投稿者「mayumi」のアーカイブ

2022年10月9日 主日礼拝メッセージ

逃れの町に見るキリストの贖いとキリスト者の役割り民数記35章1~15節 金田洋介牧師

33章の最後から、カナンの地に入った時にイスラエルがするべきことが記されています。そして35書では、レビ人の為の居住地を各部族に割り当てられた土地から分け与えるべきこと、そのうちの六つの町を逃れの町とすることが記されています。逃れの町とは、過失によって人を死に至らしめた人が逃げ込むことのできる町です。留まり続ける限り、復讐者の手から命が守られます。そして大祭司が死んだとき、その人の罪は大祭司の命によって贖われ、元の生活に戻ることが赦されたのです。(詳細は9~29節)

この逃れの町に、イエス様によってなされた私たち人間の罪に対する完全な贖いを見ることができます。ヘブル人への手紙9章11~12節にはこうあります。

しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。

大祭司は犠牲の動物の血を携えて聖所に入り、民の罪のための贖いをしますが、それは毎年繰り返されなければなりませんでした。しかしイエス様は、御自身の掛けがえない命を犠牲として献げ、十字架の上で死ぬことによって、私たち人間の罪は完全に取り除かれ、罪の赦しの恵みがもたらされたのです。ですから、逃れの町に逃げ込んで命を守られてきた罪人が、大祭司が死ぬことによって赦しを与えられ、もとの生活に戻ることができるという贖いの恵みは、後に真の大祭司として世に来られたイエス様の十字架の死によって、完全な贖いが与えられるということを表していたのです。

民数記の時代になされた贖いは、イエス様による完全な贖いの型としてなされ、後にイエス様によって実現しましたが、この救いが今日を生きる私たちまで及んでいるとは何という驚き、何という幸いでしょうか。もし、あなたがイエス様を信じ受け入れるなら、完全な罪の赦しに与り、イエス様を犠牲にしてまであなたを愛し、この救いを実現して下さった神様を礼拝する者、神様と共に生きる者とされます。また、すでに信じているあなたは、この大いなる救いをいただいた者として神様を礼拝することはもちろん、この救いを知らない世の人々に宣べ伝え、執り成し祈っていくのです。それが、イエス様という尊い犠牲によって罪が赦され、神様の恵みによって神のものとされたキリスト者の役割りなのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スカシユリ、リンドウ、トルコキキョウ、ブルーベリーです。

 

2022年10月2日 主日礼拝メッセージ

「何ものにも妨げられない神の祝福」民数記22章1~6節、24章1~9節 金田洋介牧師

 

本日の出来事は、イスラエルの民を恐れたモアブの王バラクが、まじない師バラムを招き入れようと企てたことから始まります。バラク王は呪いの力でイスラエルを貶めようとしたのです。王の使者たちがバラムの所に訪れると、まじない師のバラムが神様に御心を伺っています。彼にとって必要なのは神様の力だけでした。彼は神様のお言葉に従い、バラク王の招きを断ります。しばらくして、再び王の使者がやって来ました。今度は多額の報酬が提示され、バラムの心は揺れます。神様はバラムの本心を見抜き、彼の出発を許されます。ところが、途上でバラムは不思議な体験をします(22:22~35)。その体験を通して彼は大切なことに気付かされ、神様の前に罪を悔い改めます。この体験後、バラムは神様の告げる言葉だけを語る者へと変えられます。

バラムを迎えたバラク王は、イスラエルの民が見える場所に彼を連れて行くと、イスラエルを呪うよう命じます。ところが、バラムはイスラエルを呪うどころか祝福を宣言します。イスラエルの祝福こそ神様の御心だったたからです。納得のいかないバラク王は、場所を変えて再度呪うよう命じます。しかし、バラムはそこでもイスラエルを祝福します。すると王は三度場所を変えますが、驚くことが起こります。なんと、バラムが神様の霊に満たされ、イスラエルの祝福と勝利を宣言し、さらに来るべき救い主について預言したのです。このように、バラクの企みは神様によって打ち砕かれたのでした。

