は日曜日(安息日)であると思います。本日の箇所は、安息日を巡ってイエスとパリサイ人とが論争する場面が記されています。ある安息日、イエス一行が麦畑を通っていると、弟子たちは麦を摘み始めました。それは旅人や貧しい人の為に残されていた麦で、摘んで食べてよいと律法で決められていました。ところが、パリサイ人達は彼らの行為が、安息日にしてはいけない「収穫」と「脱穀」の労働に当たると批難しました。イエスはダビデを例に挙げ(1サムエル21:1-6)、弟子たちへの不当な訴えに反論されると、「安息日は人のために設けられたのです(27節)」と律法の本質を突かれました。当たり前に過ごす、日曜日(安息日)を私たちも考えたいのです。

安息日の起源は出エジプト記20章8~11節。「創造のわざを終えられた神様が七日目に休まれ、聖別されたように、安息日を聖別して特別な休息の日としなさい。」と命じました。これは画期的なことでした。安息日は身体のみならず、心と霊との安息のためにあります。「働き方改革」が叫ばれる今の世ですが、何よりも神様が設けられた安息日を聖別し、霊肉の安息を心掛けて過ごしたいのです。

次に、申命記5章12~15節では、安息日は「神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷支配から救って下さったことを覚えるためにあること」を教えています。現代を生きる私達は、安息日が来る度に、御子イエスの十字架の死と復活によって罪と滅びの支配から救われ、永遠の命が与えられたことを覚えて過ごしたいのです。周囲から「どうしてそこまで、日曜日を大切にするのか」と不思議に思われるでしょう。私たちにとって、安息日に献げる礼拝は習慣的なものでも、形式的なものでもありません。神様がイエス・キリストを通して成された大いなる御業を覚え、心からの感謝と、神様の恵みへの応答としてささげているのです。

安息日は、神様の愛と恵みを確認する日でもあるのです。どうか、あなたにとって安息日が他の日とは全く違う、特別な日となりますように。あなたの霊肉の安息、そして、あなたが神様と深く交わり、神様の深い愛に包まれる幸いな、スペシャルな日になりますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユーカリ、ミヤマリンドウ、アルストロメリア、トルコキキョウ、ユリです。