これらのことはイスラエルの民の知らない中でなされた出来事です。イスラエルの民は、バラクの企みもバラムの存在も知りません。民の全く知らないところで、神様は彼らを守り、呪いを祝福に変えて下さったのです。私たちもそのような神様の守りの中に置かれていることを覚えたいのです。詩篇121篇にありますように、神様は眠ることもまどろむこともなく、私たちの日々を守っておられるのです。

最後に、「占い」や「まじない」が私たちの身近にあり、テレビや雑誌、ネットでも目にしない日はありません。実に多くの人々の人生に影響を及ぼし、神様を信じている私たちの心をも揺さぶってきます。しかし、恐れてはなりません。バラムが神様の霊に満たされて預言した救い主イエス様は、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、神様の裁きを受けて下さいました。しかし、このお方は死からよみがえられたのです。それはつまり、私たちが罪と死の呪いから解放され、神様と共に生きる命と永遠の命を与えて下さったということです。ですから、いつでも、どこでも神様の祝福が私たちを取り囲んでいるのです。神様の祝福とは、私たちを罪と死から救うために、ひとり子を与えてまで愛し、救って下さった神様と共に日々を過ごすことです。これこそが、何ものにも妨げられない神の祝福です。どうか、この神様の祝福の中に留まり、あなたの大切な方々もこの祝福の中に留まることができるように祈り求めて参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、シオン、ユリ、リンドウ、ケイトウです。

2022年9月25日 主日礼拝メッセージ

「知れ、わたしこそ神」 詩篇46篇1~11節  金田ゆり牧師

 

詩篇46篇が書かれた背景には、アッシリアに包囲され絶体絶命のピンチに追いやられた南ユダが、神様に依り頼み、神様が絶大なお力をもってアッシリアを撃退された、という歴史的事実があります。私たちの人生には、神様の許しの中で避けられない困難があります。私たちに必要なのは、困難が全く起きないように願うことではなく、困難を乗り越える力なのです。

  • 神はわれらの避け所、力、強き助け 1~4節

作者は開口一番、神というお方はどのようなお方であるかを告白します。神は、困難が押し寄せるときの、避け所。どんな困難も乗り越えさせてくださる力。誰よりも早く手を差し伸べ助けてくださるお方。天地を創られた神は、われらと人格的に関わり、現実的に、具体的な助けとなってくださる。2~3節は、徹底的な破壊に直面する様を現わしていますが、そのような破壊の中でも「われらは恐れない」と言うのです。大軍アッシリアに囲まれたにも関わらず、圧倒的な勝利を与えられた神様を体験したからこその告白です。あなたのぶつかっている困難は、この告白があなたのものとなるためにあるのです。

  • われらの手の及ばぬところでの圧倒的勝利  5~7節

神に依り頼むものは、決して揺るがされることがありません。人間がどれだけ最善を尽くしても限界があります。しかし、このお方に信頼する時、思わぬ勝利の追い風を経験します。アッシリアの大軍は、夜のうちに完全に撃退されました。「朝明けまでにこれを助けられる」とは、我らの手の全く及ばないところでの勝利と言うことができます。このお方に信頼するなら、このお方の圧倒的勝利を、あなたはその目で見ることになるのです。

  • 神を知るための人生 8~11節

直接的には、神様がアッシリアを打ち破り戦いをやめさせたこと。また、この歴史の中で起こっているすべての戦争をやめさせてくださる預言的意味もあります。神様の強制終了が必ず来るのです。私たちの人生で戦いが起こることは避けられませんが、神様の勝利も避けられない確実なものです。「やめよ」!と権威をもって戦いをやめさせるお方は、「知れ。わたしこそ神」と言われます。わたしこそ、あなたの神であることを知れ。私たちの生涯はこのお方を知るための生涯です。避けられぬ戦いは、このお方を知るためにあるのです。ああ、確かに神はわれらの避け所。力。強き助け。われらの手の及ばぬところで勝利してくださるお方。このお方こそ、神で在られる。このお方こそ、私の神である。あなたがこのお方に信頼し、困難を乗り越え、生涯をかけてこのお方を深く知ることができますように。神を知る喜びに満ち溢れた生涯でありますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、スターチス、ユリ、ヒマワリ、ドラセナです。

熊本真愛教会創立40周年記念礼拝のお知らせ

熊本真愛教会は、創立40周年を迎ました。つきましては、2022年10月16日に、記念礼拝式を執り行います。特別ゲストとして、ピアニストであり敬虔なクリスチャンである、田中恵子さんをお迎えいたします。田中さんの美しいピアノの調べと信仰の体験談、金田洋介牧師によるバイブルメッセージの特別プログラムとなっております。是非、お気軽にお越しください。

40周年記念礼拝チラシ.pdf

2022年9月18日 敬老祝福礼拝メッセージ

「落胆で終わらない人生」Ⅱコリント4章16~18節  金田洋介牧師

 

「落胆させられるようなことがあっても落胆しない。たとえ、外なる人が衰えても、内なる人が日々新たにされる」と告白するパウロに注目しましょう。

パウロは伝道者生涯の中で、あらゆる肉体的苦痛、精神的苦痛を経験してきました。また、生来の弱さや持病もあったと思われます。彼は自分自身も含め、私たち人間の身体を「土の器」、「外なる人」と呼び、脆く壊れやすい肉体、老いや衰え、弱さや脆さを表しています。これは彼が経験した迫害や挫折という多くの困難が背景にあります。私たちも健康に不安を覚えることがありますし、悩みや弱さを経験します。しかし、神様を信じ、イエス様を信じる者、そして、今は信じていなくても、もし信じる者になら、一時、落胆するようなことに直面したとしても、それで終わらないというのです。

パウロは落胆で終わらない理由を、土の器である私たちの内に「宝」が入っているからだと言います。宝とはイエス様によってもたらされた豊かな恵み(素晴らしく、驚くべきこと)のことであり、文字通りあらゆる形で (罪の赦し、永遠の命、神の愛、御霊の実と様々) 私たちにもたらされるのです。これは「神からの測り知れない力」によるもので、私たち自身の力では成し得ません。肉体的、精神的な苦痛を味わい、外なる人(肉体)も老い、弱さを実感したパウロでしたが、イエス様によってもたらされた、この数々の恵みと神様ご自身の力によって強められ、その伝道者生涯を力強く全うしたのです。

確かに、私たちの現実は悩みと憂いは尽きず、外なる人は土の器のようにボロボロになって行くかもしれません。しかし、「私たちは決して落胆しません。なぜなら、内なる人は日々新たにされているからだ」とパウロは語ります。これはどういう事でしょうか。イエス様を信じるなら、イエス様と共に生きる人生(交わり)が始まります。イエス様との交わり(祈ること、御言葉を聞くこと)は、私たちの日々の歩みに変化をもたらします。それは、これまでとは違う「捉え方」、「考え方」を持つようになるのです。これまでは自分中心に考え、行動していたのが「神様中心、イエス様中心」に変化し、自分の誉れ、誇り、利益に生きる歩みから、「神様の栄光のため(神様の素晴らしさが明らかにされる)」に生きる歩みに変わり、「神様の御心(お考え、望まれていること)」を積極的に祈り求める者へと変えられていくのです。そして、それらの歩みを経て「私たちは落胆しない。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされている。」との信仰告白、神様が私たちの人生に生きて働かれた事実を証しする者とされるのです。

たとえ、外なる人は衰えても、日々新たにされる幸いが私たちにはあります。落胆させられることが起こっても、私たちに内にある宝、恵みという宝、望みという宝が、私たちに力をもたらしてくださるのです。どうか、この素晴らしい恵みを与えて下さった神様と共に歩んで行こうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、テッポウユリ、トルコキキョウ、ワックスフラワーです。

2022年9月11日 主日礼拝メッセージ

「仰ぎ見れば生きる」民数記21章4~9節  金田洋介牧師

これまで民数記の学びを重ねてきましたが、さすがにイスラエルの不満や呟きを聞くのも嫌になってきそうです。しかし、本日も民の不満から始まります(4~5節)。

特に5節の後半を他の訳では「気力もうせてしまいます」(新改訳2017:飽き飽きしている)」とあります。表向きでは食物に対する不満ですが、力のない様子が伺えます。これは、20章14節以降に記されている、カナンの地を目前にしての迂回することになった出来事とアロンの死が原因でしょう。前回開いた神様の宣告通り、アロンはカナンの地に入ることなく召されました。しかし、このような困難は今に始まったことではありません。これまで幾度となく神様は民の求めに応え、養い導いて下さいました。ですから、ここで民が取るべき行動は、神様の前で嘆き呟くのではなく、これまで憐みと真実を尽くして下さった神様に信頼するべきだったのです。

民の言動と行動に対し、神様は燃える蛇を送ります(6節)。蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人が死にました。民は神様の裁きであると理解し(彼らのつぶやきは単なるつぶやきではなく、神様ご自身を否定した罪。)、自分たちが罪を犯したことを認め、モーセに助けを求めます。するとモーセは、神様に命じられたとおりに行動し、青銅の蛇を作ると旗ざおの上に掲げました(8~9節)。すると、神様のお言葉通りに青銅の蛇を仰ぎ見る者は皆、かまれても生きることができたのです。

この出来事から教えられることは、神様は「聖(聖いお方)」であり「愛(愛なるお方)」であるということです。「なぜ、神様はイスラエルの民を愛しているのに、『燃える蛇』で民を苦しめ、死なせたのだろう」と思います。けれども、神様は「愛」であると同時に「聖」であられます。聖いお方であるからこそ、罪は罪として裁かれるのです。イエス様はヨハネ3章において、『モーセが蛇を上げたように、ご自分が全人類の罪の身代わりとして、十字架の上に上げられなければならないこと、そして、ご自身を信じる者は全て永遠の命が与えられる』と教えています。イエス様はこの言葉通り、私たちの罪を負い、神の裁きを身代わりに受け、救いを成し遂げて下さいました。それは同時に、神様の「聖さ」と「愛」が現わされた瞬間でもあったのです。私たちがイエス様を仰ぎ見るなら、すなわち、イエス様を救い主と信じて罪を告白するなら、私たちの罪はイエス様の血によって赦しきよめられ、神様との親しい愛の交わりが回復し、神様と共に生きる命の日々を歩むことができるのです。

また、イエス様を仰ぎ見るとは、イエス様(神様)の御言葉に従うことでもあります。モーセが御言葉に従い、イスラエルの民も御言葉に従ったことによって生きることができました。「御言葉を信じ、御言葉に従う」この単純で最も大切な応答を、神様は求めておられると同時に、神様はこの様な信仰者にご自身の栄光を現して下さるのです。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、ケイトウ、リンドウです。

2021年9月4日 主日礼拝メッセージ

「メリバの水の畔で」民数記20章1~13節  金田洋介牧師

 

これまで民数記を見てきて分かったことは、モーセにとっての40年間は、頭を痛めることの連続であったということです。民の呟き、不平や不満に心を痛めながらも、民と神様の間に立ってとりなしてきたのです。ところが、20章も民の不満から始まります。

民は水を求めてモーセに不満をぶつけます(2-5節)。確かに、荒野を旅する民にとって水はとても貴重です。しかし、水をめぐる困難はこれが初めてではありません。憐み深い神様は、水はもちろんのこと、うずらの肉、そして天のパンであるマナを与え続けて下さったのです。それにもかかわらず、民は神様の愛、神様への信頼を見失い、不満をぶつけたのでした。

一方、モーセとアロンは民の前から退き、神様の御前にひれ伏し導きを求めたのです(6節)。問題を真っ先に神様に打ち明ける姿は、今日を生きる私たちも見習うべき姿勢です。すると神様は、「杖を取り、岩に命じて水を出させなさい」と告げられます(8節)。モーセはただこのお言葉に従えば良いはずでした。ところが、何度も呟く民へ怒りか、それとも、「岩に命じるだけで本当に水が出るのだろうか」という疑いがあったのか、モーセは神様のお言葉に従わず、杖で岩を二度叩いたのです。しかも、「神様が」水を与えて下さるのに、「われわれが」と、あたかもモーセとアロンが水を与えるかのように言ったのです。結果として、神様は水を与えて下さいましたが、神様の命令に背いたばかりか、水を与えて下さる神様に栄光を帰さなかったモーセとアロンは、この故にカナンに入ることが出来ないと告げられたのです。

私たちが覚えておくべき大切なことは、神様の御言葉を行うこと(実行すること、従うこと)が神様の栄光に繋がるということです。御言葉を行うことに対して、「これぐらい、いいだろう」と妥協し、神様の御言葉を知っていながら、聞いていながら、心にありながら、初めから知らなかった、初めから聞いてないかった、初めから心になかったかのような態度をとることは、神様を悲しませることであり、神様の素晴らしさを卑しめることになることを覚えたいのです。そしてもう一つ、神様は、イスラエルの民に求められたように、今日を生きる私たちクリスチャンを通して、神様の御言葉を愛し、行うことの素晴らしさ、恵み、神様の正しさ、聖さが証しされることを願っておられるのです。

この水場はメリバ(争うの意)と呼ばれました。確かにそこはメリバの水、争いが生じた水場でしょう。人間と人間が争い、人間が神様に反抗し争ったのです。しかし、神様はそのような場所を豊かな水辺、いのちの水辺にして下さいました。神様はご自身の栄光のために、ご自身の御言葉を実現して下さったのです。私たちもモーセやイスラエルの民のように失敗したり、間違ったり、自己中心な思いに支配されたり、誤った行動を取ってしまうことがあるでしょう。しかし、憐み深い神様は、あなたがいる所どこにでも共におられ、責任を持って助け、導いて下さるのです。何と幸いなことでしょうか。失敗しつつも神様の御業を見、体験する、その様な経験の繰り返しが、あなたの神様への信仰と信頼を確実なものとしていくのです!

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。先週は、メッセージの投稿をお休みしましたので、2週分お花の写真をお載せします。
8月28日のお花は、ハラン、スターチス、ユリ、ガーベラです。

9月4日のお花は、ジャスミン、グロリオサ、ユリです。

 

 

2022年8月21日 主日礼拝メッセージ

「民の嘆きと神の憐み」民数記13章32節~14章4節、14章29節~31節  金田洋介牧師

民数記シリーズ6回目です。イスラエルの民が目的地カナンに到着するまでには40年という月日を要します。なぜそんな長い年月がかかってしまったのか、原因の出来事が本日の箇所ですが、そこに至るまでの流れを見ていきましょう。

・偵察隊の選出と派遣 13章1~31節

神様の命により、カナンの地の偵察のためイスラエル各部族から一名ずつ、12人が選ばれました。偵察したところ、カナンの地は神様が言われた通りの素晴らしい土地でした。しかし、巨人の子孫や屈強な民族がいたので、ヨシュアとカレブを除く10人はカナンの地を悪く言いふらし、民を躓かせたのです。

・民の嘆き 14章1~26節

民は動揺し泣き叫びました。民の不安と恐れはモーセとアロンへの批判、神様に対しての不満となって爆発します。神様は、私たちを荒野で殺すために連れ出したのだ、エジプトに帰ろう、と。神様の愛を拒み、否定してしまったのです。

・ヨシュアとカレブの訴え 14章7~26節

混乱する民に向かいヨシュアとカレブは必死に訴えます。のちにモーセの後継者となるヨシュア。そしてカレブ、この二人だけが神様への絶大な信頼を訴えました。大きな困難に直面した時、いかに日頃から神様と共に生き、共に歩んでいるかが問われます。

・神の怒りとモーセのとりなし 14章10~26節

神様は、不信仰な民を疫病によって滅ぼし、モーセから新しい神の民を起こそうと言われました。モーセは必死で民の為にとりなします。神様は疫病で民を滅ぼすことを思い直されましたが、罪の裁きが告げられることになります。

・神の裁き、神の憐れみ 14章27~35節

神様は、民が「この荒野で死んでいたらよかった」という呟きを聞いておられました。40日間の偵察の一日を一年として、40年間荒野を彷徨い、彼らの呟き通り荒野で死ぬことが定められたのでした。しかし、その40年間、マナは振り、水は与えられ、足は腫れず服は擦り切れませんでした。神様は民の子どもたちはカナンに入ることができると宣言されたのです。神様は愛と忍耐をもって彼らを導き、訓練されることを決心されました。民の罪と神様の愛を憐れみを自らに当てはめつつ、生きる限り神様の御手を離さず歩もうではありませんか。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、ケイトウ、ユリ、パンパスグラスです。

2022年8月14日 主日礼拝メッセージ

「まことの礼拝者」ヨハネの福音書 4章1~24節 金田ゆり牧師

イエスは、ガリラヤまで行く途中、ユダヤ人は普通なら通らないサマリヤを通られました。しかも、暑い昼間に水を汲みに来たサマリヤの女性に、飲み水を求められたのです。ユダヤ人男性がサマリヤ人女性に水を求めるとは。「どうして?」と女性はイエスに応答したことで、この女性の人生が変わる物語が始まります。そして、イエスと女性とのやり取り全体に、礼拝の本質が、在り方が現れているのです。

1.生ける水、み言葉への渇き

仲の悪いユダヤ人であるイエスに声を掛けられ、女性は大変驚きます。しかも、イエスは「生ける水」を与えて下さると言います。イエスが与えて下さる水、神の賜物は、永遠の命なのだとイエスは言われました。イエスの言葉全てを理解したわけではありませんでしたが、身も心も渇いている自分に気づいた女性は「その水を私に下さい」と切望しました。この姿こそ、まことの礼拝者の姿です。私たちは渇いて礼拝に来ているでしょうか。イエスが与えて下さる生ける水、み言葉をへの渇きがある人は幸いです。イエスが与えようとしているみ言葉、祝福の全てを受けることができるからです。

2.イエスの取り扱い

「その水を私にください」と言った女性に対して、イエスは、彼女の抱える問題の核心を突かれました。「あなたの夫をここに呼んで来なさい」。女性が絞り出した言葉は「私には夫がいません」。彼女の悲しい人生を集約した告白でした。イエスは、女性には5人の夫があったが今いるのは夫ではない、と言い当てられました。そのうえで、「あなたは本当のことを言いました」と女性の告白を良しとされ、彼女の悲しい人生を受け止めてくださいました。まことの礼拝とは、このようにイエスに取り扱われるところです。イエスはみ言葉を与えると同時に、私たちの抱える問題の核心を取り扱われます。これがまことの礼拝です。イエスはあなたを取り扱い、尽きない喜びであなたを満たしたいと願っておられます。

3.父が求めておられる、まことの礼拝者たち

心の内を取り扱われた女性の心は、神を礼拝すべき場所に向けられていきました。サマリヤ人の礼拝所を、ユダヤ人は否定していました。しかし、イエスは礼拝する場所ではなく、どのように礼拝すべきかを教えられます。「御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます」。聖霊の導きと、真理であるイエスの言葉によって、父なる神様は礼拝されなければならないのです。三位一体の神の、圧倒的臨在の中で私たちは礼拝をささげます。これがまことの礼拝です。ZoomやCDでの礼拝であろうとも、主日を特別な日として、礼拝を特別な時間とすることができますように。主の臨在を畏れ、父の求めておられるまことの礼拝をささげることができますように。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ヒマワリ、ユリ、トルコキキョウです。

2022年8月7日 主日礼拝メッセージ

「柔和の限りを尽くして」民数記12章1~15節 金田洋介牧師

本日の箇所は、姉のミリアムと兄アロンが、モーセの妻が外国の女性であることについて非難するところから始まっていますが、それは口実に過ぎず、本当の不満は別にあったのです。

彼らの本当の不満は、モーセが神様にとって特別であったということです(2節)。前回のイスラエルの民同様、不満の陰に罪が隠れていました。その罪は「妬み」「傲慢」「高ぶり」です。一方、モーセは姉と兄の不満や非難に対して一言も言い返しません。弁解もせず、怒りもせず、黙って二人の言葉に耳を傾けています。自分の欠点や至らなさを彼自身が認めていたからではないでしょうか。そのような態度を自然に取れるモーセだからこそ、「地の上のだれにもまさって柔和であった。」(3節)と紹介されているのでしょう。

アロンたちの言葉を聞かれた神様は、モーセが全イスラエルの中で最も忠実な者、そして「わたしのしもべ」と呼ぶほどの存在であることを二人に告げられ、二人に厳しい怒りを向けられます。神様が彼らから離れられると、ミリアムの皮膚がツァラアトに冒されていました。姉の姿を見たアロンはモーセに嘆願します。するとモーセは二人に対して恨み言をつぶやいたり、厳しく断罪したり、裁いたりせず、ミリアムの癒しの為にとりなし祈ったのでした。

アロンとミリアムの非難の根底にあったものは妬みです。ヤコブ3章14~18節の御言葉は、まるでアロンとミリアム、モーセの姿を表しているかのようです。そこでは、妬みや利己的な思いを止めるよう勧めています。利己的な態度(ここでは、自分が指導者として相応しいと考え、神様が選んだモーセを認めない態度)、真理に逆らう態度(モーセを否定するということは、神様の御心に逆らうことと同じ)は、二人の姿そのものです。一方、神様の御心に忠実で従順であったモーセの態度は、神様の知恵に満たされ、批判に対しても弁解せず、恨み言を言わず、アロンに対しても、ミリアムに対しても柔和の限りを尽くし、自分を貶めようとした二人のために神様にとりなし、最終的に平和と和解をもたらしたのです。

私たちが遣わされている世界は妬みや利己的な(自分の利益だけを求め、他者を顧みない)思いが渦巻く世界です。神様の愛を知っている私たちもその渦に巻き込まれ、彼らと同じ様に他者を妬み、蔑み、攻撃し、批判する側に立つようなことがあると思うのです。あるいは、私たちが批判の対象、攻撃の対象になることだってあるでしょう。ですから、神様からの正しい知恵と正誤を見極める力が必要です。自分の為に祈ると同時に、お互いの為に神様に祈り合おうではありませんか(ピリピ1:9~11)。私たちは、私たちの為に柔和の限りを尽くしてご自身の命を犠牲にして下さった主イエス様を信じる信仰によって全ての罪が赦され、さらには柔和なイエス様の御姿に似る者とされます。自分が置かれている環境、立場を思い巡らしながら、自分のために、互いの為に、祈ることが始めて参りましょう。

熊本真愛教会では、毎週講壇にお花が活けられています。
今週のお花は、ユキヤナギ、ユリ、ケイトウです。